大使の故郷・幡多には思いのほか、京都なまりが残っているので、それらを思い出してみます。
そんな言葉が残っている訳は・・・言ってみれば「遠流(おんる)の地」だったからでしょうね。
・おおきに(ありがとう)
・ほたえる(たわむれる)
・まろぶ(ころぶ)
・ざまに(すごい、すごく)
・~ちや(~だって)
・~けん(~だから)
・へんしも(すぐに、急いで)
・がいな(乱暴な)
・づつない(とても悲しい)
・えっころ(相当)
京都新聞に「遠流(おんる)の地」が報じられていたので、見てみましょう。
2020/5/15土佐への遠流、京とのゆかり 石畑匡基氏より
新型コロナウイルス感染の流行はいつまで続くのだろうか。高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市)の企画展「遠流(おんる)の地 土佐」では、3月10日までの会期を全うすることなく、3月5日で閉幕した。
企画展の準備をしたものの、全く開館することなく閉幕を迎える博物館が増えている現状からすれば、会期のほとんどを終えることができ、幸いであったのかもしれない。
この企画展では、古代から日本で行われた刑罰である流罪をテーマに取り上げた。流罪には、罪の軽重によって「近流(こんる)」「中流(ちゅうる)」「遠流」があった。土佐(高知県)はその中でも最も重い「遠流」に規定されていたことに因んだものである。
京都からも、多くの人々が土佐へ流されている。その一人が土御門上皇である。父の後鳥羽上皇と弟の順徳天皇が、1221(承久3)年に鎌倉幕府打倒を画策して「承久の乱」を起こしたことが影響し、土佐へ配流(はいる)となった。その後、土佐は遠すぎるという理由で阿波(徳島県)へ移され、同地で亡くなった。
展示で特別協力をいただいた冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)は、土御門上皇が配流中に土佐で詠んだ和歌が載る「土御門院御集」と、上皇の女官が記した「土御門院女房(日記)」を所蔵している。それらを四国で初めて公開できた。
作品返却に訪問した際には「このように取り上げられて土御門上皇も喜んでいらっしゃるだろう」と言われ、改めて開催の意義を実感した。
ところで、土御門上皇のように、配流地で無念のまま亡くなった人がいた一方、罪を許され土佐での観光を楽しんで帰京した人もいる。その一人が江戸時代の公家である滋野井実光だ。
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ディープな幡多弁が
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『容疑者の夜行列車』という本で、スイス方言について語っています。