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カツラの葉っぱ 大好き!

カツラの葉っぱ 大好き!

森をゆく旅

<森をゆく旅>
台所の炭が、いつのまにかガスに変る様を見てきた団塊世代の大使であるが・・・・
その個人的な思い出をいつか燃料革命とからめて書いておきたいと獏全と思っていたわけです。

図書館でたまたま手にした「森をゆく旅」という本が、その思いにぴったり答えてくれています。
日本の森林と日本人がどう関わってきたのか?宇江敏勝さんは森林への愛着もさることながら、産業の成り立ち、経済性に関心が向く森林のプロなんですね。


【森をゆく旅】
森
宇江敏勝著、新宿書房、1996年刊

<「MARC」データベースより>
紀州・熊野に住む「山の作家」が日本各地の森を歩く。木とともに暮らし、すぐれた技を持つ人との出会いを求める山びとの森林紀行。インテリアの情報誌『室内』に「山と木の物語」として連載されたもの。

<大使寸評>
それぞれのエピソードが経済に裏打ちされ山の民に優しいのは、著者の生い立ちによるものかと、納得した次第です。
『室内』というハイカラな情報誌の連載エッセイでもあったということでおま♪

Amazon森をゆく旅

図書館で手当たり次第で探すアナログな探索方法が、いかにも暇人という感もするのだがが・・・・この方法でしか、この本に出合えなかったかもしれない気もしたのです。

木炭産業の盛衰が気になる大使であるが土佐備長炭に見るように産業化できているようです。
土佐
土佐備長炭


土佐備長炭p74~78
 小松輝道さんの炭窯には、炭化が進んでいるしるしの独特な香りの煙が立ちこめていた。灰床(作業場)には、箱詰めにされた製品も積まれ、まわりは木の葉の一枚もないまでに掃き立てられている。灰床を散らかしている人間にはろくな炭は焼けぬ、紀州備長炭の炭焼きだった父親から、若い頃に聞かされた言葉を私は思い出した。
 だが、ここは紀州・和歌山県ではなく、高知県室戸市に流れる佐喜浜川のほとりである。この流域には20基ほどの備長炭の窯が点在していて、小松さんも炭焼きの一人だ。私はフェリーで海を渡ってきて、土佐備長炭なるものをはじめて見せてもらった。案内をしてくれるのは、最近『土佐備長炭の今昔』というリポートをまとめられた高校教師の宮川敏彦・有沢節子両氏と県林産指導員の前口和彦氏。
 鰻の蒲焼きなど高級料理用燃料として知られる備長炭の本場はいうまでもなく紀州である。ほかでは宮崎県の日向備長炭とこの土佐備長炭があるわけだが、どちらも紀州から技術を伝えられたものだ。窯の構造や焼き方の特異性もさることながら、なによりも原木がウバメガシと樫に限定されるところから、それが群生する紀伊半島から四国や九州にかけての太平洋側でのみ生産が可能なのである。
 だが、土佐備長炭の窯はずいぶん大きなもので、一窯あたり約1200キログラムと、紀州式の倍ほども焼けるという。そのために原木を紀州のように抱いて入って縦に詰めるのではなく、天井に大きな穴を開けて、そこから投げて横に詰めるという大雑把なやり方だ。値段もいくらか安いのだが、量産でもって収益では紀州をはるかに凌いでいる。私の試算では、小松さん夫婦で1ヶ月90万円ほどの粗収入になるのではあるまいか。おもな市場は紀州の東京方面に対し、ここは大阪へ出している。
 小松さんのお話によると、親の代まではもっと小さな窯で、木も縦に詰める紀州式だったという。また、原木を求めて山中を移り住んだが、今では里の道端に窯を半永久的に固定して、遠くの山から車で原木を運んでくる。これは紀州と同じ変りようだ。
 紀州備長炭の製法が、いつ誰によって土佐へ伝えられたものか。私は室戸市の室津漁港のすぐ上、四国霊場25番札所とされる津照寺を訪ねた。青く明るい南国の海を見おろす石段の登り口に「植野蔵次翁記念碑」があり、次のような碑文を読むことができた。

 「翁ハ和歌山県ノ人ナリ 夙ニ木炭備長焼キ有理ナルベシト着眼シ其製法ヲ苦心研究セリ 大正元年植野蔵次氏ニセラレ来町 其焼キ方ヲ伝授ス 組合員ノ翁ヲ師トスル者日ニ増加シ 終ニ我ガ地ニ備長焼キヲ普及セリ 並ニ記念碑ヲ建設シテ其功績ヲ永久ニ伝フ 昭和八年三月 建立」

 この植野蔵次という人物が、南部川村の出身であり、その子や孫が土佐に定着したことを明らかにしたのは、先の『土佐備長炭の今昔』である。南部川村は現在でも和歌山県における備長炭の生産の中心地だ。そこで私はこちらに来る前に村役場で調べてもらい、孫にあたる植野昌雄さんにお会いするとともに、蔵次の生地も確かめることができた。
 昌雄さんによれば、蔵次は、明治の終わりごろに長男の林之助だけを連れて土佐へ渡り、ついに帰らなかったという。そのために残された妻、カツと次男の虎次郎は大変な苦労をした。だが、伯父・林之助は自分が少年時代に一度だけ一郎という息子とともに帰ったことがある。そのとき林之助は神社に大枚200円を寄付したりしたが、また土佐へ去って、その後は音信も絶えてしまった、と。
 ところが蔵次の孫の一郎(明治41年生まれ)さんが高知県奈半利村で健在なこともわかった。『土佐備長炭の今昔』の宮川敏彦氏と私は、まずは植野家の墓所にお参りをした。海の見える草枯れた丘に、昭和3年没の蔵次と、昭和20年没の林之助が並んで眠っていた。新開の墓所で石碑も小さくて素朴なところ、いかにも山中漂移の炭焼きにふさわしいたたずまいだ。
 奈半利町の植野家の当主は現在運送業だが、一郎さん自身は10年前まで炭焼きをしていたという。81歳の今では寝たり起きたりの毎日だと言いながら、ジャンパー姿で出てきて、応対をしてくださった。
 一郎さんが聞いているところによれば、蔵次は最初、健康がすぐれぬために妻カツとともに四国巡礼に出たという。そこでウバメガシをただの薪などにしているのを見て、備長炭に焼けば儲かるのにもったいないものだ、と思った。そして、いったん帰ったが、次に息子の林之助を連れてきた。そのときカツの妹が一緒だったともいわれている。ついに故郷の妻のもとに帰らなかった事情は、ままならぬ男女関係にあったのだろうか。なお、林之助はまもなく土佐で妻を娶り、一郎さんが生まれた。
 蔵次、林之助親子は、炭を焼いて山々を渡りながら、地元の木炭組合などから請われて、備長炭の製法を教えた。場所はおもに現在の室戸市や安芸市の周辺である。その弟子の中から多くの優れた指導者が育ち「土佐備長炭」の銘柄が確立された。津照寺の碑はたんに植野蔵次を顕彰するにとどまらず、炭焼きたちの新生の意気込みがこめられているものと私は思う。
 一郎さんに私は、紀州と土佐の備長炭の質の相違についても尋ねてみた。すると、土佐式は炭の肌はきれいだが、軟らかいうえに火が撥ねる、自分も天井の穴から木を投げて横に詰める方法をやってみたが、気に入らなくて、やはり紀州式でやり通してきた、とのことだ。
 土佐備長炭の製法が紀州式からかなり逸脱していることは、もちろん歴史的な経過がある。大正から昭和の初年にかけて、人々は紀州式をそのまま受け入れるだけでは満足せず、さらに熱心に窯の改良を行った。眼目は品質を維持しながら、量産をはかるところにあった。ところで、土佐には古い時代から横詰め式の窯があり、現在も西の十和村で、室戸市とは異なったかたちの炭が焼かれているという。短絡的な推測をすれば、その在来の土佐式に紀州式を折衷したのが、室戸市周辺の土佐備長炭といえるだろうか。
 いっぽう、安芸市の山間部にも現在30基ほどの炭窯があって、こちらは紀州式の縦詰めを踏襲して大きさもほぼ同じだ。私はその山林にも入ってみたが、あたりはウバメガシがなくて、ほとんどが樫だった。材質の軟らかい樫では、横詰め式の大きな窯で備長炭に焼くのはむつかしいからだろうか。また、農家の副業としているところから、大きな窯は手に余るとも考えられる。
 室戸市では産業課のお世話で生産者たちとの懇談会にのぞむこともできた。
 炭焼きの後継者が少ないとはよく聞かれることだが、会合には若くて美しい婦人も何人かいて、旦那といっしょに働いているとのことである。ただ、杉や檜の植林をやり過ぎたために、天然の広葉樹林が減り、原木の確保がむつかしいという、紀州と同じ悩みを聞かされた。しかし、彼らは活発にしゃべり、またよく笑い、いかにも南国の炭焼きらしい、明るさとおおらかさが感じられるのだった。


タタラ製鉄といえば、「もののけ姫」にも描かれたように古来からある産業であり、玉鋼(たまはがね)は用途を変えて今でも健在です。
産業遺産のようなタタラ製鉄の今がレポートされています。


たたらの炭p79~84
 出雲の山々は梅雨に濡れて暗い。道端に群れて咲くアザミの花はかくべつ紅色が深いように感じられる。ここは島根県横田町大呂という所、雨に煙った山を背に、屋根の尖った高い建物と煙突の見えるのが、わが国でただ1ヵ所タタラ吹きで鋼(はがね)をつくっている鳥上木炭銑工場(YSS株式会社)であった。(タタラは金偏に戸)

 応対してくださった木原明氏は、50年配の色が黒くて精悍そうな体つきの人物である。彼は会社の取締役だが、同時に村下といって、国無形文化財にも選定されたタタラ製鉄の技術長でもある。自ら伝統的な手作業の陣頭指揮にあたるのだ。
 だが、今は高殿(タタラの工場)の中にも広いばかりで閑散としている。タタラ吹きをするのは冬場だけなのである。私はビデオを見せてもらったが、そのときには一代(ひとよ)呼ばれる一工程に村下を中心に10人ほどの一団が三日三晩約70時間にわたって、不眠不休の作業となる。土と粘土でこしらえた舟型の炉に、木炭と砂鉄を30分毎に交互に入れるのである。すると土と炭と砂鉄が化学作用をして、ケラという鉄の塊を生じる。砂鉄11トン、炭13トンで2.5トンのケラができ、中に800キログラムの玉鋼(たまはがね)が含まれている。その玉鋼こそは近代的な溶鉱炉では絶対につくれないものだと、木原さんは力説される。 玉鋼は日本美術刀剣保存協会(東京)を通じて、すべての日本刀の原材料となる。そもそもこの工場は同協会と文化庁のきも入りで、昭和52年に設立されたものだ。

 ついては、それまでの経緯を、木原さんのお話から手短かに紹介したい。いうまでもないが、出雲をふくめて中国山地は長い歴史を通じてわが国の鉄の主産地であった。しかし明治維新後は洋式の溶鉱炉の登場により、タタラ製鉄は量産の点でも太刀打ちができず、大正時代にはまったく姿を消した。
 だが、大正7年になると、日立金属(YSSの親会社)が、この同じ場所に洋式に近いレンガ組みの角炉をもうけて、やはり砂鉄と炭による鋼づくりをした。それは昭和の戦後も続いて、木原さんも工場で働き、砂鉄採掘の現場へも出たという。しかし、角炉も昭和40年には閉塞、その後は砂鉄を安来市の本工場へ送るようになった。現在も安来工場では、独特な工法で砂鉄から航空機や原子力発電所やコンピュータの部品に用いる特殊な金属を生産している。
 一方、いったん姿を消した伝統的なタタラは、昭和8年に軍部の意向により「靖国タタラ」の名で甦ったが、それも敗戦とともに火を消した。そして52年、現在の工場は靖国タタラを復興するかたちで設立されたのである。その中心になったのも靖国タタラの経験者たちで、そこへ木原さん以下、安来工場から出向した若手も加わっていた。
 ところで私は、この近くにある羽内谷鉱山の採掘現場も見たいと思っていた。だが木原さんは、「現場はちょっとねえ、外部の方は入れないことにしているのですよ」という。
 砂鉄はおもに山を切り崩して掘り出す。ぼろぼろに風化した花崗岩の中に含まれていりのである。それを箱型の溝に水とともに流して砂から選別するのを鉄穴(かんな)流しといって、昭和47年まで行われていた。だが、それも公害がらみで会社としては見せたくない場面があるのだろう。
 そこで私は、木原さんに道を教えてもらって、炭窯を訪ねることにした。
 角炉が操業していた頃は200人ほどの炭焼きがいたが、今では高木広一さんと千秋さんの初老の兄弟だけだという。そこは峠を越えた鳥取県日南町の山中である。車を置いて細い道を入ると、谷間に煙が立ち昇るのが見えた。あたりの斜面の木は伐り払われて、熊笹の筍がいちめんに生えている。また雨が降ってきた。
 高木さんの炭窯は、山の木で組んだ骨組みに茅で葺いた、尖った屋根の下に収まっていた。4,5メートル隔てた居小屋兼倉庫も同じ粗末な構造である。今どきトタン板でも使えばもっと手軽にできるのに、と私は思うのだが、あえて昔風の小屋づくりを固守しているのだろうか。窯の口では焚火が燃えているが、人影はない。山へ木を伐りに登っているのかも知れないが、どこからも物音ひとつしなかった。
 窯は石と粘土で構築していて、高さ1.6メートルぐらい、横幅3メートルあまり、奥行き5メートル足らずで、天井の盛りは少ない。一窯で500キログラムは焼けるだろうか。そばには次に入れる原木も立てかけてあって、桜、楢、栗など落葉広葉樹が多い。製品も置いているが、軽くて軟らかい炭だ。これでタタラ吹きの燃料には適しているのだろう。
 しばらく待ったが、やはり誰も帰っては来なかった。
 横田町のとなりの吉田町はいっそう山深い町である。ここには菅谷タタラといって、出雲のタタラの御三家の筆頭である田部家が、大正10年まで操業していた高殿が国重要有形民俗文化財に指定されている。私も入場料を払って内部を見せてもらった。

 菅谷は耕地がほとんどない谷間の集落である。高殿を中心にして、事務所や炭倉や米倉だった建物や、住宅が寄り集まっている。ここは山内ともいって、タタラを専業にした人々の里で、現在もその子や孫が暮らしているのである。明治18年の記録によれば、戸数34戸、人口158人、就労人口52人となっている。このうち半数近くは焼子または山子と呼ばれる炭焼きであった。なお、田部家はほかにも山内を持っており、最盛期には20数ヶ所に及んでいた。
 私が訪れたとき、たまたま集会所に30人ほどのお年寄りがいて、酒を飲んでいた。村のゲートボール競技会で菅谷チームが優勝したのだと、小さなトロフィーも見せて、みんな上機嫌である。私が紀州から来たと言うと、「おおう、ここの田部も紀州の出じゃ」という言葉がポンと返ってきた。今の和歌山県田辺市から、鎌倉時代に田部入道安西という者が吉田町に来て土着したのが、田部家の祖だというのは有名な話なのだ。「まあ、兄さんも飲まんかい」とコップ酒をすすめられ、話も聞くことができた。

 彼らの中にはもはやタタラ吹きの経験者はいなかった。では、タタラから離れた山内の人々が何で生活をしてきたかといえば、木炭である。田部家の山林は2万数千ヘクタールと、出雲で最大の山林地主でもあった。昭和の前半は炭が家庭用燃料としていくらでも売れたから、田部家も木炭会社を設立して大量の商品を扱ったという。人々はタタラを吹いていた時代と同じように、旦さんと呼ばれる田部家所有の山林で、道具から米や味噌などの食料品まで貸し与えられ、一俵につきいくらの賃焼きで働いたのである。農業でいえば小作百姓のようなものだった。
 「昭和40年頃かのう、やっと山林の木を売ってくれて自営でもやれるようになったが、もう炭もあかんかったわなぁ」と一人が言った。
 いわゆる燃料革命によって炭が売れなくなると、田部家も杉や檜の植林に切り替えた。いま菅谷地区では18戸に50人ほどが住んでいるが、その中でも数少なくなった若手が、植林地の手入れなどに働いているのだ。



「もののけ姫」の基礎知識より
たたら場

ところで、タタラ場には女人禁制の掟があった。タタラの神が女性なので同性を嫌ったとか、血(月経や出産など)を嫌ったとか諸説あるが、詳しくは不明である。エボシ御前は、これを真っ向から否定してタタラ場を女性の職場にしてしまっている。これは宮崎監督らしい創作だが、実際に室町中期までは、たくましい女性職人が活躍していたのだ。宮崎監督は、室町期の絵巻「職人歌合(『職人尽絵』とも言う)」に描かれた数十人の女性職人に注目し、その気風を学んだと言う。
 なお、作中のタタラ炉は実に巨大であり、吹子踏みも四日五晩続けると語られることから、出雲でも最大規模のタタラ場であったと分かる。このため操業人員・資材発掘・運搬人員が大量に描かれているのは当然である。

もののけ姫とたたら



茶ノ湯炭p85~89
 樹木は冬枯れて、いちめん赤茶けた山あいが続いている。閑寂なたたずまいは、ここが大阪の阪急梅田駅からわずか30分そこそこの近郊とはとても思われない。山を造成して新興住宅街やゴルフ場もあるにはあるが、古典落語の「池田の猪買い」の雰囲気がどこかに残っているようにも感じられる。
 ここでは茶ノ湯炭として知られる池田炭が焼かれている。池田炭というのは、昔は池田市が炭の集散地で問屋が軒を並べていたからで、生産地は大阪と兵庫の県境にまたがる、猪名川上流の山中である。

 私が訪れた平井利雄氏(昭和6年生まれ)のお宅は、川西市国崎の山のふもとに相当な広さの田畑とともにあって、塀や庭木に囲まれた和風建築は、かりに炭焼御殿とでもいえそうな豪壮さである。平井さんの2基の炭窯は、田圃を隔てた林のそばにあった。
 窯では木入れの作業をしているところだった。ベルトコンベアーが動いて、中年の夫婦が、直径15センチ、長さ80センチほどのクヌギの原木を乗せる。窯の中では平井さんともう一人の従業員が、その木を一本づつ手にとって、窯の奥から順番に立てているのである。
 それは早朝から出来上がった炭を窯の外へ出し、からになった窯へ新たな原木を入れているところなのである。木入れがすむと、口焚きといって、入口の所で火を燃やして、窯の中の温度を上げる。口焚きを5,6時間続けると、中の原木に着火するので、空気穴だけを残して、入口を閉じてしまう。あとは煙の量や色合いを吟味しながら窯を調節し、三昼夜で、炭は焼きあがる。すると、すべての空気穴を閉じてしまい、6,7日間放置をすると、窯の中の火気は消えるので、はじめて炭を取り出すわけだ。
 木を窯に入れて、炭として出すまでにおよそ10日間、そのあいだに山で木を伐って運んできたり、炭をダンボールに詰める作業もしなければならない。平井さんをふくめて、男4人、女1人のメンバーで取り込んでいる。
 また、炭窯の大きさは奥行き10尺、横幅9尺、高さ6尺5寸である。1回4トンから6トンの原木から、平均60箱(1箱は12キログラム)の炭をつくることができる。
 木入れが続けられている間、倉庫も見せてもらった。そこでは平井さんの協業者である小笠原修氏が、ダンボールをトラックに積んでいた。
 倉庫にはいろんなサイズの炭が置かれて、壁には、胴炭、丸毬打、割毬打、点炭、丸管、割管、輪胴、香台炭、といった、茶道の炭点前で用いられる名称が掲示されている。これらの揃いを組にして、1箱に詰めているのだ。
 「12キロ入れで8000円ですわ。関東から九州まで送っています。小売も卸しもうちの値段は一緒ですな。京都は裏千家の系統の茶道具屋にようけ買うてもらってるけども、個人の師匠の手許では倍ぐらいするんじゃないかなぁ」と小笠原さんは言う。

 岸本定吉著『炭』によれば、池田炭が茶道に用いられるようになったのは、室町時代からだそうだ。豊臣秀吉や千利休に賞揚されたことや、明治の初年まで数百年にわたって宮中へ献上したという記録もあるという。
 その特徴はといえば、しまりがあって木の皮もそのまま密着していること、しかも皮は薄くて火にはぜないこと、燃やすと芳香を漂わせること、切り口が美しいことなどである。なかでも強調されるのは、切り口が丸くて、芯から外に向かって割れ目が菊の花のように拡がっていることで、別名、菊炭とも呼ばれる。
 「茶ノ湯炭はいくらでも売れますな。それに最近は宅配便で送るだけやから便利ですわ。わしなんか若い頃は、荷車を牛に曳かせて大阪まで行きましたぜ。牛はほたえるし、よだれはぬりたくられるし」と言いながら小笠原さんは手を休めない。
 しかし、1窯から焼ける60箱の全部が池田炭または菊炭として売れるわけではない。
 よほど熟練者でも高級品は六割ぐらいしか焼けないという。かたちの崩れた炭は、袋に詰めて、焼肉用などに売るわけで、もちろん値段もばかばかしいほど安い。
 ところで、日本一優美で値段の高い炭は、窯の技術だけで出来るものではない。原木はクヌギに限定されること、しかも、その木を人工的に育てることと関わっている。
 窯の木入れをすませて帰った平井利雄さんは、炭焼御殿の応接間で次のように語ってくれた。「わたしの祖父は鉱山師でしてね。このあたりでは銅山の精錬用の炭を焼いとったそうですわ。ところが祖父は失敗して財産をすってしもうて、それから池田炭を焼くようになったんです。クヌギの植林をするようになったのは、明治30年頃からですわ。とくに美しい炭がとれるような素性のよい苗木を選んで、植えたんです。もちろん、下草刈りなどの手入れもして、わたしらもやりましたが、夏やから暑いし、蜂に刺されるし、えらい仕事ですわ」

 だが、杉や檜とはちがい、クヌギは7,8年で伐採できるそうだ。それ以上年数がたつと、木が太り過ぎ、樹皮も厚くなって、原木としての値打ちが下がる。というよりも茶ノ湯炭にはならなくなるのである。また、伐採をすると、次には根株から芽が出るので、苗木は植えなくてもよいが、草刈りなどの手入れは欠かせない。
 また、この辺りは山の土壌がクヌギの生育に適しているともいわれる。さらに茶ノ湯炭は12月から5月までの6ヶ月間しか焼かない。原木を伐るのは3月までである。春から秋にかけては樹液が多いので、炭はしまりが悪かったり、皮が剥がれたりして、よい商品にするのはむつかしいのだそうだ。
 「わたしが炭焼きになったのあは、昭和24年、17歳のときですわ。親父が急に死んだので、学校を中退して、家業を継いだわけですな。田圃は1町5反、この辺では大百姓でしたけど、兼業です」と平井さんは言う。
 「その頃は炭焼きは多かったです。この国崎でも八割の家は焼いていましたな。しかし、ふつうの炭は売れんようになったでしょ。わたしも畑でトマトやキャベツをつくったりして、クヌギの手入れもせんようになりましたわ。いっときは止めとったけども、オイルショックの頃から、また焼くようになって、今じゃ続けてきてよかったと思っていますよ」
 しかし、現在、池田炭を焼いている窯は四つか五つしかなく、しかも高齢者がほとんどである。「せめて若いのが2,3人おったらまた花が咲くんやけどなあ」と平井さんは口惜しそうに言った。


菊炭能勢菊炭

能勢菊炭がきれいですね。池田炭の伝統は今も生きているようです。

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<アート志向の軟弱なコミューンとは、違うで♪>
桐野夏生の「ポリティコン」を読むとコミューン生活の醜悪な様が描かれているわけで・・・・
なるほど、コミューンの夢は世代を越えて持続できないのかと変に納得したりしたわけです。

だけど、この本「森をゆく旅」でレポートされたヤマギシ会は、より逞しく持続しているようです。
それも林業に手をつけているところが、エコを先取りしているようで・・・
アート志向の軟弱な集団よりは地道ではないかと、大使は好印象を持ったのです。


少年たちの森p180~184
 午前5時50分、私は平尾登さんの車に乗せてもらって、津市(三重県)の郊外にある「ヤマギシ生活豊里実顕地」を出発した。
 昭和9年生まれの平尾さんは宮城県の開拓地で農林業を営んだ後、十数年前から故郷でヤマギシズムによる村づくりで活動し、豊里実顕地へは、4年前に奥さんや長男とともに移り住んだという。そして2年前にはじめて林業部ができると、当初から加わった。
 なお、ヤマギシ会では全国の42ヶ所の実顕地で約7500人が農業を中心とした生産と生活を共にしているが、なかでも豊里は最大規模で、全体の活動の中心部ともいえる。主な生産物としては鶏70万羽、牛500頭、豚1万6000頭、野菜畑70ヘクタールに、農産物加工場もあり、年商118億円(平成4年度)をあげている。そこに赤ん坊から高齢者まで1600人が暮らしており、初年、初等、中等、高等、大学を網羅したヤマギシ学園もある。
 豊里から車で山へ入ること約40分、私が案内されたのは、同県美杉村八手俣にある「ヤマギシズム林業美杉演習林」であった。谷川の近くの杉林の中に手づくりの山小屋があって、平尾さんとともにリーダー格の滝本幸弘さん夫婦と、双子で小学6年生のさやかちゃんと匠くんがすでに来ていた。
 7時、10代後半の少年たちが5人やってくる。作業服に地下たびとヘルメットで身を固めているが、いずれもヤマギシ学園の大学部と高等部の生徒たちだ。平尾さんをふくめて簡単な打合せをした後に、それぞれの作業場に散らばる。あたりの樹齢40年生の杉と檜の間伐をしているのである。ひと通り伐り倒したところで、玉切りと搬出をしているのだ。私も平尾さんの後から、林の中の急傾斜を登りながら、ヤマギシが最近になって、どうして林業を手がけるようになったのか、と訊いてみた。
「自然環境の保全ということで林業を重視するようになったのです。それにさ、ヤマギシもようやく成熟して、経済的にゆとりもできたということもあるしね。でも、はじめての試みで手さぐりでやっているんです」と平尾さんは言う。
 豊里実顕地では155ヘクタールを所有しているが、ほとんどは植林地を買って、下草刈りや間伐などの手入れを始めたばかりだそうだ。
 林の中では簡単な架線を張りめぐらせ、発動機でワイヤーを引っぱって、丸太を運び出している。機械を使っているので、ワイヤーで丸太をくくって合図を送ってくるのも、まだ幼な顔の少年たちである。現代では稀有な光景と言わねばならないが、私などは若い日に日常的に経験したことだ。それを話すと、平尾さんは笑って「追い廻し作業だったね。ああせえ、こうせえいうて」と言う。
 ここでは作業も少年たちが自主的に段取りをつけてやっていて、おとなは相談にはのっても、一方的に教えることはしないそうだ。なるほど素人作業で、搬出の丸太を当てて立木の皮も剥いでいるのだが、平尾さんはこんなふうに言うのである。「木の傷を見て、この子どもたちは自分の心の痛みに感じているから、まもなく傷つけない方法を考えると思うよ。するなよ、なんてせっかちに叱るのはだめだね」
 間伐された木材はすでに用途も決まっているそうだ。私も昨日から見せてもらったのだが、ヤマギシでは畜舎や加工場などの施設の建設ラッシュなのである。以前は用材を買っていたが、最近になって、自前の鉄工所とともに製材所をととのえ、この山の間伐材も設計図の寸法に玉切りされて、そこへ運ばれる。つまり少年たちにとっては、自分の仕事の結実を眼のあたりに見ることができるのだ。
 また、残された立木は最終的に百年生の森に育てる計画だという。さらに、ヤマギシの林業部としては、1年に10ヘクタールずつ面積を拡げて、100年で1000ヘクタールの経営をめざしているそうだ。
 ところで、現場の少年たちだが、高等部大学部といっても、朝から夕方までほとんど毎日働いているのである。もちろん、数学や語学など一般教養的な勉強もするが、日数はわずかだし、ほとんど夜間にあてている。ヤマギシでは「実学」といって、労働によって人格形成をはかっているのである。初等部(小学生)のときは、遊び半分で畑に出るが、初等部(中学生)になると、朝夕の2時間ほどは働いて、もはや重要な生産の担い手だ。
 それに対する報酬は現金では払われない。ただ、自分のやりたい仕事に打ち込んでさえおれば、衣食住のことも、子供の教育も、医療や老後についても、まったく心配がないというのだ。
 ともあれ、ヤマギシの山林は間伐が進んでいて、林の中も明るくて気持ちがよい。境界を接したよその山林が密生して枝も枯れたり傾いたままで放置されているのと、対照的である。間伐には固定したメンバーだけでなく、全国から研修で訪れる人々も参加したそうだ。
 「ここで働いた人は、山仕事ってどうしてこんなに楽しいのですか、と訊くのさ。それはね、1万円とか2万とかの、お金のためではなくて、みんなの役に立つことをしているからなんだね」と平尾さんは言う。
 それは私にも心当たりがある。枝打ちを1本につきいくら、の出来高勘定で請負っているとき、1日に50本を打たねば食っていけない、と追われる労働は苦痛だ。しかし、同じ作業も自分所有の山林だと、だれが手当てをくれるものでもないが、楽しくて時間のたつのも忘れるのである。
 山林をひと廻りして下っていくと、玉切りをしている者がいた。また、谷沿いには狭いながらも車道をつけて、滝本幸弘さん親子が丸太を運び出している。作業者はリヤカーほどの大きさだが、発動機で動くのである。相当の丸太を積んだそれを動かしているのは、妻君の規久子さんと匠くんで、もう1台は、幸弘さんが娘のさやかちゃんを胸に抱いて、操作している。そしてまもなく、黄色いヘルメットをかぶったさやかちゃんが、一人で作業車に乗っていくではないか。
 ヤマギシでは子供は5歳までは親のもとで暮らすが、そこから先は寮生活に入る。親と出会うのは「家庭研鑽」といって、原則として小学生で月に1回、中学生で2ヶ月に1回、1泊2日だけだそうだ。つまり、さやかちゃんと匠くんにとって、この日は家庭研鑽で両親のそばにいるのである。
 私は訊かれて子供はいないと答えると、規久子さんは、「じゃ、ここの子たちの親になってくださいね」と言った。ヤマギシ会で一緒にやりましょう、という勧誘なのである。 やがて、昼食は豊里実顕地から運ばれてきて、みそ汁やお茶は規久子さんっがこしらえた。米飯に肉も野菜もたっぷりとある。少年たちはよく食べ、快活にしゃべり、笑いもはじける。とにかく、子供もおとなもきわめて楽天的かつ友好的な集団なのである。
 それにしても、会の内部は共同社会でも、外部へは生産物を販売して、大きな利益をあげている。ひいては組織の中に、意見の対立や主導権争いなどは起きないのだろうか。それについて平尾さんは、独裁者が生まれないために、世話人は半年に1回自動的に解任される、また、我執を捨て、一体化をはかるために、つねに研鑽(話合い)を重ねていると言われた。


このように、ヤマギシ会の現状が報告されているが・・・コミューンが企業集団として自立していることが予想以上で驚いたのです。
子どもの将来を独自の教育システムに委ねることが、この会の独特なところだと思うが・・・
会から逃げ出したい子どもはどうなるのか?テレビは見ているのか?といらぬ詮索が頭をよぎるのです。
とにかく親の強権が見えないでもないが、それがコミューンのコミューンたるところかもしれないですね。

とまれ、持続可能な林業に着目するヤマギシ会は、ええんとちゃう♪と認識をあらたにした大使である。
ただ、林業部だけでは食っていけないのが、日本の林業の実態かもしれないが。(ひとつの財布という遣り繰りで成り立っているのだろう)


幸福会ヤマギシ会概要より
ヤマギシ会

▼ヤマギシズム理念社会「ヤマギシの村」づくり
 一方、会員有志によってヤマギシズム社会の実践モデル体として、実際にヤマギシズムの理念に基づいた社会実態(ヤマギシズム社会実顕地、通称「ヤマギシの村」)をつくっています。
 そこでは、一体生活(単に、複数の個人が集まった共同生活でも協同生活でも共働生活でもなく、不可分な構成要素として各人が一体に溶け合った「財布ひとつ」の生活)をしながら、農業・畜産・林業を中心とした生産活動を行っています。
 そのヤマギシズム社会実顕地は、理念においても実際においても「共生・循環的持続社会」となっており、現在、日本に32カ所、海外に6カ所あります。


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