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神社仏閣・京都⇒ 上京区 :光源院・相国寺
         西京区 :善峯寺
(日本)     下京区 :松明殿稲荷神社・渉成園・
              真宗本廟・不動堂明王院・
              道祖神社・本光寺・興正寺
         中京区 :染殿院・錦天満宮・善長寺
              安養寺・永福寺・西光寺・
              誠心院・誓願寺・本能寺・
              下御霊神社・行願寺・頂法
              寺・神泉苑
         南区  :伏見稲荷大社御旅所・六孫
              王神社・矢取地蔵尊・鎌達
              稲荷神社
         東区  :得浄明院・松風天満宮
         東山区 :勝林寺・来迎院・泉涌寺・
              建仁寺・今熊野観音寺・雲
              龍院・万寿寺・豊国神社・
              方広寺・新熊野神社・芬陀
              院・光明院・恵美須神社・
              禅居庵・六波羅蜜寺・六道
              珍皇寺・若宮八幡宮社・両
              足院・毘沙門堂・瀧尾神社
              法住寺・養源院・仲源寺・
              八坂神社・東福寺三門・即
              宗院・建仁寺開山堂・退耕
              庵・善慧院・同聚院・五社
              成就宮・蓮華王院・智積院
              新日吉神宮

         伏見区 :石峰寺・御香宮・城南宮・
              北向山不動院・源空寺・本
              教寺・大光寺・墨染寺・欣
              浄寺・大黒寺・金札宮・宝
              塔寺・藤森神社・瑞光寺・
              嘉祥寺・産場稲荷社・長建
              寺・西岸寺・龍雲寺・伏見
              稲荷大社・伏見稲荷神宝神
              社・東丸神社・本成寺・勝
              念寺・乃木神社・伏見稲荷
              本教間力教会・八霊社・大
              日本大道教・法教総神
              苑
         宇治市 :万福寺・恵心院・興聖寺・
              三室戸寺・放生院常光寺・
              宇治神社・宇治上神社・旦
              椋神社

         木津川市 : 法泉寺・西宮神社・相楽神
              社・蟹満寺 

京田辺市 : 棚倉孫神社  

         城陽市 :中天満神社・市辺天満神社  
         
         長岡京市:長岡天満宮・乙訓寺・光明
              寺
         八幡市 :石田神社(上津屋)・石清
              水八幡宮頓宮・高良神社・
              石清水社・石清水八幡宮・
              単伝庵
         相楽郡 :八大龍王神社・稲植神社   
         
         井手町 :西福寺
 
     奈良⇒ 奈良市 :伝香寺・不退寺・般若寺・
              法華寺・宇奈多理座高御魂
              神社・休ヶ岡八幡宮・孫太
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              神社・福松大神・山陵八幡
              神社・秋篠寺・八所御霊神
              社・西大寺・石落神社・喜
              光寺・菅原天満宮・手向山
              八幡宮・御嶽山大和本宮・
              新薬師寺・比売神社・南都
              鏡神社
               
         橿原市 :本薬師寺跡・高市御縣神社
              久米寺・久米御縣神社

         葛城市 :脇田神社 
         桜井市 :談山神社
         天理市 :長岳寺・伊射奈岐神社

         高市郡 :甘樫坐神社・向原寺         
         吉野郡 :立里荒神社
     
     大阪 ⇒ 北区  :大阪天満宮
         住吉区  :住吉大社
中央区  :坐摩神社・真宗大谷派難波
               別院 
        天王寺区 :堀越神社・一心寺・安居神
              社・四天王寺
          
         
 
         浪速区 :大国主神社・今宮戎神社・
              浪速寺
         東住吉区:山阪神社
         交野市 :磐船神社
         堺市  :美多弥神社

    和歌山⇒ 和歌山市 :淡嶋神社

有田郡 :施無畏寺

 伊都郡 :宝善院・熊谷寺・恵光院・
              密厳院(苅萱堂)・大圓
              院
日高郡  : 興国寺 


     滋賀⇒ 大津市 :大津別院・園城寺・長等神
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         長浜市 :與志漏神社・鶏足寺

兵庫⇒神戸市垂水区:高塚龍神社

長田区 :長田神社
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           西区 :太山寺

          東灘区 :中勝寺・弓弦羽神社  

          芦屋市 :打出天神社

 静岡⇒伊豆の国市:願成就院・
          三島市 :三嶋大社
駿東郡 :貴船神社

    

(大韓民国)
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世界遺産・京都⇒ 下京区 :本願寺

 南区  :東寺・元離宮二条城・観智
              院
(日本) 奈良⇒ 奈良市 :平城宮東院庭園・薬師寺・
              萬葉植物園・春日大社・東
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    和歌山⇒ 伊都郡 :慈尊院・丹生官省符神社・
              壇上伽藍・金剛峯寺・徳川
              家霊台・奥の院・弘法大師
              御廟・金剛三昧院
 

  静岡⇒伊豆の国市:韮山反射炉 

(大韓民国)
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全381件 (381件中 1-10件目)

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2019.10.12
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カテゴリ:神社仏閣巡り
​​近鉄京都線「新田辺」駅下車。
車の往来が多い府道22号線から平行に、結構きついスロープが上へと続いている。その坂を上がった先にあるのが、「棚倉孫神社(Tanakurahiko-jinjya)」だ。「孫」と書いて、「ひこ」と読むらしい。
下矢印


下矢印京田辺市には、「京田辺の未来に継ぐ古木・希木」と指定された樹木があるようだ。
左側は、クロガネモチ・樹齢250年     右側は、ケヤキ・樹齢300年。
 

スロープを上がりきると、眼下に神社が見えてきた。

下矢印石鳥居の向こうに見えるのは、拝殿。


下矢印手水舎。


下矢印階段横にある「金毘羅社」。


下矢印さあ、階段を上って鳥居を潜ったら、「棚倉孫神社」です。
ご祭神:高倉下命(Takakuraji-no-mikoto)。
    別名:天香古山命。
社伝では、623年創建。
拝殿は、1768年再建。
 

下矢印狛犬’S。同じ制作時期なのでしょうか?右の方が古く見えます。
 

下矢印満開のピンクのサザンカと、遥拝所。
奥に本殿(京都府登録有形文化財)が見えます。1606年建立。




下矢印「五社殿」。
 寶蓮稲荷大明神
 紅梅殿・老松殿
 春日大明神・天照皇大神宮・八幡大菩薩
 多賀神社
 稲荷神社 




下矢印臥牛像。
江戸時代には、「天満宮」と呼ばれていたらしいけど、調べても、菅原道真(Sugawara Mituzane)は全然出てこない。。


下矢印絵馬殿に奉納されている、絵馬。これって、算額かな?
 
                      「武者図」義山涼信上矢印


 
       「角力図(Sumou-zu)」義山涼信・作  1839年奉納上矢印

下矢印絵馬殿の横の建物には、子供用の「瑞饋神輿(Zuiki mikosi)」(京田辺市無形民俗文化財)と。


下矢印大人用のものが置かれてある。たくさんの穀物と野菜で飾られていて、見ていて楽しい。
ずいき、とうがらし、きんかん、なす、まめ……。
2年に1度ある例祭で、使用される。田辺地区を巡行するようだ。
 

下矢印社務所。石碑に「松寿院跡(Syoji-in-ato)」とある。
旧・神宮寺「松寿庵」で、神仏分離令によって廃寺となる。1871年までは寺子屋として、それ以降は、田辺小学校の仮校舎として使用されていた。


さて、次に向かうとしますか。





    下矢印「天津神川」。この辺りの川は、「天井川」と言って下を車や電車が走ります。
      
                           (2017年12月上旬現在)​​






Last updated  2019.10.12 19:57:16
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2019.10.04
「本願寺」(世界遺産)の、堀川通を挟んで向かいにあるのが、仏教総合博物館「龍谷大学 龍谷ミュージアム」だ。
前面にすだれが垂れ下がっていて、和風を意識した外観をしている。

下矢印インドで始まりシルクロードを通って、やがて我が国に伝来した仏教。そのルーツを探るべく日本で初めて学術調査を行った「大谷探検隊」による膨大なコレクションが、常時入れ替わり展示している。
「大谷探検隊」とは、「本願寺」第22世・大谷光端が、1902~1914年の間に3回、中央アジアに探検隊を組織し派遣したグループだ。当時日本は戦時中、それに輪をかけて、明治初に行われた廃仏毀釈で仏教が大打撃を受けている頃だ。彼らがいなければ、日本の仏教は廃れてしまっていたのではないだろうか。


下矢印入口へは、右手エレベーター及び階段で地下1階に。地上階は左手に雑貨も販売しているカフェがある。


下矢印中庭には、イロハモミジが紅葉していた。
 

今回、特別展示として、龍谷大学文学部博物館実習生による「十二月展」が無料で行われていたので、入ってみた。毎年、12月に博物館学芸員課程の一環として、展示企画、広報、運営を学生だけで行なっているとの事。
今年のテーマは「巡 MTGURU ~西国三十三所の歴史と文化~」。日本で最も古い聖地巡礼として、観音霊場を巡る「西国三十三所霊場」を一堂に集めた展示会でした。

 

33ヵ所札所+番外札3ヵ所で、合計36ヵ所を学生たちが取材・展示物貸し出し依頼をするというので、結構大変だったらしいです。展示リストを見ると、これって、重要文化財級ではないのかと思われる貴重なものまで、借り受ける事ができたようで、これはほんとにすごい事です。

日本の仏教が、どのように庶民化して全国に広がっていったのか、よくわかる展示になっていたと思います。一番盛り上がったのは江戸時代だといい、これら聖地巡礼をすることで、農民や町人でも功徳を積める、おまけに諸国を旅し見分を広められる。これはそれだけ経済的にも余裕ができた証拠である。また、安全にかつ道も整備されたという事。今も昔も、集める事が好きな日本人ならではの娯楽ですよね。

下矢印入館者には、こんな立派な冊子も無料で配られました。
 





       下矢印龍谷大学のマスコットキャラクター「ロンくん」。
          (2017年12月上旬現在)











Last updated  2019.10.06 19:02:47
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2019.09.27
カテゴリ:世界遺産
​​​​​​​​​​​実はしょっちゅう来てたんです。でも、一番きれいな秋を載せたくて(と言いながら、写真には様々な季節が混ざってますが)。
さて、という事で「本願寺(Hongan-ji)」(世界遺産)です。
「西本願寺」は通称名で、「東本願寺」に対してそう呼ばれています。「東本願寺」もまた通称で、本当は「真宗本廟(Sinsyu-honbyo)」といいます。
どちらも「親鸞上人(Sinran-syonin)」が開祖で、どちらも「浄土真宗」。伽藍配置も非常によく似ています。
でも、「西」は世界遺産なのに、そっくりの「東」は世界遺産になっていないし、国宝もほとんどない。それほど広くもない京都市内にあって、2つの寺院の距離は歩けるほど近い。
不思議に思いませんか?

まずは、世界遺産かどうかは、建てられた年代によります。
「東」は火災のために堂宇が焼失してしまい、現在の建物はすべて明治以降に建てられたため(私の目には、同じように古そうに見えるのですが)。
何度も焼失し、再建の度に巨大化。現在の「御影堂(Goei-do)」(登録有形文化財)は、木造建築(面積)では日本最大だそうです。
一方、「西」の「本願寺」は、1591年に建てられた。同じく焼失しているが、1636年「御影堂(Goei-do)」(国宝)、1760年「阿弥陀堂(Amida-do)」(国宝)が再建された。この違いです。

下矢印正面通にある「総門(So-mon)」(重要文化財)は、堀川通(国道1号線)を挟んでポツンと立っています。交通量が多くなったため、こちらに移転したのだそうです。
 
                 「総門」越しに、「御影堂門」が見える。上矢印

下矢印「御影堂門」(重要文化財)。ちょっと、季節が違いますが。
 

下矢印秋だと、「御影堂門」は鮮やかな黄色い葉をバックに更に豪華に見えます。




下矢印「御影堂門」を潜ると、まるで通せんぼするかのようにあるのが「目隠し塀」。こちらも
れっきとした重要文化財です。通りから「御影堂」が丸見えになるので、江戸時代後期に設置されたのだそうだ。


下矢印「御影堂門」と堀川通から見えていたイチョウ。


下矢印「逆さ銀杏」(京都市指定天然記念物)
  樹齢400年。根っこを天に広げたようだということで、この名が付いた。
  また、火災があった時、水を噴き出して消し止めたという伝説があり、「水吹き銀杏」とも。


下矢印「御影堂(Goei-do)」(国宝)
ご本尊:親鸞聖人の御真影(木造)
東西48m、南北62m、高さ29m。1636年、再建。


下矢印手水舎(重要文化財)


下矢印「手水舎」のサイドにある彫刻は、五七桐紋。「豊臣秀吉(Toyotomi Hideyosi)」の紋である。この寺院は、「秀吉」の寄進された土地に建っているんです。
 

ここで、「西」と「東」の違いについて。

「本願寺」は、1591年「秀吉」から第11代宗主「顕如(Kennyo)」へ、現在の場所に東西6町、南北4町の寺地を寄進される。これは、「織田信長(Oda Nobunaga)」との11年間に及ぶ石山合戦の際、「顕如」は「信長」の意向に添い、石山(現在の大阪城がある場所)を明け渡し、紀伊鷺森(和歌山)に移ったためだ。「信長」を引き継いだ「秀吉」が、まずは大阪の貝塚に。次に天満(大阪市)に寺地を寄進、移転させる。後に現在の場所である京都に土地を与えた。
「本願寺」は、8年の間に、実に4度も移転を繰り返したことになる。「顕如」の死後、石山合戦後も行動を共にした三男の「准如(Jyunnyo)」が後を継いだ。→「秀吉」系。

そして、「真宗本廟」はというと。
1602年「徳川家康(Tokugawa Ieyasu )」から、隠居させられていた「顕如」の長男「教如(Kyonyo)」へ、現在の場所に東西4町、南北4町の寺地を寄進される。この時、「本願寺」は「西」と「東」に分裂してしまったのだ。
そして、「教如」が隠居させられていた理由というと…。石山合戦の際、父・「顕如」に従わず、石山本願寺に立てこもり抗戦を続けたから。その後、紀伊鷺森にいる父の元に身を寄せようとするも、父子の間に生じた亀裂は修復できなかった。
時代は流れ、「信長」・「秀吉」の死後、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」において、「教如」も「准如」も「家康」の出陣を見舞うため別々に江戸へ向かったが、途中の近江の佐和山にいた「石田三成(Isida Mitunari)」にどちらも足止めをされてしまった。「教如」は「三成」の制止を振り切り、「家康」の元へ。一方、「准如」はそのまま京都に帰ったという。このことが、後の明暗を分ける事になったのだ。
一躍、天下人に躍り出た「家康」の覚えめでたき「教如」は、かくして京都に寺地を、更にはその寺院の宗主となるだ。→「家康」系。

下矢印「阿弥陀堂」(国宝)
 ご本尊:阿弥陀如来。
南・「御影堂」、北・「阿弥陀堂」と、どちらも東向きに並んでいる。


下矢印「御影堂」「阿弥陀堂」の縁側の床には、このような「埋木」を見る事ができる。床板にある節穴や亀裂を木の栓で埋めたものだ。普通、節穴は丸いが、その形に合わせると抜け落ちてしまうので、わざと引っ掛かるような、それでいてシンプルな形に埋める事が多い。でも、ここ「本願寺」のそれは、参詣者の目を楽しませてくれる面白い形のものばかりだ。夢中で、探してしまいました。
 

 

 

下矢印「阿弥陀堂門」(重要文化財)は、「阿弥陀堂」の少し斜めな位置にある。これも、通りから堂宇が丸見えにならないための配慮だろうか。


下矢印「御影堂」「阿弥陀堂」は、渡り廊下で繋がっている。
 

下矢印「経蔵(Kyo-zo)」(重要文化財)
内部には、8角形の回転式書架があり、各面に計360個の引き出しがついている(非公開)。「轉輪蔵」と書かれた扁額。
後ろに見える建物は、「安穏殿」と呼ばれるブックセンターだ。
 

下矢印境内からは近づけないが、「太鼓楼(Taiko-ro)」(重要文化財)が塀越しに見える。
上層にツツジの木でできた太鼓が設置してあり、江戸時代には時刻を知らせていた。現在、内部の見学はできない。
また、有名なところでは、1865年に新選組がこの「太鼓楼」と、今は移転してしまった「北集会所」に駐屯していた。
 『壬生義士伝』     浅田次郎

 休憩所と称して女を囲っておる隊士については、それを所帯と認め、泊まりも許されておった。
 ただし朝稽古の始まる時刻までには、屯所に入らねばならぬ。翌る朝は未明に起きだして家を出たが、まさか祇園社を抜けて四条通を行く気にはなれず、五条橋を渡って西本願寺の屯所に向かった。
 果たして、御太鼓楼の門をくぐると、北集会所の屯所は上を下への大騒ぎじゃった。わしが到着するほんの少し前に、奉行所の役人が変わり果てた谷三十郎を戸板に乗せて、担ぎこんできたというわけじゃ。
           


下矢印「虎の間の玄関」(国宝)
「阿弥陀堂」「御影堂」と同じく、東を向いている。入ってすぐに「虎の間」があることから、そう呼ばれている。
 

下矢印この垣根の向こうに、「飛雲閣」(国宝)があるのだが現在修復中。


下矢印「浪の間の玄関」(国宝)の屋根。2羽の鳳凰が見事です。
玄関の部分は、中央に四畳半敷の土間になっている。


下矢印「中雀門(Tyujyaku-mon)」の奥に連なる屋根は、「黒書院」(国宝)「書院」(国宝)「対面所」(国宝)「南能舞台」(重要文化財)などがある一角。
石標には「明治天皇行幸所本願寺」とある。


下矢印「大玄関」。


下矢印「台所門」の番所は、現在、本願寺中央幼稚園の守衛さんの詰め所になっている。この門は自由に出入りできます。
ここを潜り…。
 

下矢印先程の「大玄関」の前にある「大玄関門」に出てきます。この門にも番所があります。扉は閉じていて通り抜ける事はできません。
幼稚園も境内の中ですが、この門を真ん前が、宗門校・龍谷大学の「大宮学舎(Omiya-gakusya)」(重要文化財)です。ここでも、「西」と「東」に違いがあります。
「本願寺」の学寮は発展して大学となり、今なお境内にありますが、「真宗本廟」の宗門校・大谷大学は現在、京都府立植物園の近くに移転しています。


下矢印そして、その隣にあるのが、「唐門」(国宝)です。眺めていると時間を忘れてしまう程、ゴージャスな彫刻が施されているので、「日暮門」とも呼ばれている。
「三大唐門」(「大徳寺」・「豊国神社(Toyokuni-jinjya)」・「本願寺」)の1つ。






下矢印十六葉八重菊紋(天皇家)と五七桐紋(豊臣秀吉)が、縦に並んでついている。


下矢印鶴は、江戸時代の彫刻師・左甚五郎の作と伝えられている。
あまりの見事さに、他の鳥は止まらず蜘蛛の巣も張らないと言われているが、実は鳥や虫が嫌う香の成分が顔料に含んでいるらしい。


下矢印金具も夕日に照らされて、一層輝きを増している。


 

下矢印道路側の彫刻。
「黄石公」が馬に乗っていて橋の上で沓をわざと川に落とした。「張良」に取りに行かせ、謙虚さを学ばせる。後に、兵法書『三略』を授けたという中国の故事から。
ちょっと、しかめっ面ね。


境内側の彫刻。
左側:中国・堯の皇帝が、清廉潔白で有名な「許由」に天下を譲ろうと言うと、その言葉で耳が汚れてしまったと、滝で耳を洗ったという中国の故事から。                       下矢印
 
上矢印耳を洗っている「許由」に訳を尋ねた「巣父」は、そのような汚れた水を牛に飲ませられないと戻るというシーン。
故事を知らないので、全くぴんと来ないです。ただ、内容に反して絢爛豪華な彫刻だなあと。

下矢印「北小路門」の先に「唐門」がある。築地塀が寮際にまっすぐ続いている。右側が「本願寺」
、左側が「興正寺」。
  ​
 『壬生義士伝』   浅田次郎

西本願寺の塀に「壬生狼」の落書を見たときから、わしは大いなる謀り事について考えるようになったのす。
 浪士には浪士を。狼には狼を。
 そんたな謀り事に確信ば持ったのは、近江屋での騒動の折じゃった。さよう―土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎をば、何者かが斬った。
 新選組の仕業とされたのは、刺客の立ち去ったあとに蝋色鞘が落ちており、瓢亭の下駄が残されておったからじゃ。

​​​​​​
        
寺院数で言うと、「西」(本願寺派)は約10,500寺、「東」(大谷派)は約8,900寺。合計すると、日本最大の宗教集団になる浄土真宗なんですがね。それぞれ分かれています。
ちなみに、「本願寺」の南隣にある「興正寺」(興正派)も同じく浄土真宗ですが、そのどちらの宗派でもないんですよ。

          下矢印献菊展。
          (2017年11月下旬現在)​​​​​






Last updated  2019.09.27 15:20:15
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2019.08.28
カテゴリ:史跡・遺跡めぐり
​​​​​現在(2019年に書いてます( ̄▽ ̄;))放映中のNHK大河ドラマ「いだてん」で、ちょくちょく出てくる「東京高等師範学校」のロケ地が、ここ。
龍谷大学の「大宮学舎(Omiya-gakusya)」(重要文化財)である。学生が使用している現役の校舎も重要文化財で、左右にある。
加納治五郎(Kno Jigoro)の校長室は、この正面・「本館」だ。

下矢印龍谷大学は、1639年、「本願寺(世界遺産)」(通称・西本願寺)の境内に僧侶のために開設された仏教系の大学。現在、京都と滋賀に3つのキャンパスがあるが、この学舎が発祥の地。
創建当初(1879年)の明治建築物が、狭くかたまった位置にそのまま残っているのは、珍しいのだそうだ。
そうそう、金栗四三(Kanakuri Siso)が「東京高等師範学校」に入学したのは1910年なので、その頃にはこの「大宮学舎」はすでにここに建っていた事になる。
ちなみに、手前の「正門(Seimon)」(重要文化財)は、日本の軍艦などを作っていたイギリスの会社が制作。


下矢印これは、レプリカ。本物は、東側にある校舎の1階に展示してある。
 
校門の脇にあるイチョウの木は、京都市指定保存樹。京都市「区民誇りの木」として指定されている。
                幹周り3.95m、樹高25.5m。上矢印

下矢印「旧守衛所(Kyu-syuei-syo)」(重要文化財)は、「龍谷大学オリジナルグッズ」が展示されている。JR「稲荷」駅の「ランプ小屋」(京都を彩る建物や庭園)と同時期の古さ。現在の守衛所は、この正門を挟んで反対側にあります。


下矢印「本館」の扁額「真宗學庠」。            下矢印窓の鉄製の意匠も素敵。
 

下矢印「本館」「北黌(Hokko)」(重要文化財)
この「本館」、一見石造りのようですが、実は「擬洋風建築」と呼ばれる木造の建物。木部に石材を貼り付けてあるのだ。かつて、最先端といわれた西洋の制度や文化を学ぶため、僧侶は海を渡った。彼らが持ち帰った洋風建築物の絵を参考に、日本の大工が見よう見真似で建てたのがこの様式だ。
あなた、騙されちゃったでしょ。

キャンパス内へは自由に出入りできるが、通常「本館」には入れない。年に数回(深草キャンパスでの大学祭期間等)の際に、「本館」内部を見学する機会がありますが撮影はできません。
1880年に明治天皇が視察されているのですが、その時使用された2階の貴賓室には狩野英信作の屏風と座られた椅子が展示してあります。


下矢印「本館」「南黌(Nanko)」(重要文化財)の間を繋ぐ「渡り廊下」(重要文化財)の菱組天井は、京都で現存している最古例。白くてかわいい!!。残念ながら、左右対称にあった「北黌」側は残っていない。
  

下矢印「本館」の後ろ側。
 

下矢印実際、校舎として使われている「南黌」


下矢印校内は、とても優しいエメラルドグリーンと白で統一されている。
トイレは「本館」にはないらしく、私はこちらの「南黌」のトイレを案内された。
 
  

下矢印「北黌」


下矢印敷地の外側から。   
   


下矢印同じく「本願寺」関連施設である「伝道院(Dendo-in)」です。
「本願寺」御影堂門から正面通を東に進むと、仏具店や数珠店が軒を連ねる中、異質の建物が見えてきます。


下矢印イスラム風のエメラルドグリーンのドーム。赤レンガの壁。3階部分の窓が、寺院などに見られる火灯窓をアレンジしたよう。
1912年に、真宗信徒生命保険会社として竣工。伊東忠太の設計だそうだ。


下矢印そして、玄関ポーチには、頭がぺしゃんこの狛犬のように鎮座している石像。ちゃんと、阿吽になってる。
  

下矢印その周りを、同じような三等身の怪獣たちが並んでる。
おしゃれな車止めだ。



下矢印そのまま、正面通を東に行くと、「任天堂正面営業所(Ninten-do-syomen-eigyosyo)」(旧・合名会社「山内任天堂」本店ビル)がある。
あの日本が世界に誇る「任天堂」だ。
堅牢なイメージの建物。玄関ポーチの意匠がその分、楽しくも見える。


下矢印1889年、花札のメーカーとして創業。
 1902年、日本初のトランプ製造開始。
 1933年、合名会社「山内任天堂」設立。
 1947年、東山区に(株)丸福(子会社)を設立。
 1949年、かるた自動裏貼機を開発、かるた製造を自動化。
 1963年、任天堂(株)に商号変更。
 1983年、ファミリーコンピュータ発売。

そしてそして、「スーパーマリオブラザーズ」が世界的にヒット!いや~、「スーパーマリオ」は花札から始まったのですね。

この屋号、左から読んで「トランプ」、右から読んで「かるた」。面白いよね。
ちなみに、左の「ナポレオン」のロゴは、ボードゲームの名前らしい。




下矢印本店・本宅・倉庫と続く。




          下矢印よく「大宮学舎」の前を通るので、こういう場面にも遭遇する。
           仏前結婚式の撮影会。めでたいめでたい。
               (2017年11月下旬現在)​​​​​






Last updated  2019.08.31 00:00:46
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2019.08.08
カテゴリ:旅行
​​真っ赤に紅葉したモミジは好きだけど、秋の京都はモミジより観光客の方が多いのが難点。
というわけで、スッキスキの割にはとても美しい回遊式日本庭園がある「水景園(Suikei-en)」にやって来ました。1995年開園の京都府立公園で、京都府の端っこ「京都府相楽郡精華町」にあります。こ~~~んな奈良県との県境でも、平安遷都1200年記念の事業の一環だそうです。

無料開放された「京都府立関西文化学術研究都市記念公園」通称「けいはんな記念公園」の一角・この「水景園」だけが、有料となります。

下矢印小さな滝が流れ落ちる水景棚。飛び石を伝って、向こう岸まで行けます。あの枠組みのような建築物は、観月楼。奥に休憩所や展望所、研修室などがある。
足元を見ると、鯉がたくさん泳いでました。そうそう、ビジターセンターの入り口に鯉の餌も売っていました。




下矢印素敵に色づいてます。


下矢印水面にモミジがなだれ落ちるよう。


下矢印不思議な柱がたくさん立ってますが、視線を上げれば観月橋という橋なんです。入口と観月楼を繋いでいます。
この橋からの眺めも絶景です。


下矢印橋の向こう側の水景棚がよく見えるよね。枠組みみたいで面白い。


下矢印橋の反対側に目を向けると、紅葉谷と呼ばれる庭。コンパクトにまとまっていて散策できます。


紅葉が真っ赤に色づくにはちょっと早かったのか、ほとんど人がいない。最近、紅葉の最盛期って12月だもんね。

 

 

下矢印次に広がるのが、岡山県産の御影石の巨石群。


下矢印ほら、橋になっているでしょ?水面から10mの高さにある歩廊橋。全長123mあります。


下矢印対象物が無いのでわかりにくいが、6~7mある石が縦方向にずらーっと並んでいる。500個近くあるそうだ。


下矢印観月橋の内部構造。たいへんクリア。世の中、こんな風に見通しが良かったらいいのにね。


下矢印さて、ここからが観月橋の上からの景色です。
東側には、紅葉谷。


下矢印西側には、水景棚。
もともと、ここには永谷池があり、その池と周辺の里山を残して造られた公園です。



            下矢印この時期に桜が咲いている。
            (2017年11月下旬現在)​​






Last updated  2019.08.08 11:59:25
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2019.08.02
​​​地下鉄東西線「東山」駅下車。岡崎公園内にある「京都市美術館(Kyoto-si-bijyutu-kan)」は、和洋折衷の不思議な建物。レンガの壁と銅板屋根。正面中央の一番上にあるのは、本を開いて伏せたような純和風の千鳥破風。

下矢印昭和8年(1933)、昭和天皇の即位大礼を記念して建てられた日本で2番目の大規模な公立美術館。
当時は「大礼記念美術館」として開館した。現存する日本最古の公立美術館でもある。
戦後、進駐軍の接収解除の際、現在の名称になる。


下矢印中に入ると、大理石の階段が中央から伸び、壁伝いに左右に分かれる。


下矢印ランプの意匠もカッコイイ。


下矢印2階の和風の格天井には、西洋のステンドグラス。
また、釣り行灯型のランプもおしゃれ。3段重ねかな、立体的でいいね。


現在(2019年)は、開館80年という事でリニューアル中。「京都市京セラ美術館」と名称改め、2020年にオープン予定だという。どんな風にリニューアルするのか楽しみだ。


下矢印神宮道(平安神宮の参道です。)を挟んで向かいにあるのは、「京都府立図書館(Kyoto-hu-tosyo-kan)」だ。こちらの建物も私は好きです。
明治6年(1873)、武田五一の建築。日本で2番目に古く、公に開放となった図書館。


下矢印この字体が特に好き。
「館署図都京」と書いてあるんだろうね、たぶん。
茶色の部分は、国産初期のテラコッタがふんだんに使用されている。


ちなみに「京都府立図書館」は、京都府に通勤・通学している人、または隣接府県(滋賀県・大阪府・兵庫県・奈良県・福井県・三重県)に住んでいる人なら、貸出OKです。





下矢印図書館の向こうに見えるのは、「平安神宮」の巨大な大鳥居(登録有形文化財)です。
かなり大きいのですが、これでも日本で8番目なんだとか。
昭和3年(1928)、こちらも昭和天皇即位を記念して建てられた鉄筋コンクリート造の美しい大鳥居。
高さ24m、幅18mで、鳥居の下は車道になり、歩行者は潜ることができません。柱の外側をお通りくださいね。
            (2017年11月初旬現在)​​​






Last updated  2019.08.02 22:55:12
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2019.07.03
カテゴリ:神社仏閣巡り
​​​​​​地下鉄西神山手線「長田」駅下車。
神戸です!兵庫県に一度も住んだことがない私は、地理がいまいち把握できていません…、常に手探り状態です。

下矢印という事で、「神戸三大神社」の1つ、「長田神社(Nagata-jinjya)」に来てみました。
 

下矢印東鳥居を潜ってすぐ横にあるのは、夫婦楠(神戸市天然記念物)
根元が繋がっています。
手前:幹回り 6.2m  樹高  22m 
 奥:幹回り 5.12m  樹高  20m 
 
いつも所要のついでなので、お察しの通り夕方です。上矢印

下矢印絵馬殿。
 

下矢印センサーが付いている「手水舎」。


下矢印「神門」(登録有形文化財)回廊(登録有形文化財)
 
                             菊菱の神紋上矢印
下矢印拝殿(登録有形文化財)
ご祭神:事代主神(Kotosironusi-no-kami)
境内社:左…第15代・応神(Ojin)天皇
    右…天照大神(Amaterasu-omikami)
201年、「神功(Jingu)皇后」が神託を受けて創建。
三韓征伐からの帰途、武庫水門で船が進まなくなった。「事代主神を鶏の声が聞こえる場所に祀ること」との神占が。鶏のいる場所は…というので見つけたこの地に事代主神を祀った…という事らしい。
が…でもどこかで聞いた。
そうそう、神戸では他に「敏馬神社(Minume-jinjya)」や「弓弦羽神社(Yuzuruha-jinjya)」でもよく似た由来があったなぁ。
順番から行くと…こうか?

 「神功皇后」が三韓征伐に向かうに際して戦勝祈願。
   ①底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命の三神が海上を守護するとの事。
 更に占うと。
   ②「能勢の美奴売(Minume)山の杉で船を作れ」→船を作る。
 で、朝鮮に渡り勝利する(三韓征伐)。
 帰国の途中、武庫水門で船が進まないので占う。
   ​③「事代主神を祀れ」→「長田神社」(神戸市長田区)創建。​
 更に船を進めるが、また動かなくなったので占う。
   ④「美奴売神を祀れ」(②参照)→「敏馬神社」(神戸市灘区)。
 また更に船を進めると、今度は「忍熊王」の反乱を知る。
   ⑤熊野大神を祀って、弓矢甲冑を納め、戦勝祈願→「弓弦羽神社」(神戸市東灘区)。
 畿内に帰り、その「忍熊王」に勝利した後、
   ⑥蒙古塚(蒙古兵の首と武具を納めた塚)を作る→「藤森神社」(京都市伏見区)。
 で、一番最初に立ち返り、
   ⑦①の三神が「三韓征伐」の勝利に導いたとして祀る→「住吉大社」(大阪市住吉区)。

ってか?
神功皇后、あちこち引っ掛かりすぎ!きっと、瀬戸内海の沿岸でもっともっと船が停まってしまったってことになって、その度に色んな神様を祀って神社を創建…という運びになるんだわ。
その間、子供(応神天皇)産んじゃってるし。
なんせ、神話ですから。お墓(奈良市山陵町)はあるけど。   


下矢印なかなか美しい彩色。
 
絵馬に書いてある「ポッペン」って!あれか!「ビードロ」か!ガラス製の吸ったり吐いたりしたら、ぺコンペコンって鳴る…。調べると、かつてこの神社で授与されていたんだとか。それにちなんで神社の「おついたち祭り」の時に「ポッペン市」が地元商店街で開催されるんだって。
鶏の紋が付いてるね。鶏は、この神社では神使です。上矢印

下矢印「神楽殿」(登録有形文化財)


下矢印「遥拝所」と書かれているけど、何の?


下矢印末社「松尾社」(登録有形文化財)
ご祭神:大山咋神・春日大神。


下矢印末社「月読社」(登録有形文化財)
ご祭神:月読神。


下矢印歌舞伎役者の「中村時蔵」が奉納した燈籠。
   「中村吉右衛門 参拝の時 吟ず
           燈籠に父を語るや春の宮 」


下矢印末社「楠宮稲荷社(Kusumiya-inari-sya)」(登録有形文化財)
ご祭神:倉稲魂神。


 
               提灯が並ぶ回廊が、グルっと回っている。上矢印

下矢印稲荷社の本殿。


下矢印ここには変わった絵馬が掛けられている。
「痔病平癒絵馬納め所」とあるから、痔に効くらしい。
「赤エイ」なんだって。後で調べてみると、
  昔、繁殖のために岸辺近くに寄ってきたたくさんの「赤エイ」の群れが、台風による暴風で
  増水した川から遡り、浸水してしまったこの神社の境内に入り込んだ。貴重なたんぱく源の
  「赤エイ」を求め民が捕まえようとしたが、ご神木の楠の辺りで見失ってしまったという。
  以来、楠には神の化身のエイが宿るとして崇敬しているという。「赤エイ」を食べる事を断
  ち所願を懸けると、その中でも一番痔に効果があるという。


下矢印更に奥にあるのが、「楠鷹稲荷社」。
ご神木の楠:幹回り・5m、樹高:30m、樹齢800年。なるほど、この楠ね。
 

下矢印「神撫山遥拝所」。現在は、長田区の背山「高取山」の事を指す。ここには「高取神社」の本宮がある。


下矢印「長田神社」回廊の裏門。


下矢印末社「蛭子社」(登録有形文化財)と末社「出雲社」(登録有形文化財)下矢印
ご祭神:蛭子神                  ご祭神:大国主神
 
「神戸七福神」の恵比寿神。「長田神社」のご祭神である事代主神の別名が、恵比寿神だ。
隣に七福神の1人、大黒様も祀られているが、よく考えると大黒様は大国主命のことであり、その子が事代主神なんだから…。七福神の大国と恵比寿って、親子ってことになるではないか!(いまさら、気付いた)

下矢印超~気になるこの赤い張り子。何なんだ?
調べると、「萬福 グージー」というらしい。神社前商店街の震災復興シンボルマスコット。
この神社に飛来するアオバズクがモデル。
そうそう、神戸は1995年、阪神淡路大震災を切り離して考えられない土地柄。やはり、この「長田神社」も例外ではない。


下矢印「眼鏡碑」。よく見たら、人の顔っぽい。
事代主神は、神羅万象を見通す力があるという言い伝えから…。




下矢印こちらが正面鳥居です。




ふと下を見ると、変わったマンホールが…。鬼だよね、これ?
調べてみたら、どうやらこの神社では一風変わった「追儺式」(兵庫県重要無形文化財)が行われるようだ。ここでは鬼は豆で追い払われるのではなく、神々の使いとなり反対に災いを追い払うのだそうだ。そして、良き年を迎えるよう祈り踊る7人の鬼として登場する。

ん~~、でも儀式では松明を思ってるし、それとはちょっと違うのかもしれない。このマンホールの図案は、本?みたいなもの持ってるもんね。

         下矢印長田のげんきくん SUKOYAKA MY ROAD  
            (2017年11月初旬現在)​​​​​​






Last updated  2019.07.03 18:31:26
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2019.06.27
カテゴリ:史跡・遺跡めぐり
​​​​​​​​​​地下鉄東西線「二条城前」駅下車。
以前、京都駅の駅西エリアを散策した時、立ち寄った「矢取地蔵尊(Yatori-jizo-son)」のお地蔵さまには、「空海(Kukai)」の身代わりになって肩に矢を受けたという逸話があった。例の「降雨祈願の法力争い」だ。
その舞台となった「神泉苑(Sinsen-en)」(史跡)にやって来ました。御池通に面しているが、ここがその名の由来となった。

「東寺(To-ji)」(世界遺産)の「空海」、「西寺」の「守敏(Syubin)」は、第53代・淳和(Jyunna)天皇の勅命で日照り続きの「平安京」に雨を降らす事になった。どちらが雨を降らせることができるか。
「神泉苑」で、2人の法力争いが始まった。
結果「守敏」は敗れ、「空海」は天竺(北インド)の無熱池から「善女龍王」を呼び寄せ、雨を降らす事に成功するのだ。「守敏」は「空海」を恨み、矢を放つ。その矢を身代わりに受けたのが、「矢取地蔵尊」なんだそうだ。
 

下矢印この「法成就池」には、その「善女龍王」が住んでいるんですって。
朱色の「法成橋」が架かる。


下矢印「方丈」。


下矢印「本堂」。
実は、ここは「神泉苑」といいますが、「東寺」管轄の真言宗の寺院です。
ご本尊:聖観音
    木造不動明王坐像(重要文化財)
    弘法大師



下矢印これは何て書いてあるんだろう。
 
               「祇園 平八」とは、敷地内にある料亭の名前。上矢印
下矢印「鯉塚」・「亀塚」。


下矢印その後も干ばつの度に、降雨祈願をこの地で行われたようで、後白河上皇(Gosirakawa-jyoko)もその1人。上皇は、白拍子に雨乞いの舞を舞わせた。
100人目の「静御前(Sizuka-gozen)」が「法成橋」で舞うと、大雨が降ったという。
ここで、「源義経(Minamoto-no-Yositune)」と「静御前」が出会ったんだって。


下矢印「空海」が勧請したという「善女龍王社」。神社もございます。というより、こちらが先なのか?
願い事をしながら、「法成橋」を渡ってこの社に詣でると、願いが叶うんだそうだ。


下矢印本殿。「法成就池」に突き出た形。


下矢印洛中「天満宮」。
ポンと丸い石柱の上に置かれているよう…。


下矢印「増運弁財天」は、只今修復工事中。
 
                下矢印ナマズは弁財天の使徒。上矢印

下矢印「善女龍王社」の向こうに…天皇が遊宴した舟??
いえいえ、現在は「料亭 平八」のお食事がこの固定された船内で食べられます。


 
上矢印「神泉苑」は、「平安京」が遷都された時に造られたという禁苑(天皇のための庭園)。つまり、「平安京」造営当時の遺跡として現在に残る貴重な史跡だ。なんせ、今の京都で「平安京」の面影を示すものは、ほとんど残っていないのだから。
古代から湧水地だったこの場所に目を付け、すぐ北側に平安宮の大内裏を置いた。第50代・桓武(Kanmu)天皇は、中国文化にあこがれを持っていて、周の文王の離宮にある霊沼に倣って「神泉苑」を造ったといわれている。
桓武・平城(Heizei)・嵯峨(Saga)・淳和(Jyunna)・仁明(Ninmyo)と5代に渡る歴代の天皇が、遊宴や狩猟を楽しんだ。貴族たちは、池に龍頭鷁首の船を浮かべ、歌を詠み優雅に遊ぶ、ここはそんな場所だった。
後に、祈雨などを行う修法霊場となる。
しかし、加持祈祷を主とする仏教が衰えると同時に「神泉苑」も荒廃が進み、かつては約13万㎡の広大な禁苑には人々が入り込み、ごみを捨てたり田畑を作ったりしてしまった。
そんなこの湧水地に目を付けた徳川家康(Tokugawa Ieyasu)は、1603年、朝廷を抑える出張所として二条城を造営。その折、敷地の大部分を城内に取り込んだため、規模が1/20に縮小してしまう。それを復興させたのが、名奉行として名高く、2代目京都所司代だった「板倉勝重」だという。


下矢印「矢剱大明神社」。
 

下矢印北門に向かう石畳。


下矢印北から「法成就池」を望む。
 

ここは、御霊会を初めて行った場所でもある。怨霊が祟り、京に天変地異が起こると考えられていた時代でした。
急激に人口が増加した「平安京」は高温多湿の気候であり、衛生面でも劣悪な生活環境の中、疫病が蔓延。人々は、これらの発生の原因を不慮の死を遂げた者の死霊=怨霊と考えた。そこで863年、第56代・清和(Seiwa)天皇のもと、朝廷主催で初の御霊会が開かれた。鎮めの対象は、桓武天皇以降、代々の朝廷に恨みを持っているといわれる6人(六所怨霊)。
  1.早良親王(Sawara-sinno)
  2.藤原吉子(Hujiwara Yosiko)
  3.伊予親王(Iyo-sinno)
  4.  藤原広嗣(Hujiwara-no-Hirotugu)
  5.文屋宮田麻呂(Hunya-no-Miyatamaro)
  6.橘逸勢(Tatibana-no-Hayanari)

その後、全国でも御霊会が行われるようになる。
京の三大祭りの1つ「祇園祭」(ユネスコ無形文化遺産)が特に有名で、869年、国の数66の矛を立て、この池の水で清めて悪霊を祓った。これが「祇園祭」の起源だという。


かつての「神泉苑」が偲ばれる詩文がある。​
『秋の日、神泉苑を観る』  空海

神泉に彳亍して物候を観る
心神 怳惚として帰る能わず
高台は神構にして人力に非ず
池鏡は泓澄として日暉を含む
鶴響 天に聞こえて御苑に馴れ
鵠翅 且く戢めて幾ど将に飛ばんとす
游魚 藻に戯れて数しば鉤を呑み
鹿 深草に鳴きて 露 衣を霑す
一つは翔り一つは住まって君の徳を感じ
秋の月 秋の風 空しく扉に入る
草を銜み粱を啄みて何ずくにか在らざらん
蹌蹌として率い舞いて玄機に在り
             『性霊集』       
​          


        下矢印御池通沿いの京都所司代「若州小浜藩邸 若州屋敷」跡。
         その当時の燈籠だけが残っている。  
          (2017年10月下旬現在)​​​​​​​​​​






Last updated  2019.06.27 18:37:02
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2019.06.11
カテゴリ:神社仏閣巡り
​​​ガラケーの写真を整理していたら、この画像が出てきました。

以前、滋賀に用事で行った時、カメラを持って行っていなかったので携帯で撮っていた場所です。忘れていました( ̄▽ ̄;)
というわけで、今回は大津です。

下矢印「大津歴史博物館」の前の道にある「穴太遺跡の特殊カマド(温突遺跡)」です。
屋根があり、屋外展示になっている。
7世紀の長さ4mの石組み。朝鮮半島のオンドルに似た形状を持つ(らしい)。山沿いに1000基以上の小円墳が発見されている。横穴式石室の群集墳で、そのエリアからこのカマドの遺構が発見、ここに移設された。
古代のものとしては、現在日本で唯一のもの。
 

下矢印「車石」。
江戸時代、牛車で荷物を運ぶために整備されたもの。大津から京都までの東海道(約12㎞)を、ぬかるみにはまらないように石を敷いて溝を掘ったようだ。車の両輪の幅に合わせている。
 

下矢印大津市役所の前の歩道を北に。
ここに「弘文天皇陵(Kobun-tenno-ryo)」がある。位置的には市役所の裏手の、ひっそりとした森の中。長等山前陵(Nagara-no-yamasaki-no-misasagi)に治定されていて、遺跡名では「亀丘古墳」。
第39代・弘文天皇は、第38代・天智(Tenti)天皇の第1皇子、「大友皇子(Otomo-no-oji)」の事だ。実際、天皇の位に付いたかどうか不明であったが、明治政府により諡号が贈られた。
その「大友皇子」とは、古代最大の内乱「壬申の乱」での渦中の人だ。

ざっくり言うと、
死期が迫った「天智天皇」が、次期大王を弟の「大海人皇子(Oama-no-oji)」ではなく、我が子「大友皇子」を後継者にしたいと願った。
兄の片腕として政権の中心にいた「大海人皇子」だったが、命の危険を感じ自ら出家を願い出て、吉野にて隠棲生活を送る。
「天智天皇」の死後、その後を継いだ「大友皇子」が、叔父である自分を亡き者にしようとしているとの情報が入る。吉野を脱出した「大海人皇子」は、美濃の不破を拠点にして遂に「大友皇子」を自害に追い込み、大王の地位についた。

「大友皇子」は、

 “ 乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ ” 『日本書紀』

とあり、「山前」というところで自害したようだ。それはどこか、その地名からは現在の地図で特定できない。「与多王」が父「大友皇子」の供養のために創建したとされている「園城寺(Onjyo-ji)」の背後にある長等山がその場所ではないかという事で、寺院の境内にあるこの「亀丘古墳」が陵墓とされた。
(ただし、そうだとしたら古墳の年代が合わないらしいが。)








下矢印「弘文天皇陵」と隣接して、薄暗い森を背負って鳥居が建っていた。


下矢印人の気配が全くしない森の中に入っていくと、かなり荒廃した様子の参道が奥へと続いている。
びびりながら進んでいくと…。


下矢印こんな所に神社が。
「新羅善神堂(Sinra-zenjin-do)」と書いてあった。何と、こんなところに国宝があったとは!
1595年、豊臣秀吉(Toyotomi Hideyosi)による破却のために、それ以前の建築物が非常に少ない。
「園城寺」鎮守社の1つで、最古の木造建築物となる。足利尊氏(Asikaga Takauji)の再建。




下矢印本殿。
ご本尊:木造新羅明神坐像(国宝)
新羅明神とは、円珍(Entin)が唐からの旅の途中で、教法を守護することを誓ったという神なのだとか。



「園城寺」には、北院・中院・南院と大きく3つのエリアに分けられる。大津市役所や大津市消防局があるこちらのエリア、北院の方まではなかなか観光客も足を運ばないようで、まるで人気がなかった。
こんな森の中に国宝があるのに、びっくりしてしまった。




          下矢印大津市役所の前にあるモニュメント
            『連鎖球体』
          (2017年10月下旬現在)​​​






Last updated  2019.06.11 22:00:03
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2019.06.02
カテゴリ:史跡・遺跡めぐり
​​​​​先日、「神童寺(Jindo-ji)」にお邪魔しましたが、今回はその三上山の東側にある「恭仁宮跡(Kuni-kyu-seki)〈山城国分寺跡(Yamasiro-kokubun-ji-ato)〉」(史跡)にやって来ました。
実はこちら側にも私の知り合いがおり、そちらにお邪魔した際、この史跡に立ち寄りました。

以前「紫香楽宮跡(Sigaraki-kyu-seki)」(史跡)で書きましたが、さすらいの天皇である第45代「聖武(Syomu)天皇」が今回もキーパーソンです。
奈良の「平城京(Heijyo-kyo)」から突如、東国(伊勢・美濃・近江)に行幸した聖武天皇は、都には戻らずそのままこの地・恭仁郷に新都を築く事にしたのです。
元々この地は、「甕原離宮(MIkanohara-rikyu)」や「岡田離宮」があった場所なので、聖武天皇も行幸されたことがあった。

740年の押し迫った12月中旬、突如起こった大工事。通常は事前に都城計画がなされ、造営省が綿密にすすめていくはずの日本の「首都」造りが、そう簡単に手品のように完成するわけもなく。
元旦に行われる「朝賀の儀」なども、当然の事ながら「宮」の大垣が未完成なので、簡単な帳を張っただけという始末でした。
そんな突貫工事で建設途中の「京」でまず行ったのが、教科書にも載っている「国分寺・国分尼寺建立の詔」。
そして3月…。「平城京」にまだ残っている官人を全員、「恭仁京」に移るよう命じました。
このことにより、「平城京」はとうとう廃都となってしまいました。

下矢印さて、まず立ち寄ったのは、国道163号線と並行して加茂町の集落を通る道沿い、「史跡 山城国分寺跡」と書かれた石柱がある一角です。
木津川市立恭仁小学校の東隣にあります。
15個の大きな礎石が固まって置かれています。聖武天皇は国分寺・国分尼寺を全国に建立し、さらに各国に七重塔を設置したのですが、これはその塔跡。
初めは史跡「山城国分寺跡」という名称でしたが、後に史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)」と変更になりました。
全国にある七重塔の礎石の配置が同じだったので、ここも国分寺だとされていたのが、実は前の段階で聖武天皇が放浪の末辿り着いた「恭仁宮」だということが分かったからです。
743年夏、まだ造営中の「恭仁京」でしたが、離宮として「紫香楽宮」の建設がスタート。途端に財政がオーバーしてしまい、同じ年の冬にとうとう「恭仁京」の造作がストップしてしまいます。
そして、廃都となってからの宮を「山城国分寺」にリフォームしたんです。

 “ 瓶の原 恭仁の都は荒れにけり 大宮人の移ろひぬれば ”
                      田辺福麿(Tanabe Sakimaro)

上矢印下校途中の中学生が、礎石の上にスクールカバンを放置したまま、遊びに行ってしまいました。

 



下矢印今度は、小学校の北側エリアに来ました。
一段高くなった土壇の上に「恭仁亰大極殿址」と書かれた石標がある。


 三香の原(瓶原)の新都を讃むる歌一首并せて短歌

山背(山城)の久邇(恭仁)の都は 春されば 花咲きををり 秋されば もみち葉にほひ 帯ばせる 泉の川(木津川)の 上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮き橋渡し あり通ひ 仕へ奉らむ 万代までに

 反歌

盾並めて 泉の川の 水脈絶えず 仕へ奉らむ 大宮所

 右、天平十三年二月に、右馬頭境部宿禰老麻呂作る。
                    『万葉集 巻17』 


下矢印上ると小さな広場になっていた。
更に奥には「山城国分寺址 恭仁宮址」と書かれた石標が立つ。
ここは、「恭仁宮」の「大極殿」があった場所。と同時に「山城国分寺」の「金堂」でもあった。やはり改修工事がされていたのだ。


下矢印礎石が無造作に点在している。
見る人が見たら、「大極殿」を「金堂」にリフォームしたのがわかるらしい。埋め戻しているので、余計わからない。
奥に見える建物が、恭仁小学校です。おしゃれな木造の小学校も、史跡の一部。


下矢印基壇の西の端に、小さなお堂が建っている。
 

下矢印更に北側に向かうと、ここにも案内板があった。


下矢印実は来た時、コスモス畑が綺麗で先に写真を撮っていた。普段は静かな農村地帯だが、この時期には観光客が多く訪れる。花は、恭仁小学校の児童たちが心を込めて植えているという。

ここも史跡の一部で、「内裏地区」と想定されている。西と東に類似する区画が2つあることがわかっている。東西棟建物などが、どちらの区画にもあるらしい。今は埋め戻されて、コスモスが揺れています。


下矢印「例幣使料境目傍示石也」という石標。
これは、1653年、藤堂藩領から例幣使領へ変更になった際に建てられたもの。
江戸時代、この辺りは藤堂藩の所轄地で、1620年から始まった大坂城の改築の時、藤堂高虎がこの辺りの山から石を切り出し、木津川を使って運んでいた。
「例幣使」とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年の捧げものを指す「例幣」を納めに派遣された勅使の事。そのまま、「例幣」という地名が残っている。


かつて京都には、天皇が住む「京」は3つ造られた。
①平安京(794年~1868年) ②長岡京(784年~794年) ③恭仁京(740年~744年) である。
奈良・滋賀・大阪などにも「京」はあったが、この恭仁京の形状がほかの「京」には見られない特徴を持っていた。

鹿背山を挟んで、左右に分断され京が造営されていたというのだ。左京が現在の加茂町、右京が現在の山城町となり、木津川が間を繋ぐという不思議な形。また、鹿背山の西麓から木津川の南岸に沿って道が造られていた事がわかっている。

左京の方は今でも礎石などで確認できるが、右京となると住宅地が広がりその痕跡を辿るのは非常に難しい。ただ、聖武天皇がお気に入りの行基(Gyoki)が建立した「泉橋寺」が鹿背山の西側にあり、そのすぐ南に流れている木津川には、これまた行基が架けた「泉橋」(近くに現在の「泉大橋」が架かっている)がある。また、「泉橋寺」を挟んで北側には、地名として「東作り道」・「西作り道」が残っていて古代道路があった痕跡が見える。という事らしい。

下矢印木津川。この橋は「恭仁宮跡」左京の東側に架かっている「恭仁大橋」だ。右奥のマンションの辺りに、JR関西本線(大和路線)「加茂」駅がある。
この橋のたもとに歌碑が立っている。

 “ 今造る 久邇(恭仁)の都は山川の さやけき見れば うべ知らすらし ” 
                           大伴家持『万葉集 巻6-1036』


下矢印「恭仁京跡」左京の西の端から西を望む。
ここで木津川は大きく「く」の字に曲がり、国道163号線と接しています。この道路は、トラックやダンプカーがのべつ幕無しに走ってくるので、おちおち写真を撮っていては引かれてしまう。
向こう岸が、鹿背山。川は大阪へと流れていきます。藤堂高虎は、この辺りから切り出した石を大坂城に向けて運んだのかしら。

 “ みかの原 わきて流るる 泉河 いつみきとてか 恋しかるらん ”
                           中納言兼輔 『百人一首』


下矢印国道163号線を西に向かいます。
建設中の橋だ。東中央線というバイパスが通るらしい。
あぁ、太陽が沈もうとしている。




                 
           下矢印トラス構造のJR奈良線の鉄道橋。
            「泉大橋」(日本百名橋)の隣に並行して架かっている。
           (2017年10月下旬現在)​​​​​






Last updated  2019.06.02 21:54:48
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