男声合唱組曲「富士山」作曲多田武彦
詩:草野心平
一、作品第壹
麓には桃や桜や杏さき
むらがる花花に蝶は舞ひ
億萬萬の蝶は舞ひ
七色の霞たなびく
夢みるわたくしの
富士の祭典
ぐるりいちめん花はさき
ぐるりいちめん蝶は舞ひ
昔からの楽器のすべては鳴り出すのだ
種蒔きのように鳥はあつまり
日本のすべての鳥はあつまり
楽器といっしょに歌っている
夢みるわたくしの
富士の祭典
七色の霞は雪に映え
七色の陽炎になってゆらゆらする
鹿や猪や熊や馬
人はゐないか 人もゐるゐる
へうたんの酒や女の舞ひ
標野(しめぬ)の人も歌っている
ああ
夢みるわたくしの
富士の祭典
遠く大雪嶺からは黄鳥が
使者になって花を啣へて渡ってくる
三つの海を渡ってくる
二、作品第肆
川面に春の光はまぶしく溢れ
そよ風が吹けば光たちの鬼ごっこ
葦の葉のささやき
行行子(よしきり)は鳴く
行行子の舌にも春のひかり
土堤の下のうまごやしの原に
自分の顔は両掌のなかに
ふりそそぐ春の光に
却って物憂く眺めてゐた
少女たちはうまごやしの花を摘んでは
巧みな手さばきで花環をつくる
それをなはにして縄跳びをする
花環が圓を描くとそのなかに
富士がはひる
その度に富士は近づき
とほくに坐る
耳には行行子
頬にはひかり
三、作品第拾陸
牛久のはての
はるかのはての山脈の
その山脈からいちだん高く黒富士
大いなるはるか黒富士
さくらんぼ色はだんだん沈み
上天に金隈取の雲一点
存在を超えた無限なもの
存在に還へる無限なもの
祈りの如きはるか黒富士
四、作品第拾捌
嗚呼
まるで紅色の狼火のように
豊旗雲は満満と燃え
その下に
ズーンと黙(もだ)す
黄銅色の大存在
まぶしいぬるい光に浮かぶ數數の
豊旗雲の
その下の
地軸につづく
黄銅色
どこからか そして湧きあがる
天の楽音
五、作品第貮拾壹
平野すれすれ
雨雲屏風おもたくとざし
その絶端に
いきなりガッと
夕映の富士
降りそそぐ
翠藍ガラスの大驟雨