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カテゴリ:史跡・遺跡めぐり
先日、「神童寺(Jindo-ji)」にお邪魔しましたが、今回はその三上山の東側にある「恭仁宮跡(Kuni-kyu-seki)〈山城国分寺跡(Yamasiro-kokubun-ji-ato)〉」(史跡)にやって来ました。
実はこちら側にも私の知り合いがおり、そちらにお邪魔した際、この史跡に立ち寄りました。 以前「紫香楽宮跡(Sigaraki-kyu-seki)」(史跡)で書きましたが、さすらいの天皇である第45代「聖武(Syomu)天皇」が今回もキーパーソンです。 奈良の「平城京(Heijyo-kyo)」から突如、東国(伊勢・美濃・近江)に行幸した聖武天皇は、都には戻らずそのままこの地・恭仁郷に新都を築く事にしたのです。 元々この地は、「甕原離宮(MIkanohara-rikyu)」や「岡田離宮」があった場所なので、聖武天皇も行幸されたことがあった。 740年の押し迫った12月中旬、突如起こった大工事。通常は事前に都城計画がなされ、造営省が綿密にすすめていくはずの日本の「首都」造りが、そう簡単に手品のように完成するわけもなく。 元旦に行われる「朝賀の儀」なども、当然の事ながら「宮」の大垣が未完成なので、簡単な帳を張っただけという始末でした。 そんな突貫工事で建設途中の「京」でまず行ったのが、教科書にも載っている「国分寺・国分尼寺建立の詔」。 そして3月…。「平城京」にまだ残っている官人を全員、「恭仁京」に移るよう命じました。 このことにより、「平城京」はとうとう廃都となってしまいました。 さて、まず立ち寄ったのは、国道163号線と並行して加茂町の集落を通る道沿い、「史跡 山城国分寺跡」と書かれた石柱がある一角です。 木津川市立恭仁小学校の東隣にあります。 15個の大きな礎石が固まって置かれています。聖武天皇は国分寺・国分尼寺を全国に建立し、さらに各国に七重塔を設置したのですが、これはその塔跡。 初めは史跡「山城国分寺跡」という名称でしたが、後に史跡「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」と変更になりました。 全国にある七重塔の礎石の配置が同じだったので、ここも国分寺だとされていたのが、実は前の段階で聖武天皇が放浪の末辿り着いた「恭仁宮」だということが分かったからです。 743年夏、まだ造営中の「恭仁京」でしたが、離宮として「紫香楽宮」の建設がスタート。途端に財政がオーバーしてしまい、同じ年の冬にとうとう「恭仁京」の造作がストップしてしまいます。 そして、廃都となってからの宮を「山城国分寺」にリフォームしたんです。 “ 瓶の原 恭仁の都は荒れにけり 大宮人の移ろひぬれば ” 田辺福麿(Tanabe Sakimaro) 下校途中の中学生が、礎石の上にスクールカバンを放置したまま、遊びに行ってしまいました。 今度は、小学校の北側エリアに来ました。 一段高くなった土壇の上に「恭仁亰大極殿址」と書かれた石標がある。 三香の原(瓶原)の新都を讃むる歌一首并せて短歌 上ると小さな広場になっていた。 更に奥には「山城国分寺址 恭仁宮址」と書かれた石標が立つ。 ここは、「恭仁宮」の「大極殿」があった場所。と同時に「山城国分寺」の「金堂」でもあった。やはり改修工事がされていたのだ。 礎石が無造作に点在している。 見る人が見たら、「大極殿」を「金堂」にリフォームしたのがわかるらしい。埋め戻しているので、余計わからない。 奥に見える建物が、恭仁小学校です。おしゃれな木造の小学校も、史跡の一部。 基壇の西の端に、小さなお堂が建っている。 更に北側に向かうと、ここにも案内板があった。 実は来た時、コスモス畑が綺麗で先に写真を撮っていた。普段は静かな農村地帯だが、この時期には観光客が多く訪れる。花は、恭仁小学校の児童たちが心を込めて植えているという。 ここも史跡の一部で、「内裏地区」と想定されている。西と東に類似する区画が2つあることがわかっている。東西棟建物などが、どちらの区画にもあるらしい。今は埋め戻されて、コスモスが揺れています。 「例幣使料境目傍示石也」という石標。 これは、1653年、藤堂藩領から例幣使領へ変更になった際に建てられたもの。 江戸時代、この辺りは藤堂藩の所轄地で、1620年から始まった大坂城の改築の時、藤堂高虎がこの辺りの山から石を切り出し、木津川を使って運んでいた。 「例幣使」とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年の捧げものを指す「例幣」を納めに派遣された勅使の事。そのまま、「例幣」という地名が残っている。 かつて京都には、天皇が住む「京」は3つ造られた。 ①平安京(794年~1868年) ②長岡京(784年~794年) ③恭仁京(740年~744年) である。 奈良・滋賀・大阪などにも「京」はあったが、この恭仁京の形状がほかの「京」には見られない特徴を持っていた。 鹿背山を挟んで、左右に分断され京が造営されていたというのだ。左京が現在の加茂町、右京が現在の山城町となり、木津川が間を繋ぐという不思議な形。また、鹿背山の西麓から木津川の南岸に沿って道が造られていた事がわかっている。 左京の方は今でも礎石などで確認できるが、右京となると住宅地が広がりその痕跡を辿るのは非常に難しい。ただ、聖武天皇がお気に入りの行基(Gyoki)が建立した「泉橋寺」が鹿背山の西側にあり、そのすぐ南に流れている木津川には、これまた行基が架けた「泉橋」(近くに現在の「泉大橋」が架かっている)がある。また、「泉橋寺」を挟んで北側には、地名として「東作り道」・「西作り道」が残っていて古代道路があった痕跡が見える。という事らしい。 木津川。この橋は「恭仁宮跡」左京の東側に架かっている「恭仁大橋」だ。右奥のマンションの辺りに、JR関西本線(大和路線)「加茂」駅がある。 この橋のたもとに歌碑が立っている。 “ 今造る 久邇(恭仁)の都は山川の さやけき見れば うべ知らすらし ” 大伴家持『万葉集 巻6-1036』 「恭仁京跡」左京の西の端から西を望む。 ここで木津川は大きく「く」の字に曲がり、国道163号線と接しています。この道路は、トラックやダンプカーがのべつ幕無しに走ってくるので、おちおち写真を撮っていては引かれてしまう。 向こう岸が、鹿背山。川は大阪へと流れていきます。藤堂高虎は、この辺りから切り出した石を大坂城に向けて運んだのかしら。 “ みかの原 わきて流るる 泉河 いつみきとてか 恋しかるらん ” 中納言兼輔 『百人一首』 国道163号線を西に向かいます。 建設中の橋だ。東中央線というバイパスが通るらしい。 あぁ、太陽が沈もうとしている。 トラス構造のJR奈良線の鉄道橋。 「泉大橋」(日本百名橋)の隣に並行して架かっている。 (2017年10月下旬現在) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.06.02 21:54:48
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