図書館の放出本コーナーで『ぼくの翻訳人生』という新書を、手にしたのです。
巻末の著者来歴を見ると、東大仏文科卒で、共同通信社の記者、ワルシャワ大学の日本語学科講師などを経て翻訳家になったようです。
とにかく、米国留学を中退し、ポーランド文学、ロシア文学を専攻するというヘソ曲がり具合が大使を打つのです。
【ぼくの翻訳人生】
工藤幸雄著、中央公論新社、2004年刊
<「BOOK」データベースより>
翻訳を手がけて半世紀。著者はポーランド語翻訳の第一人者であり、ロシア語、英語、仏語からも名訳を世に送り出してきた。満洲での外国語との出会い、占領下の民間検閲局やA級戦犯裁判での仕事、外信部記者時代の思い出。翻訳とは、落とし穴だらけの厄介な作業だという。本書は、言葉を偏愛する翻訳者の自分史であると同時に、ひとりの日本人の外国語体験の記録でもある。トリビア横溢の「うるさすぎる言葉談義」を付した。
<読む前の大使寸評>
巻末の著者来歴を見ると、東大仏文科卒で、共同通信社の記者、ワルシャワ大学の日本語学科講師などを経て翻訳家になったようです。
とにかく、米国留学を中退し、ポーランド文学、ロシア文学を専攻するというヘソ曲がり具合が大使を打つのです。
rakutenぼくの翻訳人生
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工藤さんのフランス文学体験を、見てみましょう。
p49~52
<フランス文学科>
大学での進路はフランス文学科となった。現在のように、フランス文学研究科はおろか、ロシア文学科さえもなく、仕方ないので仏文を選んだわけだ。この年、仏文科は30数名の学生を執った。従来は十人前後だったはずだし、太宰治のころなら2、3人に絞られた。その何年かのち急増する新制大学の仏語教師をまかなえたのは、この革命的な大増員がしばらく継続されたお蔭のようである。
中学や高校で教える資格、教員免許状を取得するには言語学と教育学、それに心理学が必修とされた。就職の展望が望めないからには、免状ぐらい取っておかねば苦労する。発心して、1年生のあいだに単位を欲張ってみたが、どれもこれも無味乾燥な講義と思えて放棄した。モンゴルの王女を娶られたとの噂のある言語学概論の服部四郎先生の博識に息の詰まるほどであった以外には・・・。
のちのちの話だが、奥野健男と島尾敏雄の推挽を得て、ぼくが多摩美術大学に教授として乗り込むためには、言語学も教育学も心理学も単位の必用はなく、胸を撫で下ろした。
東大では、俳句の研究者で英国人のBlythさんの闊達かつユーモラスな講義(英語で講じた)とか、中島健蔵さんのフランス文学漫談の講義は、共に肩が張らず、聞き流せば済むので楽しかった。ケンチの渾名があった健蔵先生は、研究室にいるあいだ、缶入りのピースを手放さない。人の顔を覚えない癖があり、卒業後、どこで出くわしても、初めて見る顔という先生の表情だった。
パスカル研究の森有正さんは、哲学そおのもののような印象で苦手な先生と判断して、もっぱら避けた。パリで書いた何冊もの随筆もすべて無視したのは、この印象による。マラルメやヴァレリーの厄介な詩を講じる鈴木信太郎先生も、テキストが写真版のちいさな文字だったし、加えて、詩集の訳本で見ると難しい漢字ばかりを並べるところがぼくには不満だった。軽みのない、重苦しい教師と思いこんだ。
(中略)
当時、学生たちの人気を集めたサルトルやカミュに、むしろ背を向けていたぼくが選んだ卒業論文のテーマはウージェヌ・ダビである。そう聞いて、あれかと分かる若者は絶対にいないだろう。映画「北ホテル」の原作者と書いても、思いつくまい。それほど忘れられた作家である。『狭き門』のアンドレ・ジッドは、戦前に『ソビエト旅行記』でソ連批判を展開して世を騒がせた数少ない先駆者でもあったが、彼のロシア訪問に同行するうちダビはセヴァストポーリで客死した。享年37。なんといっても、早世ゆえにダビの遺した作品の少なさが卒論に選んだ理由だ。
旅先の手記を読むと、ロシアでは幾人もの女性に惚れ、恋々の情を綴っているのが楽しくも哀れであった。労働者の出身であり、戦前版の『北ホテル』の獅子文六訳と原著を読み比べると、労働者街のメーデーで官憲と激しく衝突する場面が、すっぽりと戦前の検閲で削られていた。論文の採点は、たぶん、合格ぎりぎりの「可」であったろう。
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ウン 日本ではどういうわけか映画『北ホテル』の評価が高く不思議に思っていたのだが、こんな背景があったのか♪
・・・かくゆう大使も、パリ観光の目玉として(ミーハーというべきか)、実在の「北ホテル」を見に行ったものです。