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2019/01/25(金)09:15

『縄文の思考』3

歴史(815)

図書館で『縄文の思考』という本を、手にしたのです。 大陸に比べて、長く続いた日本列島の縄文時代であるが・・・ 中華文明が栄えていたころの日本列島の縄文文化はどんなだったかと思うわけです。 【縄文の思考】 小林達雄著、筑摩書房、2008年刊 <「BOOK」データベース>より 縄文土器を眺めると、口縁には大仰な突起があり、胴が細く、くびれたりする。なぜ、縄文人は容器としてはきわめて使い勝手の悪いデザインを造り続けたのか?本書では土器、土偶のほか、環状列石や三内丸山の六本柱等の「記念物」から縄文人の世界観をよみとり、そのゆたかな精神世界をあますところなく伝える。丹念な実証研究に基づきつつ、つねに考古学に新しい地平を切り拓いてきた著者による、縄文考古学の集大成。 <読む前の大使寸評> 大陸に比べて、長く続いた日本列島の縄文時代であるが・・・ 中華文明が栄えていたころの日本列島の縄文文化はどんなだったかと思うわけです。 amazon縄文の思考 5章「定住生活」からムラの生活を、見てみましょう。 p57~61 <ムラの生活>  この定住的生活への第一歩こそ、人類文化の第一段階から第二段階へと飛躍する、人類史における最初の歴史的大事件である。一箇所に定住することで、身体を動かすことが大幅に減った。  つまり、朝目覚めるや直ちに、自分の肉体を維持するためのカロリーを摂取する食物探しにとりかかり、そのことだけにほとんど1日中費やしていた時間にとって代わって、精神を働かす方に時間を振り向けられることになったのだ。縄文人の知性がいよいよ活発な動きを開始する契機となったのである。  目的地を目指して歩きながら、考えごとをめぐらすのは、なかなか出来そうで出来ない相談である。あるいは激しく動き回るだけでなく、腰を下ろして、食物を食べるときでさえ、考えごとを始めると箸が止まってしまう経験に思い当たるふしがある。じっくり落ち着いて考えることが出来るのには、身体を動かさないで過ごす時間が必要とされたのであり、定住生活によってその状況が整い、縄文文化の形成を約束してくれたのだ。  定住生活はまた、遊動生活における1日刻みの単位から少なくとも数ヶ月あるいは数年単位以上の長期にわたる滞留を意味するのである。それだけ一つの場所空間を占拠し続け、さらに快適さを確保するために邪魔物を排除し、自分に好都合な空間へと整備を進めてゆくこととなった。  やがて、縄文人は縄文人用のためだけに、縄文人の独自の空間=ムラを作り出すに至ったのだ。換言すれば、それまで身を寄せていた自然の一画を勝手に切り取り、明らかに自然に対抗する構えをみせて臆するところがなかった。  自然の中に新たに築いたこの人工的空間としてのムラは、自然的秩序からの分離独立の具体的な宣言であり、縄文人の人間としての主体性確立の象徴である。  ムラの中には、まず第一に寝起きするための、にわか作りではない十分に耐久性のある住居が建てられ、日常的に排出するゴミの捨て場、食物を保存する穴蔵、死者を埋葬する共同墓地などが次々と設けられていった。  いわばムラに住み続けるにつれて、さまざまな施設がその種類と数を増やし、元の自然の様子は見る影を失い、それだけ人工色を強めてゆくのである。こうして占拠した空間は、名実ともに縄文人好みに変形加工され、様相を一変させ、ムラの周囲に広がる自然との差異をくっきりと浮び上がらせて止むところがなかった。  人工色は、住居をはじめとする縄文人の創り出した諸施設ばかりではない。ムラの中には、自然林の中の植物の種類とは別のオオバコやスベリヒユやイヌノフグリなどの陽当りを好む開地性の雑草がはびこってゆく。クリの木は実をつけるから焚木にいないで伸びるにまかせているうちに、ムラの周りあるいは一画はまるで果樹園のような光景を現出する。視覚が捉えるムラは、ムラを取り巻く自然の世界とは別物へと変身を続けるのだ。  目に映る光景ばかりでなく、ムラのあちこちを歩き回るイヌの姿と鳴き声、子供のかまびすしい遊びの声、お互いに交わす挨拶、広場から流れてくる話し声、それらがない交ぜになってムラ特有の音の世界を演出する。それらはムラの外の自然的秩序が有するサウンドスケープとは全く異質の聴覚が捉える世界だ。  視覚や聴覚だけではない。嗅覚を刺激するもう一つのムラもある。自然の中を歩き回って鼻にする匂いとは別の、ムラ成立以前には絶えてなかったヒトが作り出すえも言われぬ人間生活の匂いである。草イキレではない、人イキレが漂い、それがなつかしさを誘う。  外から戻ってくると目に飛び込んでくる光景に、いつの間にか村の中の空気に染みついたなつかしい匂いが、確かに帰って来たぞと安堵させてくれるのだ。ヨーロッパやアジア各地の空港に着いて降り立ったとき、それぞれの建築物やたたずまいの異国情緒よりも、ときにはむしろ最初に鼻に忍び寄ってくる特有の匂いに、改めて外国に来たんだという感懐を意識する経験が思い出される。  縄文人は確保した空間を橋頭堡として、自然と対峙いながら、自然の中に存在し、自然の秩序に従う生物の全てに対して、俺たちはもう動物ではない、ましていわんや植物では勿論ない、人間なんだと自覚するきっかけを獲得したのである。近代以降の自我意識に先立つ、人間意識の萌芽である。自然と一線を引いた縄文人の人間宣言である。 (中略)  縄文人の人間宣言とは、生命体を維持するための食料獲得の身体的運動とは別に、象徴的世界を頭の中に創造することを意味するのである。この象徴性こそが人間の脳だけに許された特有の能力であって、手や足の身体運動においては人並み以上に優れた能力を発揮する動物のいかなる種といえども、到底太刀打ち出来ない領域に属するのである。  象徴性にかかわる想像の主体は、コトバである。コトバによってイメージがふつふつと湧き出し、さまざまな幻想、夢、興味など目には見えない心の動きを促し、限りなく拡大させた。 ウン ムラのざわめきや匂いまでを語る、著者の時代考証がいいではないですか♪ それから・・・縄文人の象徴性や言語に言及するところが他の歴史書とは違っていますね。 『縄文の思考』1:縄文語や縄文文化 『縄文の思考』1:記念物=モニュメント

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