図書館で『病が語る日本史』という文庫本を、手にしたのです。
新型コロナウィルスが猛威をふるっている昨今であるが、古来、日本人や御雇い外国人医師たちは、いかに病気に立ち向かってきたか・・・興味深いのでおます。
【病が語る日本史】
酒井シヅ著、早川書房、2008年刊
<「BOOK」データベース>より
古来、日本人はいかに病気と闘ってきたか。人骨や糞石には古代の人々が病んだ痕が遺されている。結核・痘瘡・マラリアなどの蔓延に戦いた平安時代の人々は、それを怨霊や物の怪の祟りと考え、その調伏を祈った。贅沢病といえる糖尿病で苦しんだ道長、胃ガンで悶え死にした信玄や家康。歴史上の人物の死因など盛り沢山の逸話を交え綴る病気の文化史。
<読む前の大使寸評>
新型コロナウィルスが猛威をふるっている昨今であるが、古来、日本人や御雇い外国人医師たちは、いかに病気に立ち向かってきたか・・・興味深いのでおます。
rakuten病が語る日本史
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胃を全摘している大使はガンが気になるので、先ず「第二部 時代を映す病」を見てみましょう。
p123~124
■武田信玄の病気
戦国時代の武将武田信玄もガンで亡くなった。しかし、結核であったという説もある。信玄の伝記を語る「甲陽軍艦」に「隔を煩い」とあることから胃ガンであった可能性が高い。隔の病とは胸と腹の境、横隔膜あたりの病である。
また、信玄が亡くなったときの侍医御宿監物の書状に「肺肝に苦しみ、病患たちまち腹心にきざして、安せざること切なり」とある。ここでいう肺肝は肺臓と肝臓を指すのではない。胸と腹に苦悩があり、容態が急に悪化したということである。
信玄が亡くなったのは三方ヶ原の戦いからの帰路の途中、まだ53歳のときであった。
もし信玄の病が労咳(肺病)であれば、相次ぐ転戦を重ねた日々の記録に、労咳の症状は現れてもよいだろう。しかし、その病に苦しむ様子は見当たらない。
信玄が最後の戦いに臨んだのは、元亀三年(1572)の秋、京都を目指しての大遠征であった。途中、行く手を阻む徳川側の諸城塞をことごとく粉砕し、浜松城にいた徳川家康が攻撃を仕掛けたが、これを深追いせずに先を急ぎ、三方ヶ原での戦いで織田・徳川連合軍を撃破したのである。破竹の勢いで京都を目指していた甲州軍団は、浜名湖の東北、刑部で正月を迎えたあと、不意に西への進軍をやめて、北に向かった。
このとき信玄はすでに馬に乗ることができず、台上に座って、これを担がせていた。おそらく胃隔の症状がひどくなっていったにちがいない。信玄の病が思いがけず、早く進行していたのである。信玄は急いで甲府の館に帰るため、三河設楽郡の山地を通り、信州伊那郡を経て甲州に帰る近道を進んだ。
しかし、設楽の山中で昏睡状態になり、伊那の駒場についた4月12日に、崩れるように亡くなった。病気の進行がかなり早いこと、「隔の煩い」という記事から信玄の死因は胃ガンを診断した。戦国の争乱で度重なる危機を乗り越えた智将信玄も病には勝てなかった。
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「第三部 変わる病気像」を見てみましょう。
p253~255
■岩倉具視と食道ガン
西洋医学の普及とともに、胃ガンなどの診断ができるようになってきた。それ以前は、ガンといえば乳ガンだけであった。漢方では内臓のガンの病名がなかったのである。それで、このころからガンで亡くなる人が出てくるが、その数はそれほど多くなかった。
それだけにガンで亡くなることは目立った。そのひとりが岩倉具視であった。岩倉は食道ガンであった。治療に当ったのがベルツである。ベルツは年輩の人にはベルツ水で馴染みがあるだろう。ベルツは御雇い教師として明治9年にドイツから招かれ、東京大学に赴任して、明治38年まで29年間、内科の教師として日本の医学の近代化を推し進めた人である。ベルツは日記を残しているが、明治16年のところに岩倉具視がガンが進行して死亡するまでの経過を記している。
明治16年6月12日、京都にいた岩倉は突然胸部に痛みを覚え、物が食べられなくなった。ガンのために食道が狭くなり、食べ物が通らなくなっていたのである。ベルツは文部省と宮内省の役人に呼ばれて、岩倉の診察に京都に行くようにという勅命を受けたのであった。
ベルツは助手1名を連れて船で神戸に向かった。岩倉を診ると、ガンはすでにかなり進行して、食べ物がやっと少しとれる状態であったために、衰弱がひどかった。6月末まで滞在して、治療に当った。
その甲斐があって、少し回復したのであろう。岩倉と医師の一行は神戸から東京に海路で戻った。このとき岩倉は、ベルツに包み隠さず話してほしいと事実を明らかにすることを求めた。
それに対して、ベルツは、「お気の毒ですが、御容態はいまのところ絶望です。こう申し上げるのも、実は公爵、あなたがそれをはっきり望んでおられるからであり、また、あなたには正確なことを知りたいわけがおありのことを存じていますし、あなたが死ぬことを気にされるような方でないことも承知しているからです」といった。
このとき岩倉は「ありがとう、では、そのつもりで手配しよう」といったあと、「ところで、いまひとつあなたにお願いがある。ご存知のとおり、伊藤参議がベルリンにいます。新憲法をもって帰朝するはずだが、死ぬ前にぜひとも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。それで、できれば、すぐさま伊藤を召喚し、次の汽船に乗り込むよう指令を出そう。しかし、その帰朝までにはまだ何週間もかかる。それまで、わたしをもたたさねばならないのだが、それができるでしょうね?」、そして、さらに低い声で「これは、決して自分一身の事柄ではないのだ」とつけ加えたのであった。
ベルツは「全力をつくしましょう」と約束をした。
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