図書館で『つげ義春を旅する』という本を手にしたが・・・・
漂泊願望があるつげさんだから、その旅の独特な味には・・・しびれるわけです♪
【つげ義春を旅する】
高野慎三著、筑摩書房 、2001年刊
<「BOOK」データベース>より
「ガロ」の編集者だった著者がつげ作品の舞台となった風景をさがして東北の秘湯から漁港の路地裏までを訪ね歩く。砂煙のまいあがる会津西街道で見つけたワラ屋根のある景色や、老人たちとともに時間がとまった上州・湯宿温泉、赤線の雰囲気を残す東京下町など、貧困旅行を追体験する。失われた日本の風景のなかに、つげ義春の桃源郷が見えてくる!つげ義春との対談も収録。図版満載。
<読む前の大使寸評>
漂泊願望があるつげさんだから、その旅の独特な味には・・・しびれるわけです♪
rakutenつげ義春を旅する
|
「ゲンセンカン主人」は、群馬の湯宿温泉のイメージで構想されたようです。
p134~136
<「ゲンセンカン主人」と湯宿温泉>
怪優・佐野史朗がつげ義春役を演じた映画「ゲンセンカン主人」が上映され、予想外のヒットとなったのは、1993年の7月であったが、映画の原作であるつげ義春の同名作品が『ガロ』誌上に発表されたのは、映画をさかのぼること25年前、1968年の7月号においてである。
つげ義春は、「ゲンセンカン主人」の1ヵ月前に「ねじ式」を発表しており、一部の読者のあいだでおおいなる衝撃をもって受け止められていかが、「ゲンセンカン主人」もまた、「ねじ式」に優るとも劣らないほどの評価を持って迎えられた。
あらすじを紹介しておこう。死んだような静かな温泉町にやってきた中年男は、駄菓子屋の老婆から、ゲンセンカンの旦那にウリ二つだといわれる。日本髪を結ったゲンセンカンの女主人は、耳が聞こえず、口も不自由だった。かつてゲンセンカンを訪れた男は、女主人と関係をもち、そのまま宿に留まったという。老婆の話に興味をそそられた中年男はゲンセンカンに泊まろうとする。「そんなことをしたらえらいことになる」と、温泉街の老婆たちが必死にとめようとする。ビュービューと嵐がふきすさぶ中、ゲンセンカンに近づいていく男。旅館の玄関先で恐怖で顔をひきつらせた女主人と旦那がその男を待ちうける。
発表当時、私は、「ゲンセンカン主人」から「ねじ式」以上の戦慄をうけた。この作品は、闇の深淵に迫ろうとする作者の強い意志がうかがわれると同時に、自己破壊の衝動ともいうべき存在論的な内向性が露わであった。たぶん、この作品には、「ねじ式」以上に、作者の思念なりが如実に表されたとみていい。
「ゲンセンカン主人」が発表される数ヶ月前、上州や信州の旅から帰った作者は、深夜、私の住まいを訪ねて、旅行譚に花を咲かせた。そのとき、氏は、群馬の湯宿温泉について、より多くを語ろうとしていた。
|
ワラ屋根のある風景を求めているけど、今でも残っているだろうか?
p57~60
<ワラ屋根のある風景>
高野:桧枝岐の温泉はどういう感じでした。
つげ:温泉はどうということはないんです。温泉は、村はずれに共同浴場が一軒ポツンとあるだけで、ですから泊まった宿も普通の風呂だったんですね。そういえば、あとになって泥湯に行ったけど遅かった。泥湯もだいぶ改築されて、ワラ屋根はなくなってましたからね。
高野:奥会津の周辺では、あとどこか強く印象に残っている場所はありますか。
つげ:ちょっと離れているけど、北温泉なんかも好きですね。
高野:北温泉については、エッセイやペン画、水彩画などで何度も紹介していますね。つげ義春といえば北温泉というぐらいで、つげさんの影響で、ぼくも7、8回行っています。じつは1週間前にも、雪の北温泉に行ってきたばかりなんです。
つげ:北温泉に近いというか、白河から岩瀬湯本に通じる街道とか、高野さんも行ったことのある勢至堂とかの宿場に興味があったので、会津の方に行ったんでしょうね。
高野:会津西街道は、ひんぱんに行ったり来たりしているようですものね。当時、あんな人里離れた街道には、誰ひとり関心もっていなかったと思いますよ。
つげ:なんかウロチョロしているんだね(笑)。やはり、古い街道に関心があったからでしょうね。
高野:ぼくは、つげさんの持っている地図帳に鉛筆でしるしがしてあったので、そういう宿場の存在を知ったわけですけど、つげさんは、どこから知識を得たんですか。
つげ:民俗学者の宮本常一さんの本にでも紹介されていたんでしょうね。ワラ葺きの家や宿場がごっそり残っているとか書いてあったのかもしれない。
高野:なるほど、宮本さんの本か。ぼくは、つげさんが行ったり来たりしているころから十数年たって会津西街道へ向かうわけですけど、横川宿に行ってみて、つげさんは70年代の初めころにすでに訪れているので、よくこんなへんぴなところを知っていたなあ、と不思議でしょうがなかった。
つげ:そうね、雑誌や旅行案内の本で紹介されることもないしね。なんかありそうだなあ、という勘というものかもしれないですね。ですから、偶然ということかな。
高野:「旅籠の思い出」の中で中三依の大黒屋に泊まったら宿の夫婦がケンカをはじめてしまってなんて書いていましたけど、写真をみると、大黒屋もワラ葺きですね。しかし、70年代に入ってもまだ宿屋をやっていたということは、泊まる人がいたということでしょう。あのへんに民宿はまだなかったころですものね。
つげ:商人宿ですね。あそこで、すこし話を聞いているんですけども、泊まる人は、やはり商人なんですよ。雪の深いところですから、行商人がやってくるんです。ですけど、だんだん商人よりも釣り客が増えてきたと言っていました。
高野:釣り客といえば、つげさんにすすめられてはじめて岩瀬湯本に行ったとき、ゴールデンウィークのせいもあって、湯口屋は釣り客がいっぱいで、泊まれなかったんですよ。味気のない別館の方に案内されてしまった。
そうですか、会津西街道の存在は知っていたけれども、中三依や横川の宿場にあんなワラ葺きが残っているとは、想像もしていなかったんですね。
つげ:そう、本当に偶然だね。あの近くに山王峠というのがあって、そこにも宿場があって、本陣が残っていたんですよ。
|
つげさんの“多摩川体験”が載っています。
p281~282
<「散歩の日々」「無能の人」と武蔵野>
さて、いよいよ調布篇のクライマックスである。「無能の人」シリーズが『COMICばく』に発表されたのは、1985年6月から翌年の12月までだった。「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る」「蒸発」の6篇で構成され、独立したそれぞれが、ユーモアとエロスに富みつつも、奥行きの深い秀作として結実していた。
その根底に横たわっていたのは、孤立感であり、またあるとくべつの虚無感であったりしたのだが、全体を包み込んでいたのは、読み物としての娯楽性であったと言えよう。
十数年を経た今日、これらの作品は、名作のほまれ高いけれども、発表当時にあっては、マンガベスト100(『COMIC・BOX』誌上)で、マンガ評論家、読者を含め誰ひとりとして1票も投じていなかったのだ。けっきょく、竹中直人の映画化によってあらためて注目されることになったといってもいい。この事実は、マンガ評論家のお粗末さを物語っている。
ところで、当シリーズのなかで「鳥師」はさらに一段と抽象性の濃い、そして精神性の強い作風を示していた。もちろん、「鳥師」とて、多摩川の河原で石売りにはげむ助川助三の貧乏物語がベースとなっている。したがって、ここでは、シリーズの代表作ということで「鳥師」をとりあげるにとどめたい。
つげ義春は、1978年から93年までの15年間を多摩川東岸の染地の団地ですごした。この団地は、20棟以上が並ぶ大きなものだった。作者は、団地に近い多摩川の土手を散歩するのを日課としていた。あるとき、河原で石拾いに精を出している老人に出遭い、「無能の人」のモチーフを構想したらしい。
いわば、多摩川の土手道や河原は、作者にとっての憩いの庭というか、生活空間のひとつであったと思われる。団地住まいになる以前の酒井荘や富士マンションも団地からそう遠くない距離にあった。つまり、作者は、「無能の人」までの20年を多摩川ぞいで暮らし続けていたわけだ。多摩川周辺の風景がことさら好みにあっていたのか、それともたんに家賃が安かったからであるのか、その理由は知らない。
作者は、つねづね、山奥でひっそりと暮らしたいという願望を抱きつづけていた。だが、団地住まいをやめたとはいえ、じつは現在も多摩川ぞいで日々を送っているのである。ということは、“多摩川体験”25年に及ぶ。
|