自分が持っている機能や能力を活かすということ
神谷美恵子氏のお話です。長島愛生園の患者の大きな悩みの1つは退屈という事であった。それを少し調べてみると、それはむしろ軽症で身動きの強いような人の中に多かった。失明してしまった人々のほうがかえって精神的にはつらつと生きている場合が少なくないという結果が出た。例えば肢体不自由である上に、視力まで完全に失ってベッドに釘づけでいながら、なお窓外の風物のたたずまいや周囲の人々の動きに耳をすまし、自己の内面に向かって心の目をこらし、そこからくみとるものを歌や俳句の形で表現し、そこに生き生きとした生きがいを感じている人はかなりいる。ベッドの上に端座し、光を失った目をつぶり、顔をやや斜め上むきにして、じっと考えながら、ポツリポツリと僚友に詩を口授する人の姿。そこからは、精神の不屈な発展の力が清冽な泉のようにほとばしり出ているではないか。肉体的機能が制限された人は、かえってエネルギーと注意が許された狭い「生存の窓口」に集中して、密度の高い精神的な産物を作り出しうるのであろう。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 60ページより引用)神谷美恵子氏は、まだ十分身体の自由がきくような人は、自由であるということが、逆に退屈を助長させていると言われる。光を失った人は、自由に本や景色を見る事はできない。そんな自分を他人と比較して、卑下していてはますます辛くなるばかりである。ところが、ハンセン氏病のために物が見えない、自由な身動きができないという事実をありのままに認めるとどうなるのか。自分の身体状況を良い悪いという価値判断をしないで、あるがままに認めることができるようになる。そこを出発点にして、残された身体の機能を見直してみる。そうすると、指の機能が麻痺して点字は読めないが、鍛えれば舌先で読むことができるということに気がつく。目が見えないが、その分聴力、触る、匂うがそれを補おうとして、敏感になる。その方面の五感を鍛えていけば、健常者が見逃すような敏感な感覚をビンビンと感じることができる。そのような機能を生かしていけば、詩や短歌、あるいは随筆のようなものが書けるようになるのだ。心の中の領域で、大きな世界が広がっていく可能性があるのだ。そういう人は、健常者が退屈でつまらないと言っているときに、豊かなやりがいを見つけているのである。これは身体の機能が失われて、それをあるがままに受け入れられるようになったからこそ到達できた心境ではあるまいか。持っていないものを見つけて貪欲に追い求めるよりも、逆に自分が持っている機能や能力を一から見直して持っているものを活かすという心境に至ると生きがいが生まれる。これは森田では「己の性を活かし尽くす」ということになります。経済的に恵まれていて、欲しいものが何でも手に入り何不自由ない生活をしている人や飽食三昧の人が毎日何もすることがなく暇を持て余している人もいます。そういう人は神谷氏の話を参考にしてみたいものです。