現実的な不安と観念的な不安の違い
不安には現実的な不安と観念的な不安の2つがあります。現実的な不安は、このままの状態が続けば、危険が迫ってくることが予感されたときに湧きあがってきます。たとえば地震がくるかもしれない、巨大台風が上陸してくるかもしれない、線状降水帯が発生して土砂崩れが起きるかもしれない。現実には目の前に起きていないことでも、放置すれば間違いなく危険な目に合う確率が高い場合不安が湧き上がります。現実的不安の特徴は、不安の内容が一つに絞られているために、精神的な葛藤はありません。最悪の状況を想定してできるだけの対策をとることができます。そういう意味では不安の存在はありがたいものです。森田理論で「不安は安心のための用心である」というのはこのことです。不安は限定的で憶測が憶測を呼び様々な方向に飛び火することはありません。これに対して、観念的な不安というものがあります。言葉を使い、記憶力が発達し、大脳が高度に進化した人間ならではのものです。たとえば、ガンになっているのではないか。うつ病などの精神疾患になったらどうしよう。交通事故を起こしたらどうしょう。ビルの上から物が落ちてきたらどうしよう。食べ物のなかに毒が入っていたらどうしょう。子どもが不祥事を起こしたらどうしょう。あの人は自分のことをダメ人間と思っているのではないか。ガスの元栓を締め忘れているのではないか。これらは差し迫った危険がないにもかかわらず湧き上がってくるものです。今のところ危険であるかどうかすらわからないこともあります。確かめようがないことに対して、根拠のないことを捏造して思い悩んでしまう。観念的な不安の特徴は、不安の内容が複雑で曖昧です。簡単には解決法が見つからないことが多いものです。頭の中でやりくりをするために、次々と飛び火して拡大してしまいます。先入観、思い込み、決めつけ、早合点で事実を捏造すると手に負えなくなります。観念的不安は強迫観念と親和性が高いという特徴があります。最初は不安を取り除こうとしていたのに、気がつくと立場が逆転して、不安の方が自分を窮地に追い詰めているという笑うに笑えない状況に陥っている。最後には、自分の一生を左右するような大問題になり身動きが取れなくなっているのです。神経症になる人は、精神交互作用によって、観念的な不安を益々膨らまる傾向があります。最初に沸き起こった不安の状態を保つために、森田理論を活用することをお勧めします。その一つは、事実にきちんと向き合うということです。「幽霊の正体枯れ尾花」という話があります。夜道を一人で歩いているとザワザワと音がした。幽霊が出たと決めつけてしまうと、前後不覚になって石などにけつまずいて大けがをしてしまう。この場合、音の正体は何だろうと事実を確かめるようにすれば、気が動転するようなことにはなりません。私の体験では、明け方急に下腹が針の先でつつきまわされるような痛みがありました。自分の身体なのにどういう原因で痛みが発生しているのか分かりませんでした。これで死ぬかもしれないとパニック状態になりました。救急車で病院に運ばれ検査が行われました。その後診察した医師から尿道管結石だと告げられました。原因が分かった途端にパニック状態は霧散霧消しました。