公民館と図書館でブログ更新を試みたが、えらいこっちゃ!
書き込み禁止、読み取り専用に設定されているのです。で、最後の手段ということで一軒しかないインターネット喫茶に繰り出して記入したのです。
(記入といってもUSBメモリでコピペですけど)
図書館で「日本と道教文化」という本を借りたが、大使の動機は「漢民族の本質を知りたい」ということに尽きるわけです。
つまり、尖閣諸島沖の漁船衝突事件があって以降・・・
彼の地の孫子の兵法に則り、「不可解な敵を知っておこう」という意識が働くわけですね。
【日本と道教文化】
坂出祥伸著、角川選書、2010年刊
<裏表紙紹介>より
長生きをしたい、金持ちになりたい、幸せになりたい、日常的な願望をかなえてくれる神さま、それが道教の神々だ。仏教でも神道でもない宗教的な風習、吉凶を占う「おみくじ」や疫病除けの「おふだ」も道教が起源。薬草を発見した神農、七福神のひとり福禄寿、邪気を払う鐘軌、疫病除けの神獣・白沢など奇怪不可思議な神々に彩られた道教の世界を日中にわたり紹介し、日常生活に溶け込んだ多様な道教文化を再発見する道教入門書。
<大使寸評>
道教とは漢民族独自の宗教であり、その成り立ちは日本の神道と似てなくもないわけであるが、「福禄寿」への拘りが、お茶漬けサラサラの日本よりは強いように感じられたのです。
Amazon日本と道教文化
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この本のエッセンスの一部を紹介します。
<はじめに>p8~9
私たち道教研究者の理解と一般人の道教理解とはかなりかけ離れていると思っている。さきほどフランス人の道教理解の例を挙げたが、おそらく日本の文化的背景が妨げとなっているからであろうが、一朝一夕に「中国は儒教の国」という固定観念が消えることはあるまい。そこで本書では、われわれが今見聞きしている風俗・慣習の中に、道教的要素が隠れている、私たちは気づいていないだけのことだ、という点をあれこれ取り上げて、道教に親近感を抱いていただこう、道教になじんでいただこう、という願いをこめて角度を拡げて考えてみた。
まず、最初に道教というのは、どのような宗教なのかを、不十分ながらも概略的に説明しておいた。これまで、ともすれば仏教は高尚であり、深遠な教理や哲学をもっているが、道教は迷信的であり、低俗なものであると見なされがちであったが、道教も正当な宗教であることを予め知っておいていただきたいのである。
次に横浜、神戸、長崎などの華人街に、なぜ関帝廟とか馬祖像が置かれているのかを考えてほしいのである。海外に移住する中国人は郷土から自分たちの守護神をたずさえてきて、集団自治の中心である廟を先ず建て、これを中心に街が形成されるのが一般的である。あたかもヨーロッパでキリスト教の教会を中心に市街が形成されているのと同様なのである。
パリの13区にある華人街には玄天上帝(真武神)を祀る潮州会館がある。ベトナム難民であるパリの華人は本来は潮州出身者なのである。しかし、海外の華人街の守護神として最も多いのは、馬祖廟(天皇廟とも)だといわれ、次に多いのが関帝廟だという。
(中略)
日本文化が取り入れた道教的要素は神農、鐘軌、福禄寿神、泰山府君などのような吉祥をもたらし災禍をしりぞける種々の神格、あるいは、十二直説、九星説などのような運勢を知って禍を避ける占いであるが、こうした呪法は現在の日本ではほとんど消滅してしまったようである。しかし、今なお残っていて根強く信じられているのが、仏滅、大安などの六曜説であり、あるいは家屋を作る場合の鬼門説であり、さらには、若い人々が半ば遊び心で、しかし半ばは本気で信じている「おみくじ」「おふだ」である。「これも道教ですか」といぶかるお方は、どうかそれがれっきとした道教起源であることを本文を読んで知っていただきたい。併せて各地で出土している木簡呪符をも紹介したので、日本文化史の研究の立場とは別の角度から木簡呪符についても解説をしておいた。
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<道教とはなにか>p11~13
道教とは、どのような宗教なのか。はなはだ答えにくい問いであるが、私見では、その根底にあるのは中国思想一般と同様に「道」の観念であり、特に道教にあっては「道(タオ)」とはすなわち「気」だと考えられる。
そこで道教は「気の宗教」であると定義しておきたい。「気」という視覚では捉えられない存在、それは人間をも含んだ万物を生成する根源的なエネルギーであり、道教では、その「気」を操作することによって仙人とか真人とか称される最高の境地に到達することを目指すのである。こういう定義には当然多くの反論が予想されよう。儒教でも「気」の観念に依拠しているのではないのかと。
儒教が最終的に目指しているのは、社会の経済的安定であり、そのために為政者(士大夫)は「修身」つまり、強い意志によって自分の「気」を暴発させないように身体を修練し、ついで「家をととのえ、さらには国を治め、最終的には天下を平和にする」。こういう政治的目的のための「気」の修練である。そこで、道教的な修練は、「独善」すなわち独りわが身を善くするだけであり、他者を救済しようとしないという非難が儒教側から出るのである。
それでは、「気」とはなにか。これもまた説明がむつかしいが、身体を流れる「気」をトレーニングするという健康法としての「気功」が日本でも市民権を得ているので理解していただけようが、中国では古代から生命をもつ存在は運動して止むことのない「気」から成り立つと考えられている。
ところで、道教は創始者つまり誰かが創始した宗教ではなく、自然に発生し展開した宗教である。キリスト教はイエス・キリストを創始者としており、仏教は釈迦(ブッダ)を創始者としている。イスラム教はムハンマドを創始者としている。日本の神道は天照大神を最高神として尊んでいるが、これを創始者だとは誰も言わない。ただし、神道は万物に生命力とか霊力を認めていて、万物それぞれを神とする多神教である。道教はこれと極めて似ている。道教について老子が創始者ではないかという疑問や指摘を受けることがある。たしかに道教では老子が非常に尊ばれている。けれども後漢末ごろに組織的教団として初期道教が成立した時、それは老子が創始したのではなくて、いわば権威付けにかつがれたのであり、じつは数えきれないほど多数の神格を持つ多神教なのである。
さらに道教は、仏教やキリスト教、イスラム教のように国境を越え民族を超えて信仰されているような、世界的宗教ではなくて、その信仰は一部の少数民族を除けば、ほとんど漢民族に限られているという意味では民族宗教と考えてよい。
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<なにを目指している宗教か>p13~14
道教の目指すものはなにか。「福・禄・寿」という現世利益を得ることである。とりわけ寿、すなわち永遠の生命の達成を目指すのである。そこで「気」を操作して「永遠の生命」を獲得しようとする宗教だともいえよう。儒教は宗教ではないとされるが本来は祖先祭祀を行っているので、一種の宗教的性格を備えているが、一方では政治的倫理的色彩が強くなって宗教的側面は希薄になってしまった。元来、『論語』によると孔子は、「生きている世界のことも分からないのに、どうして死後のことが分かろうか」と述べていることで分かるように、死後の世界とか霊魂のありかたについては非常に冷淡であり、その代わりに「経世済民」、つまり社会の安定と物質的豊かさという現実的な救済を目的としているのであって、死者の霊魂の救済には無関心であった。そこで中国に仏教が伝来した時、貴族や士大夫たちは中国仏教特有の霊魂観にもとづいて来世意での救いに安心の境地を得ようとしたのである。ただし、儒教は古代社会の基盤となっていた宗族制という男系血縁共同体を祖先祭祀の根幹としていて、親から子へ、さらに孫へ、というような生命の連続性を重んじている。これこそがいわゆる「孝」である。
(中略)
なお、中国社会が儒教によって代表されているように、男性中心の社会システム(宗族制)の中にあって、道教では早くから西王母をはじめとする多くの女神が重んじられ、魏華存、鮑姑のような女仙、詩作に秀でた女道士・魚玄機の名も知られている。天皇(馬祖)とか碧霞元君などの女神は今でも崇拝の対象とされているし、また全真教では女性司祭者が高啓、経師などとして儀礼を主宰している。このように、男女平等とまでは言えないが、道教では女性が古くからきわめて重んじられているのに注意したい。
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<道教の将来像>p21
儒教が滅んでも道教が滅ぶことはない。なんとなれば、漢民族の民族的宗教であるからである。近代文学の巨人・魯迅は、「中国の基礎は全て道教にある」と喝破している。現今の中国も少子化、近代化(工業化・都市化・人口の流動化など)の進行によって儒教のよって立つ存在基盤が崩れつつあるが、まさにそのために為政者は儒教の権威の回復を図ろうとするが、崩壊を止めるのが次第に困難な状況である。一方、道教は中国共産党による弾圧、その後の文化大革命による破壊にもかかわらず、急速に復活し、その信仰はますます広く深くなっている。民衆の生活に深く根ざした宗教にほかならないからである。
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<関帝>p25~26
横浜の中華街には道教の神さま―関帝が祀られている。横浜の中華街といえば、東京近辺の人ならたいてい中華料理を食べにいかれるから、良くご存知ことであろう。そして、そこに「関帝廟」という中国風の大きなお寺によく似た建物があることもしっていることであろう。ここの案内パンフには、「発財の神さま」とお書かれていて、華僑はお金が儲かりますようにと祈ると書かれている。
(1日文字数制限の関係で削除、全文は左のページ「孔子批判5」に入れておきます)
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<おふだの種類・目的効用・材料・霊力>p173~178
(1日文字数制限の関係で削除、全文は左のページ「孔子批判5」に入れておきます)
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中国共産党が国家威信を賭けて儒教の再興を図っているが、中国通の学者は儒教の崩壊を止めるのが困難な状況と喝破しています。その一方で道教の復興が指摘されています。
為政者が男神(儒教)を奨励するが、民衆は女神(道教)を尊ぶという構図も見られるわけで・・・親しみを覚えるというか、興味は尽きませんね。
それから大使が毛嫌いしているのは儒教であり、中国人民ではないので、そこのところを宜しく!♪
インターネット喫茶の営業用のパソコンは、我が愛機(4万円のネットブック)に比べるとメチャクチャ速いで♪