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カツラの葉っぱ 大好き!

137億年の物語(続き)

<137億年の物語(続き)>
この本は多元的な視点で書かれていて、どこから読んでも面白いのです。
中国嫌いという短絡した読み方で済ますには、もったいないわけで・・・・
紙の伝播やイスラム教や大航海時代などについて、さらに読んでみました。

地球温暖化が懸念される昨今ですが、気候変動が動植物に与えた影響は計り知れないほど大きかったようです。
個人的には、レバノン杉の消滅について、やっと納得できたのです。

<気候変動が生活を変えた>よりp140~142
 気候が変化したため人々がそれまでと違う暮らし方をするようになった例は、「肥沃な三日月地帯」とよばれる地域に見ることができる。「肥沃な三日月地帯」とは、上エジプトから下エジプト、イスラエル、シリアを経て、トルコの中央部、古代メソポタミア(現在のイラクとイラン)を通ってユーフラテス川沿いにペルシャ湾までいたる地域だ。1万4000年前、そこは雨量の多い肥沃な地域で、オークの森やピスタチオの林が茂り、栄養のある植物が自生していた。今日わたしたちが知る、乾燥した不毛の地とは大違いである。 そのころ、ナトゥーフ人とよばれる人々が、現在のレバノン周辺の海辺に住み着いた。付近の海で魚がよく獲れたからだ。一方、丘の上の、土壌が肥沃で、野生のイネ科の食物が生えている土地に住むようになった人もいた。海辺も丘の上も、食料資源が豊富だったので、彼らは移動しつづける必要がなくなった。季節によっては、ガゼルのような野生生物を追って遠くまで狩りに出かけることもあったが、それ以外の時期は、小さな村で暮らした。泥の粘土で小屋を作り、ある季節、あるいは1年中を村で過ごすようになったのだ。最近、レバノン、シリア、イスラエル北部でナトゥーフ人の遺跡がいくつも発見され、発掘調査が進められている。

 次に起きたのは、自然の気まぐれのようなもので―科学者たちは、同じことが遠くない未来に起きる可能性があると見ている―それまで8000年にわたって上昇しつづけていた気温が、急激に下がりはじめ、氷河時代に逆戻りしてしまったのだ。50年も経たないうちに、世界の大部分は厚い氷と雪に覆われた。その様はまるで雪の女王の呪いがかけられたようだったろう。その後1300年にわたって、呪いが解けることはなかった。

 この「ヤンガードリアス」とよばれる亜氷河期は、およそ1万2700年前に起きた。それがわかるのは、グリーンランドの氷床コアに、痕跡が残っているからだ。氷床コアを調べると、80万年以上昔の地球の気温も知ることができる。ヤンガードリアスが始まったいきさつについても、今ではおおよその見当がついている。メキシコ湾流は、赤道付近の暖かい海水を運んで、ヨーロッパ大陸に温暖な気候をもたらしている。北米大陸東岸を北上して大西洋を横断するその旅の原動力となっているのは、海水の塩分濃度の差である。ところが、およそ1万4000年前に氷河期が終わり、北米大陸の氷河に閉じこめられていた大量の水が流れ込むと、大西洋の塩分濃度は大幅に薄まった。そのせいでメキシコ湾流の力は弱くなり、もしかすると、完全に止まってしまったかもしれない。
(中略)
 この変動は、ヨーロッパ大陸と地中海沿岸にいた人々に壊滅的な害をもたらした。「肥沃な三日月地帯」に暮らす人々も例外ではなかった。氷河期が終わって海面が上昇し、狩り場が海に沈んだだけでなく、厳しい旱魃がなじまり、残されていた豊かな森林の大半が、低木の生える不毛な土地に変わってしまったのだ。
 小麦などの野生のイネ科植物は、ナトゥーフ人の主要な食料となっていたが、灼熱の低木地で枯れ果ててしまった。一部の学者は、それがきっかけとなって、ナトゥーフの女たちは土地を耕し、小麦、大麦、ライ麦といったイネ科植物の種子をまいてみたのではないかと考えている。飢えに直面していた女性たちは、一番大きく、おいしく、収穫も楽だった種子を保存し、翌年には、特別に準備した土地にそれをまいたのだろう。

レバノン杉の森(アルゼラブ) というサイトよりレバノン杉を引用します。

レバノン杉の森(アルゼラブ) より
レバノン杉

このレバノン杉の森は『アルゼラブ』(神之杉)と呼ばれ、地域の住民が代々守ってきたのだという。森というよりは林といった大きさだが、樹齢1500年を超える大木がいくつかある。道路の真中にも大きい木が一本あった。まだ雪が積もっていたので、林の中を歩くことが出来なかったのは残念だが、レバノンに来て1週間、やっとこの国の象徴であるレバノン杉を目の当たりにすることが出来て、感無量だった。それにしても、1本の木自体は巨大だが、林はとても小さくてちょっとかわいそうだ。太古の昔、レバノン杉は山々を一面に覆い、その風景は現在の北欧のようなものであったという。ふと、そんな大昔のレバノンの森を歩いてみたい欲求に駆られた。



次に製紙法の伝播が述べられています。
製紙は聖書や科学書の大量生産につながるわけで、まさに文化を生んだといっても過言でないようです。

<世界の文化の中心>よりp292~296
 長期的に見ると、何百万人という人がイスラーム教に改宗したことは、人類と自然との関係に大きな変化をもたらした。ムハンマドの教えの核となっていたのは、この世に神が現れるという考えを一切認めない姿勢だった。人間と神の接点は、コーランに記された、不変にして神聖な言葉だけなのだ。アボリジニは森や動物や山を崇拝したが、イスラーム教では、そのようなことはありえなかった。嵐や雷や稲妻といった自然の力に神聖さを感じることもなかった。唯一の神は天にあり、地上には存在しないという考え方は、ユダヤ教にはじまったものだ。次にキリスト教が、イエスを例外としながら、その考え方を補強し、最後にイスラーム教が完成させた。イスラーム教の考え方では、ドルイドが儀式を行うケルトの森の神はいないし、海で嵐を起こすのはポセイドンではない。エジプトのピラミッドの中や、バビロンのジッグラトの頂上に神が存在するわけでもない。地上にいる人間が、神の意思を知るには、ムハンマドが後述し、後に弟子たちが聖なる書物にまとめた、変わることのない完璧な教えを学ぶしかないのだ。

 はじめのころ、ムハンマドが語るコーランの詩は、信徒が暗記するか、そうでなければ、石でも樹皮でも手元にあるものに書きとめていた。第3代カリフのウスマーンは、側近に、コーランを1冊の書物にまとめるように命じた。側近は「山を動かす」ほうがよほど楽だと嘆きながらも、「羊皮紙や動物の肩甲骨、ナツメヤシの葉、あるいは、人の頭の中」に記録されていたその言葉を集めていった。コーランに記された言葉に対するイスラームの宗教的情熱は、紙が作られるようになると、さらにかきたてられた。8世紀半ばまで、紙の製法は東アジアの秘法とされていた。ところが、751年の「タラス河畔の戦い」で、アッバース朝軍が捕らえた中国人の中に紙職人がいたために、ついにその秘密が明かされた。まず、現在のウズベキスタンの首都サマルカンドに製紙工場が造られ、794年には、アッバース朝の首都バクダードでも紙が作られるようになった。ここから製紙法は、ダマスクス、エジプト、モロッコへと伝わり、紙はパピルスや絹、木の板、羊皮紙にとって代わった。
 
 ヨーロッパのキリスト教圏で最初に作られた紙の書物は、『シロスのミサ典書』とよばれる宗教書で、1151年にスペインのバレンシアに建てられた製紙工場で作られた紙を用いている。
 紙のノートが大量生産されるようになると、書記たちがコーランを書き写す作業はずいぶん楽になり、コーランはイスラーム世界の隅々まで届けられた。900年ごろからは、バクダードにスーフィー」とよばれるイスラーム神秘主義の人々が現れ、コーランにより、信者のひとりひとりが神の愛を直接体験できると説きはじめた。
 バクダードのアッバース朝のカリフたちは、製紙法の進歩に触発されて、古代ギリシャ、ペルシャ、インドの科学書や哲学書をアラビア語に翻訳するという大事業に着手した。そうすることで、支配下においたペルシャの貴族が、アラビアの文化や言語にいくらか敬意を抱くようになるのを期待したのだ。なにしろ、彼らの母国ペルシャには、古代ギリシャのアレクサンドロス大王の時代にまでさかのぼる豊かな文化の蓄積があったのだ。
 こうして、音楽、詩歌、文学、騎士道的恋愛観などが、古代ギリシャ・ローマ時代の科学、医学、天文学、数学に関する偉大な古典とともに、アッバース朝にもたらされた。

(中略)
 イスラームの巨大な世界は、アッラーへの信仰とアラビア語という言語によって結びついており、バグダードやカイロやコルドバに築かれた宮邸は、脈打つ心臓のように、思想や発明を、その世界のすみずみに行き渡らせた。彼らはまた、遠くは中国の知識を集め、それをヨーロッパにもたらした。そうして生まれた技術や知識は、やがて探検家たちの大航海を助け、ひいては、ヨーロッパの運命を変えていった。新しい知識は、紙の製法のように戦争の折に伝わることもあれば、交易を通じて伝わることもあった。


イスラムの事物や文化が、戦争や交易を通じてヨーロッパにもたらされた。

<天を測るアストロラーベ>よりp298~299
 天体観測器「アストロラーベ」は、まさにこの目的のためにイスラーム世界の全域で使われた。ヨーロッパの探検家にとって、それは中国から伝来した羅針盤と同じくらい重要なものだった。夜空の星の軌道と角度から地球上の自分の居場所を知ることのできる、携帯用の計器を作ることを最初に思いついたのは、古代ギリシャのエラトステネスとヒッパルコスだった。
 ペルシャの科学者、ムハンマド・アル・ファザリー(777年頃没)は、三角関数表を使って、イスラーム世界ではじめてのアストロラーベを作ったが、それはある決まった緯度の上でしか使えなかった。アンダルシアの科学者、アッ=ザルカーリー(1028~1087年)は、それを改良して、世界のどこででも使えるようにした。彼の著作と天体運行表は、12世紀にクレモナのジェラルによってラテン語に翻訳され、15世紀はじめには、船で世界を目指すキリスト教徒の探検家にとって欠かせないものとなった。ヨーロッパで作られた最初のアストロラーベは、1492年にリスボンで、ユダヤ人の天文学者アブラハム・ザクート(1450~1510年頃)が製作したものだ。クリストファー・コロンブスが大航海で用いた天体運行表は、ザクートが記したものだった。
 
 イスラーム世界とキリスト教世界の武力衝突によって、いくつもの重要な発明が、東からヨーロッパにもたらされた。カール・マルテルは、トゥール=ポアティエの戦いで勝利を収めたものの、イスラームの騎馬隊の威力には圧倒された。このことは、騎士道が元をたどればペルシャで生まれ、イスラーム支配下のイベリア半島を経て、フランスに伝わった可能性を示している。
 
 フランス西南部の領主だったアキテーヌ公ギョーム9世(1071~1126年)は、「吟遊詩人の祖」として知られるが、イスラームの吟遊詩人の詩歌に魅せられて詩作をはじめたと伝えられている。ヨーロッパの吟遊詩人は、戦争や、騎士道に基づく恋愛をテーマとする自作の詩を歌いながら各地を巡り、十字軍の時代にキリスト教徒の心をおおいに惹きつけた。吟遊詩人の歌が西洋音楽の起源のひとつだったとすれば、さらにその源流は、イスラーム世界にあるといえそうだ。
(中略)
 7世紀はじめ、ムハンマドの信徒は「聖戦」を標榜して、メッカの軍勢と戦い、圧勝した。以来、聖戦の概念は、イスラーム教とともに中東の外へ広がり、イスラームの戦士たちは、「アッラーのために命を落とした者は死者ではない。彼らは神と行き続け、永遠に養われる」というコーランの一節にふるい立った。神の名ののとに戦争を正当化するこの考え方は、やがてキリスト教世界にも浸透していった。そして1095年、地上におけるキリストの代理人でもあるローマ教皇から、「聖戦に加わった兵士の罪は許され、勇者には天国で永遠の降伏が与えられる」というお墨付きを得て、十字軍はその「聖戦」をスタートさせたのである。こうして人類は、世界の覇権を競い合う暴力にまみれた道を歩みはじめた。
 ムハンマドによる大変革は、ヨーロッパ、北アフリカ、オリエント、中国を、戦争と交易を通じて結びつけた。イスラームの都市やカリフは、イスラーム神秘主義の一派、スーフィー教徒のセマー(旋回する踊り)のような勢いで、イスラーム世界のみならず、平和裏にであれ、戦争によってであれ、接触のあった地域に独自の思想や発明を伝えていった。15世紀に、ヨーロッパの探検家たちが大航海に出発したとき、その成功を助けたのは、軍馬、数学、地図、天体観測器、紙など、イスラーム世界からさまざまな事物であった。


キリスト教徒による大航海時代がはじまり、インドやアジアに交易拠点が築かれていった。

<プランテーション農業の誕生>よりp351~352
 大航海による奴隷貿易は、ヨーロッパの投資家にとって非常に魅力的だったが、キリスト教会は、大航海によって未開地に暮らす哀れな人々の魂を救うということに魅力を感じた。
(中略)
 世界地図や初期の探検家の壮大な物語は人気を集め、ヨーロッパ初の活版印刷機は
を開発したばかりのドイツの出版業者がそれらをせっせと印刷し、販売した。長いあいだ、活版印刷は1450年ごろにドイツのヨハネス・グーテンベルグが発明したとされてきたが、実は、世界最初の活版印刷術は、1040年ごろに中国の畢昇という人物によって発明されたらしい。畢昇が用いたのは陶製の活字だった。金属製の活字は1230年ごろに韓国に現れている。しかし、数千種類もの漢字を持つ東アジアでは、活版印刷は発展しなかった。一方、わずか26種類の文字からなるアルファベットを用いる国々では、活字を組み合わせて「活版」を作る印刷技術によって、大量の印刷が可能になった。ヴェスプッチの『新世界』は、1504年から1506年までに23回も版を重ね、今日でいえば『ハリー・ポッター』並みのベストセラーになった。

 コロンブスとヴェスプッチの冒険はたちまちヨーロッパ中に伝わり、他の国々も独自に遠征隊を支援するするようになった。イングランドのヘンリー7世は、ブリストル商人の財政支援を受けたジェノヴァの探険家ジョン・カボットの航海を認可した。カボットは、大西洋から現代のカナダの北を抜けて東洋に達するルートを発見しようとした。そのほうが南米大陸の南を回るより早く目的地にたどり着けると考えたのだ。カボットは1496年に無事カナダに到着したが、翌年の2度目の航海で行方不明になった。カボットが探し求めた北の航路は、当時は氷に閉ざされていたが、近年になって温暖化のせいで氷が溶け、2007年夏から航行が可能になった。
 
 一方、ポルトガルも、東洋までの航路を開拓しようと奮闘していた。「トリデリシャス条約」により、発見した土地を自国のものにできるということも、強い動機となった。ポルトガルの航海者としてはじめてインドに到達したのはヴァスコ・ダ・ガマで、1498年5月14日に、西南部の港町カリカットに到達した。この航海によって、アジアに最も早く簡単に到達することには、喜望峰を回っていけばいいということが証明された。しかし、この最初の航海でヴァスコ・ダ・ガマは、インドの商人へ渡す品々を用意していなかったため、腹を立てたイスラーム教徒の群衆に罵倒され、逃げ帰る羽目になった。1502年、彼は20隻の軍艦を率いてふたたびインドへ向かい、今回は、たくさんの絹と黄金を持ち帰ることができた。相変わらず、交換できるような貴重な品は持ってこなかったが、脅して奪ったり、略奪したりしたのだ。ダ・ガマの航海が成功したことにより、ポルトガルは、イスラーム商人に上前をはねられていた陸路を通らずに、アジアと直接取引できるようになった。ダ・ガマは、メッカ巡礼から帰る途中のイスラームの船を襲撃し、略奪した後、女子どもを含む380人の乗客を船室に閉じ込め、火を放った。この残酷な事件は、見せしめでもあった。インドの領主たちは、それが意味することをすぐに理解した。

 ポルトガルの探検家たちは、アラビア湾沿岸、インド、インドネシア、さらには日本にまで入植地を築いていった。ゴア、ホルムズ島、マラッカ、コーチ、マルク諸島、長崎は、交易の重要拠点となった。さらにポルトガルは、1509年2月にインド西岸の沖で起きた「ディウ沖の海戦」でオスマン帝国の艦隊に圧勝し、ついに大海原の覇権を握った。


ヨーロッパ各国の君主たちは同盟を組んで、スペイン帝国の海運力を駆逐していった。

<宗教改革と帝国の没落>よりp364~366
 ピルグリム・ファーザーズが大西洋を渡ったのは、ヨーロッパで起きた、一連の激しい宗教戦争の結果だった。サヴォナローナの教皇批判にはじまったフィレンツエの宗教改革(1494年)は、北イタリアに限られた事件だった。しかし、そのわずか23年後、マルティン・ルターがドイツ北東部のヴィッテンベルグ城教会の扉に、95の疑問を記した紙(95ヶ条の論題)を釘で打ちつけたとき、世界の情勢は一変していた。グーテンベルグが発明した印刷術のおかげで、ドイツをはじめ、イングランド、フランス、スウェーデン、デンマークといったヨーロッパ各国の君主は、海外から奴隷、スパイス、貴金属を手に入れることがどれほどの富をもたらすかを、すでに知っていた。
 スペインを除く国々には、共通の目的があった。彼らは、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(すなわちスペイン王カルロス1世)が、新大陸から流れ込んだ富でますます力をつけ、両親や祖父母から受け継いだ領地を統一してヨーロッパの覇者となるのを、何としてでも食い止めたかったのだ―もっとも、各国とも自分さえよければと考えていたから、その連携はあてにならないものであった。ともあれ、各国の将来の繁栄は、スペインに匹敵する海運力を持つことにかかっており、さらに、北ヨーロッパの主要な港からスペイン船を締め出す必用があった。

 それまでのヨーロッパで、交易によって最も栄えていたのはイタリア北部の都市国家だったが、はるか北のほうで、別の交易網が着実に影響力を増していた。バルト海の沿岸は、ダンティヒ、リガ、ハンブルグ、リューベックといった港町があり、それらは1200年代から「ハンザ同盟」とよばれる都市同盟を築いていた。これらの港町は、羊毛、木材、穀物、魚類といった生活必需品の交易を独占して、富を蓄えていたが、アムステルダムを拠点と刷るネーデルラントとの戦争(1438~1441年)に敗れて独占権を失い、15世紀半ばごろには、ネーデルラント商人がそれらの交易を独占するようになっていた。
(中略)
 大西洋の向こう側から富を運んでくるには、新しいタイプの船が必要だった。船体は、鉄製の重い大砲を運べるほど大きく、しかも、何ヶ月も海上で持ちこたえる頑丈なものでなければならない。木が腐ったら、船は沈没するか撃沈されるだろう。そのような新しい船に適したオークの木は、イングランド南部やバルト海沿岸には生えていたが、スペインには生えていなかった。たとえ海外から良質の木材を手に入れたとしても、他の国が同様の艦隊を造ってしまえば、スペインの優勢はそこで終わる。ゆえに、カール5世にとっては、イタリアからネーデルラントまでをひとつの帝国にまとめて、ライバル諸国が木材を手に入れる道を断つことが最優先課題となった。貴重な原料を独占すれば、また新たな富も得られるはずだった。しかし、ヨーロッパの北と南の領地を統合するためにカール5世が繰り広げた戦いは、父方のハプスブルグ家と母方のスペイン帝国に、二度と立ち直れないほどの損害を与えることになる。




【137億年の物語】
137

クリストファー・ロイド著、文藝春秋、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
137億年の歴史を42のテーマで語る。歴史を点ではなく、つながりで考える。西洋が中心ではない。アジア、南アメリカ、少数民族、イスラム、等々多元的な視点で理解する。地球的な規模で人類の文明も相対化する。豊富なイラストと写真で旅するように歴史を感じる。科学と歴史、その接点を考える。

<読む前の大使寸評>
わりと高価な本なので、こういう本を借りる時に、図書館のありがたさを感じるのです。中国に言及している部分が思ったよりあるので、楽しみです。

<読後の大使寸評>
訳者のスキルによるのかもしれないが、わりと物語風に書かれた訳文が明瞭で簡潔なことです。
著者は「自分の子どもに、この地球の歴史をどう教えたらいいか、それがヒントになってこの本が生まれた」と言うが・・・なるほど読みやすくて面白い本でした。

それから、この本の訳文では、横文字がなくても日本語になっているといるわけで・・・
つまりは漢字語彙の多彩さを物語っています。漢字文化圏の中でも日本文明の優位が証明されたわけですね(笑)

rakuten137億年の物語


 2003年、当時7歳の長女マチルダさんが突然在宅教育になった。知識を詰め込むだけの学校にうんざりしていた。次女と一緒に在宅教育をすることにした。英国では法律で認められており、特に珍しくはないという。
 在宅教育は、著者ロイドさん自身の好奇心も刺激した。仕事を辞め、半年間かけて家族で欧州各地をキャンピングカーで回った。歴史や風土を体感したことが、著者の構想につながったとのこと。(26日の朝日より)

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