図書館で『コロンブスからはじまるグローバル社会I493』という本を、手にしたのです。タイム誌ベストノンフィクション部門の第1位になったとか・・・さて、どんなグローバル社会なのか。
【コロンブスからはじまるグローバル社会I493】
チャールズ・C・マン著、あすなろ書房、2017年刊
<「BOOK」データベース>より
コロンブスのアメリカ到達によって、世界はどう変わったのか?さまざまな思惑によって、人とモノが行き交い、世界がつながっていく様子をダイナミックにたどる新しい歴史入門書。タイム誌ベストノンフィクション部門(2011年度)第1位の大著が、わかりやすくコンパクトに!
<読む前の大使寸評>
タイム誌ベストノンフィクション部門の第1位になったとか・・・さて、どんなグローバル社会なのか。
rakutenコロンブスからはじまるグローバル社会I493
|
「第6章 中国のタバコとトウモロコシ」で倭寇や客家を、見てみましょう。
p124~126
<天恵の渡来作物>
コロンブス交換がはじまったころ、中国は世界人口の約四分の一を占めていた。しかし、農地は世界全体の十二分の一ほどしかなく、そこで大人口を養っていかねばならなかった。国民の主食の約半分はコメとコムギだったが、コメやコムギの栽培に適する水の豊かな地域は、少ししかないのだ。
中国には砂漠が多く、大きな湖は少なく、降水量も一定していない。大河といえば、長江と黄河の二つきりで、どちらも、西部の山岳地帯からうねうねと蛇行しながら長い距離を流れ、互いに250キロメートルと離れていない地点で太平洋へそそぎこむ。長江は山にたまった雨水を稲作のさかんな河口の平地へ運び、同じく黄河は、コムギの主産地である華北平原へと水を届けている。
どちらの地域も国家的穀倉地帯であるが、双方とも壊滅的な洪水にあいやすい。中国の歴代王朝は、ダムや運河などの巨大な治水施設の整備に力を入れて、河川や灌漑地を管理してきた。
巨大な総人口に比べて適当な農耕地が少ない中国では、コロンブス交換によってもたらされた新種の作物は、まさしく天恵だった。人々は争ってそれらを栽培した。サツマイモ、トウモロコシ、ラッカセイ、トウガラシ、パイナップル、カシューナッツ、マニオク(キャッサバ)といった作物が、ガレオン貿易を通じて福建省へもちこまれた。
これらはアメリカ大陸からフィリピンへ渡り、その後中国へ入ったのだ。他の省には、オランダ人やポルトガル人商人によって、同様の作物がもたらされた。すべての作物が中国人の生活に不可欠となって、現在にいたっている。今では中国は、世界のサツマイモの四分の三を産出する世界一の生産国になり、トウモロコシについてはアメリカ合衆国に次ぎ、世界二位の生産を誇っている。
サツマイモの原産地はおそらく中米だろう。スペインの船によってフィリピンへ運ばれたサツマイモは、すでにタロイモを栽培していた地元民にさっそく採用された。タロイモはサトイモの仲間で、デンプン質の多い、ほのかに甘い大きな根菜だ。サツマイモもタロイモと同じく、葉と茎は地上部にあり、食用部分は養分を蓄えて肥大した、地中にある塊根である。
フィリピンでサツマイモを食べた福建商人がこれを気に入り、1590年代初めに、スペイン人の積み荷検査官の目を盗み、ひそかに母国へもちこんだ。検査官は、サツマイモのような植物の国外持ち出しを阻止するために置かれていたのではなく、金目のものは渡したくないと思っていただけだった。
この時期にサツマイモが伝来した福建省は、幸運だったと言えるだろう。中国では、1580年代から1590年代まで、小氷期が猛威をふるっていた。この20年間の大洪水で福建の水田は洗い流され、貧しい農民は、木の皮や雑草、虫を食べるはめになっていたのだ。サツマイモをもちこんだ商人の息子が福建省の地方長官にこれを見せると、長管はただちに、この新しい作物を植えつけるように農民に命じた。
まもなく、月港の八割の住民が、サツマイモを主食にするようになった。1644年に北京の明王朝が満州族に倒されるまでには、サツマイモ栽培は福建中に広まっていたのだ。
1644年以降、中国では数十年間も動乱の日々がつづいた。この年から明王朝の遺臣たちが、福建を本拠と定めて抵抗したからだ。一方で、民の兵士の中には軍籍を捨て、倭寇に鞍替えする者もあった。本家の倭寇はこの混乱に乗じ、海賊活動を活発化させた。満州族による征服王朝清は、こうした勢力を兵糧攻めにするため、全長4000キロメートルにおよぶ沿岸部に住む人々を、大陸の内地へ強制移住させる遷界令を発令した。
清の軍隊は海辺の村を焼き、船はひそかに自分のものにした。人々は着の身着のままで追い立てられ、残った者は皆殺しにされた。30年間、沿岸部は陸へ80キロメートル入った地点まで、まったくの無住地帯となった。沿岸部の人々は西へ向かい、福建、広東、浙江の山間部へなだれこんだ。
しかし、そうした高地にはすでに人が住んでおり、その大半が客家と呼ばれる、独自の言語や習俗をもつ集団だった。客家やほかの山岳民族は100年ほども移動しながら、急峻で乾燥が激しいために稲作のできない高地を借りていた。そして山を覆っていた木々を切って焼き払い、耕地をひらいて、そこに濃青色の染料がとれる藍を植えて生計を立てた。
こうした焼き畑農業を数年間つづけると、元々やせている土の地力が失われてしまうので、客家は別の土地へ移った。土地をもてず貧窮していた客家の中には、棚のような仮小屋に住んでいたため棚民と呼ばれ、差別される者もいた。
棚民の仮小屋
|
ウーム 倭寇の跳梁に耐えかねた清王朝は遷界令を発令したのか。・・・これが彼の地で玉突き移住を起こし、客家やほかの山岳民族は100年ほども彷徨ったわけだ。
『コロンブスからはじまるグローバル社会I493』3:ガレオン貿易
『コロンブスからはじまるグローバル社会I493』2:鄭和の大遠征
『コロンブスからはじまるグローバル社会I493』1:コロンブス交換