『明治の世相:ビゴー素描コレクション2』(復刻)
.rtfデータには往生こいているので、図像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、図像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『明治の世相:ビゴー素描コレクション2』という大形本を手にしたのです。パラパラとめくると、日本人にとって辛辣なイラストに見えるが・・・どことなくユーモラスで優しいところもあるのです。【明治の世相:ビゴー素描コレクション2】ジョルジュ・ビゴ-, 芳賀徹著、岩波書店、1989年刊<「BOOK」データベース>より明治20年から23年まで、横浜居留地で刊行された『トバエ』は、当時の日本の世相を冷徹な眼力で描いたもので、その辛辣な政治諷刺は、ビゴーの諷刺画の最高傑作といわれている。『トバエ』を中心に220余点収録。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、日本人にとって辛辣なイラストに見えるが・・・どことなくユーモラスで優しいところもあるのです。rakuten明治の世相:ビゴー素描コレクション2p149~150<フランスから来た浮世絵師:芳賀徹> 『トバエ』を中心としたこの素描集を繰ってゆくと、ジョルジュ・ビゴーというのはまことに才気活発、あらゆる意味で「達者な男」だったことに、あらためて気がつき、感心する。 彼自身、『トバエ』では第一号の表紙にピエロ姿で登場するのをはじめ、ときどき思いがけないところに自分の顔を出している。他に水彩の自画像などもある。 それらを見ても、この絵師は日本人の生活と社会にぶしつけなほどの好奇心を向け、そのなにげない細部にまで鋭敏な眼を走らせ、日本人との少々のトラブルなどは持ち前の陽気さとフランス人としての優越感によってまたたくまに乗りこえてしまったにちがいないと思われる。少なくても画中に見えるところではそんな風な男だ。 18年の日本滞在中、後半になるとさすがに少し太ったようではあるが、それでも背は高くて高すぎず、顔は面長で眉は濃く、黒っぽい眼は丸く大きくれ、よく動きよく笑う。長くて高い鼻の下には濃い口ひげを生やしたり、剃ったりしている。艶のいい頬やもみあげのあたりからはいつもオー・ド・コローニュのいい匂いなどさせていたのではなかろうか。そんな風にも思われるほど、こざっぱりとして、身奇麗だ。(中略) 明治15年(1882)4月、来日して3ヶ月目に横浜で撮ったという侍姿の写真も残っているが、なかなかハンサムな優男に写っている。これではビゴーの身辺にさまざまな日本女性が出入りしたというのも、もっともだと思われる。作品から推しても彼自身かなりの色好みだったと思われるが、女のほうから眺めてもちょっと惚れたくなるような洒落者だったのだろう。 口にくわえている曲がったパイプをちょっとはずすと、たちまち軽快な早口のフランス語が飛び出し、それに片言の面白おかしい日本語や、ときに英語も混じったのにちがいない。男の眼は愉快そうにまた皮肉っぽく、いきいきと輝きながら・・・・。 このようなパリ生まれのパリっ児の才人が、1870年代の後半、ジャポニスムがいよいよさかんになるパリで、フェリックス・ビュオやエドモン・ド・ゴンクール、フェリックス・レガメなどと知り合いになり、日本に憧れてついに明治15年(1882)1月末、22歳の若さで横浜にやって来たのである。 そしてそれから明治32年(1899)6月、39歳で帰国するまで、前に記したように実に18年の間を日本で暮らした。 いわゆる文明開化時代の終りの頃から、自由民権と鹿鳴館の時代、そして憲法発布と日清戦争、またなによりも条約改正へと、内にも外へも揺れ動き、急速に変転する明治半ばから後半の日本列島の情景を、あのよく動く眼で上から下から、表から裏から、外国人の治外法権の特権を生かしながらも大概は斜めから、ほとんど絶え間もなく観察し、記録し、風刺をこめて描いていったのである。ビゴーのこの漫画集、石版素描集が面白くないはずがない。 ビゴーの作品は、『トバエ』などの石版画のみならず、その水彩や油彩の作品も含めて、まだまともにフランス美術史のなかに位置づけられてはおらず、フランス・ジャポニスム運動の一環に名をとどめるにすぎないという。それは無理もないことである。 ビゴーは才気ある絵師にはちがいなかったが、同時代のマネヤモネやルノワールやゴーガンとならぶような第一流の独創の天才ではもちろんなかった。第二流でさえなかったろう。しかし、この異国における風刺の絵師をそのように同時代母国の画壇にすぐさまひきもどして格付けをしてみようというのは、たとえば徳川美術史の上で淋派や南画派と浮世絵師とを直接にならべてどちらが偉いかと問うのにも似て、あるいはそれ以上に、ジャンル、技法、また職分の別を故意に無視してしまうことになりかねない。 ジョルジュ・ビゴーにはジョルジュ・ビゴーの、19世紀後半の東西美術・文化交流史、また明治日本社会史の上における「分」、役割というものがあったのであって、彼はそれを十分に立派に果たした。おそらくはドーミエの風刺画の流れに北斎漫画の刺激が加わった画環境のなかから出てきて日本に渡来し、その資質と境遇とさまざまの偶然とから、明治日本の世態風俗を独自の見方で思うさまに描き批評するのが、その生涯の主要な仕事となってしまった画家。 彼はみずから「仏国の江戸っ子なりと自称」していたそうだが、まさにフランス生まれの浮世絵師、パリからやってきた明治の浮世絵師として、河鍋暁斉、チャールズ・ワーグマン、小林清親ら、日本における先輩・同僚の向こうを張ることとなったのであった。私たちはそのような日本なりの評価を添えて、いつか彼をフランスの近代美術史、美術社会史の分野に一時帰国させてやればよいのであろう。■ビゴー漫画のプロンプター ところが、明治の世相風刺の絵師としても、ビゴーの独創性はどの程度であったか、どのあたりまでが彼自身のものといえるのか、一応は疑ってみる必用のある作も少なくない。 とくに『トバエ』を中心としたこの「明治の世相」の巻で、日本語の文章を長短さまざまに書き入れた政治風刺の作については、かならずや日本側の協力者がいたにちがいない。達筆で書かれたその文字はもちろん、ときに中国の故事や漢詩の数句を織りこんだりする文章も、日本人でかなり学のある者でなければ書けないものであることは確かである。さらには風刺の発想そのものも日本人協力者から来ているのではないかと思われる例もある。トバエの数枚を見てみましょう。