図書館で『中国人のものさし日本人のものさし』という本を、手にしたのです。
この本には見覚えがあるような、ないような・・・帰って調べるとおよそ10ヶ月前に借りていたのです。で、(その4)としました。
【中国人のものさし日本人のものさし】
村山孚著、草思社、1995年刊
<「MARC」データベース>より
日本と中国は末長く仲よくつきあっていかなければならない隣り同士。中国人を知るユニークな比較文化論。挨拶、食願望、マナーなど暮らしの中で探った中国人の考え方の規準と行動原理を紹介。
<読む前の大使寸評>
北京五輪の聖火リレーで、どこに行っても繰り広げられたいざこざがあり、「どこに行っても嫌われる中国人」という側面が見えてきたわけで・・・
これがチャイナ・スタンダードというものかと思ったものです。
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「ごはん食べた?」の章を、見てみましょう。
p47~50
<最大の関心事>
「王者は民をもって天となす」
「民は食をもって天となす」
ともに『漢書』にある明言である。この場合、「天」とは唯一無二の拠りどころであり、すべての根源である。民衆にとって「食」はまさに天なのだ。民衆を食わせられない天子は、その資格を失う。あらゆる場合に「食」が重要な役割を果たすのは、日本の比ではない。日常生活でも食事は最大の関心事だ。
日本では仕事に乗ってきたり時間が無かったりすると、食事を抜いてしまうことが間々ある。だが、中国ではよほどことがないかぎり、食事抜きは考えられない。「まず食事ありき」なのである。
自分だけでなく、人に対するこの配慮も必要だ。
たとえば運転手つきの自動車で遠出をするとき、あるいは運転手を待たせて宴会に出るとき、必ず運転手の食事の手配をしなければならない。昨今は、中国の社会も忙しくなるにつれ、金を渡してすますような場合もあるようになったが、とにかく運転手の食事には神経を使わなければならない。
(中略)
<取り分けのわざ>
わたしたち日本人も近ごろはだいぶ社交性が出てきたが、中国人には遠くおよばない。やはり年季の入れ方がまるでちがうのだ。なにしろ、こちらがまだ縄文人だったころ、あちらは「朋あり遠方より記たる。亦楽しからずや」(『論語』)などと交遊を楽しむ一方、「富貴なれば士多く、貧賎なれば友すくなきは事の固然なり」(『史記』)などという醒めた見方もしていたのである。社交性については、中国と日本とでは、先進国と途上国以上のちがいがある。
この社交性と食願望とが結びついたとき、世界に名だたる中国人の宴会となるのである。そこで、宴会はただ中国料理を味わうだけでなく、中国学のひとつの教材になるだろう。そのマナーから見ていこう。
まず日本とちがうのは、正面の席に主人が座ることだ。どこが正面かというのは、部屋の構造によって一概にはいえず、中国人に聞いてみても、地方や人によって諸説がある。いずれにしても主人が上座に座る。これは家父長制の名残りと解釈できないこともないが、それよりも機能的にはコンダクターとして全体に目をくばるためと解釈したほうが説明がつく。
そばの客には大皿から料理を取り分けて勧める(「譲菜」という)。杯の空きぐあいを見て、すかさず酒をつぐ。一座がくつろげるよう客を立て、かつ肩の張らない話題を提供する。料理の出方が早すぎないか遅すぎないか気をくばる。・・・こうしたことを、ごく自然にさりげなくやるのが主人の役割なのである。
日本の男性は概して、こういうことに不器用である。日本の料亭だと、女将がもてなしてくれるからいいが、中華料理店だとそうはいかない。以前、日本人主催の中国式宴会に出たことがあるが、主人が最初に勧めないものだから、中国人の客たちが料理に手を出せず、モジモジしていた。もちろん「譲菜」もやらないから、客が気をきかせて逆に取ってやったりしていた。
日本紳士の酒席の話題は、仕事か会社の話、さもなければ政治論議だったりして、座がしらけがちだ。くだけるとなると、こんどはもっぱらお色気ばなしである。これは中国ではへたをすると失礼になり、とくに女性がいる席では厳禁であった。
また乾杯は中国の宴会における重要な行事である。主人は客のために然るべき理由をつけて乾杯を提唱する。杯をあけたら一同、前に傾けて飲みほしたことを示す。この乾杯は一度に限らず、いろいろとめでたい理由をつけて何度かやる。
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『中国人のものさし日本人のものさし』3:中国人の怒りp110~112
『中国人のものさし日本人のものさし』2:「ありがとう」と「すみません」p85~87
『中国人のものさし日本人のものさし』1:漢字の渡来p141~144