SAE'S EASE

2016/09/13(火)23:16

休ヶ岡八幡宮・孫太郎稲荷神社・薬師寺(奈良)

世界遺産(31)

今日は先日からの世界遺産つながりで、「薬師寺(yakusi-ji)」にやって来ました。南側の駐車場の方から入っていくと、まず見えてきたのは、「休ヶ岡八幡宮(yasumigaoka-hatimangu)」という面白い名前のお宮さん。こちらは、「薬師寺」の鎮守社になるそうです。大分県にある「宇佐八幡宮」から祭神を勧請したのだとか。何でも「東大寺」の鎮守社として勧請される際、この地で休まれた事に由来する名前なんだって。まず、こちらの手水舎で身を清めてから「薬師寺」をお参りするのが作法であると看板が出ていた。おぉ、鳥居の真正面に灯篭が立ってます。 なかなか雰囲気のある三間社流造の本殿。隣接して両脇に脇殿が石積みの上に建つ(重要文化財)。この建物は豊臣秀頼(Toyotomi Hideyori)により造営されたもの。 御祭神は、誉田別命(Hondawake-no-mikoto)・息長足媛命(Okinagatarasi-no-mikoto)・仲日売命(Nakatuhime-no-mikoto)。順に、第15代・応神天皇、神功皇后(応神天皇の母)、応神天皇の妻。うわ、同居か~辛いな。 元は、美しく彩色されていたのだろうな。蟇股。                      うふ、可愛いお顔が覗いてる。   境内の南北に「座小屋」と呼ばれる、寺僧の加行場(本格的な修行に入る前の準備修行)がある。覗くと、その中に「獅子頭」が展示してあった。 さて、「薬師寺」に向かおうをしたら、隣にこんな稲荷神社があった。またしても、面白い名前である。 「孫太郎稲荷神社(magotaro-inari-jinjya)」だ。ぬ~。こじんまりした稲荷神社で、説明書きも何もない。調べてみると、「休ヶ岡八幡宮」の末社だそうだ。 御祭神は宇迦之御霊神(Uka-no-mitama)。元は、栃木県佐野市にあり、その後分霊が姫路城下に祀られる。江戸時代、城から小判が大量に紛失。貧しい家々に投げ込まれたという。城主はそれを孫太郎稲荷の仕業だと決めつけ、他所に移したのだとか。ん~~~、でも、今でも姫路市豊沢町の「春日神社」内に「孫太郎稲荷神社」は残ってるようだし、よくわかりません。 石の扁額。 美しい竹林が続いている。石標には、「稲荷孫太郎社」。 さあ、いよいよ橋を渡った先が「薬師寺」。南門(重要文化財)の向こうに西塔が見える。 あれ、「師」ってこんな字なんか?点がない。 手水舎。 中門の中の仁王像。しまった!!中門を撮ってないではないか。   昭和に復興した「金堂(kondo)」。二階建てなのだが、裳階(mokosi)という物がついているために屋根が四重に見える。龍宮造りと呼ばれる建築様式。 薬師三尊像(国宝)が祀られているが、この薬師如来様、薬壷を持たれていない。あかん、私には区別が付かない。以前は手のひらに乗せていたという記録が残っているそうだ。左右には、日光菩薩、月光菩薩が緩やかに腰をしならせながら、立たれている。 「西国薬師四十九霊場」第一番霊場。 二階中央にしめ縄のようなものが、掲げてある。 さて、別料金になるが、「西塔」に入れるので見学してみよう。西回廊の内側には、釈尊の一生を物語る釈迦八相のうち、成道・転法輪・涅槃・分舎利が描かれている。 こちらも昭和に復興された「西塔」。屋根が六重に見えるが、こちらも裳階がついているので、実際は三重塔。中に入ると、先程回廊に展示されていた絵の彫刻版が内陣の須弥壇に立体的に彫られていた。東側に「成道」、南側に「転法輪」、西側に「涅槃」、北側に「分舎利」の場面で構成されている(平成27年作)。 現在、「東塔」は修復中で見ることができない。あのアメリカの東洋美術史家・フェノロサが “凍れる音楽” と称賛した相輪を飾る水煙(suien)ではないが、それでも充分「西塔」の水煙も美しいと思う。 会津八一(Aidu Yaiti)の歌碑。 “すゐえんの あまつ をとめが ころもでの ひまにも すめる あきの そらかな” 佐佐木信綱(Sasaki Nobutuna)の歌碑。 “ゆく秋の 大和の 国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲” 伽藍最大の建造物「大講堂」。講堂が金堂よりも大きいのは古代の特徴で、大勢の学僧が経典を講讃したため。ご本尊は、弥勒三尊像(重要文化財)。脇侍は、右側・法苑林(hoonrin)菩薩、左側・大妙相(daimyoso)菩薩。あまり、弥勒三尊って見かけないよね。グルッと裏に回ると、日本最古の「仏足石」(国宝)と平成生まれの「釈迦十大弟子」を見ることができる。 うわ~~、綺麗。 大講堂から南に視線を移すと、生憎の曇天の下ではあるが、ピンク色の枝垂桜が春を告げている。 鐘楼。何だか、鬼瓦の表情が笑っているよう。    「食堂」は復興工事中で、隣の「東僧坊」内に入る。お土産グッズやベンチが置いてあり、ゆっくりくつろげる空間になっている。奥に金堂本尊台座模型が置かれてあった。金堂内では、後ろの一面しか見ることができないので、じっくりと四方向から見れるのは嬉しい。 白凰文化を象徴するように、異国から伝わってきた事が伺える文様が刻まれている。 「葡萄唐草文様」はギリシャから。「蓮華模様」はペルシャから。「鬼形像」はインドから。そして、方角によって四神が描かれているのは中国から。(東…青龍、西…白虎、南…朱雀、北…玄武)       「東塔」を解体修理中に発見された「千年の釘」。奈良時代のものと思われる古代釘を展示してある。今の技術で作った釘は、30年しか持たないらしい。デカイ!!30cm程ありそう。   「與樂門」。ここから、次のエリアである「玄奘三蔵院伽藍(Genjyo-sanzo-in-garan)」へ。 「本坊寺務所」。このまま左に行くと、近鉄橿原線「西の京」駅に着く。 奈良県出身の前川佐美雄氏の歌碑。  “ 送りくる 小法師が照らす灯あかり 茎青かりき 夜の曼珠沙華 ” うぉ、書き方が逆バージョン!!「夜の」から始まってるよ。 「礼門」を中心にグルッと回廊で囲まれている。こちらは平成に出来上がった。とても新しい。  石標には、「大遍覺三蔵」。大遍覺とは、玄奘三蔵の諡。おや、あの下にいるのは…。   贔屓(hiki)!!「東寺(to-ji)」にもいたね。龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のうちの1頭。「東寺」では、触れば患部が治るとのことだが、この子は違うようだ。 右奥に見える建物は、解体修理中の「東塔」。完成予定は平成31年というから、まだまだ先だ。 扁額には、「玄奘三蔵院」。玄奘三蔵は、法相宗の始祖。中国の唐に実在した人物で、天竺(インド)に経典を求めて17年もの長い旅に出た。日本でも馴染みのある『西遊記』のモデルとなった。 「玄奘塔」。この伽藍の中央にある建物。須弥壇には、「玄奘三蔵訳経像」が祀られている。玄奘三蔵は、唐に戻った後、サンスクリット語で書かれた1335巻の経典を漢文に訳す作業に取り掛かる。その様子を表しているのだそうだ。 扁額には「不東」。どういう意味だろうと調べると、玄奘三蔵がインドで経典を手に入れるまで東にある故郷・唐には帰らないという、強い意思を示した言葉なのだそうだ。 グルッと回廊が囲んでいる。左側には、「大唐西域壁画殿(daito-saiiki-hekiga-den)」がある。平山郁夫(Hirayama Ikuo)画伯が自らの足で玄奘三蔵の足跡を辿り、30年もの歳月をかけて「玄奘三蔵求法(Genjyo-sanzo-guho)」を描いた大作が納めてある。ガラスの向こうには、雪のヒマラヤ・砂漠を行く駱駝・砂に埋もれた古代遺跡…。ラズベリー色の空にモノ言いたげな月が、又、オレンジ色に染まる一日の疲れを癒してくれそうな夕日が描かれていて、いやが上にも神秘さを増していく。 石畳の模様。 奥に、たった今、入ってきた「礼門」が見える。 回廊の外側。  さて、もう一度「與樂門」を通って、白凰伽藍エリアに帰ってきました。南門と中門の間にある摂社や末社を訪ねます。まずは、西側に。 「弁財天社」。七福神の一人。音楽・学芸などの神様。 「平木大明神」。ん~、立派な石標が立っているのだけど、調べてもわからない。ひょっとして、「厳島神社」に関係あり? 境内の西の端にある小さな社・「若宮社」(重要文化財)。実は侮るなかれ、鎌倉時代末期のものらしい。 今度は、東側に。菜の花の黄色が、朱色の回廊とよく合います。 「東回廊」。 「東院堂(toin-do)」(国宝)。吉備内親王(Kibi-no-naisinno)が、母親で第43代・元明(Genmei)天皇の冥福を祈り、建立されたのだとか。 中に入ると、この時代の建物にしては珍しく板の床になっている。一段上がった黒い須弥壇の中央には「聖観音菩薩立像(syo-knnonbosatu-ryuzo)」(国宝)が安置されているが、すぐ近くまで寄って行って拝観できる。よく見かける手の上げ方と逆で、この像は左手を上げて、右手を下げている。月光菩薩像のようだ。そして、周りを四天王像で守っている。 「東院堂」の南側にあるのは、「竜王社」。 蟇股に密教の法具・輪宝が彫られている。 「南門」と「竜王社」の間に、大きな椿の木がある。「讃良椿」と名付けられている。「薬師寺」は、本来、第40代・天武(Tenmu)天皇が妻の鵜野讃良皇女(Uno-no-sarara-no-himemiko)の病気平癒のため、藤原京(現在の奈良県橿原市)に建て始めたが、完成を見る前に天武天皇が亡くなり、その意志を継いで鵜野讃良皇女が第41代・持統(Jito)天皇となり、更にその子で第42代・文武(Monmu)天皇の御代に完成した。しかし、後に都が平城京(現在の奈良市)に遷都した折、この地に「薬師寺」が移されることになった。 この「讃良」とは、鵜野讃良皇女(持統天皇)の名から取ったのだろう。   さて、帰りますか。             近鉄橿原線「西の京」駅構内の石標。             (2016年4月上旬現在)

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る