松下政経塾へ(3)松下政経塾へ行こう☆☆☆その3逢沢一郎さんの魅力は、「出世を急がない男」だということだ。 松下幸之助さんの生前に唯一当選した最初の国会議員だけに、松下政経塾を代表する人物として、世間も注目していたし、政経塾関係者たちの期待も大きかった。 いわば長男坊だ。 政経塾のリーダーとして、今では非常に活躍されているが、それには「自分の出世」という、いろいろな損失と犠牲をともなう道のりであった。 埼玉県さいたま市(当時は浦和市)で県議会議員として、三市合併推進をしていた武正公一さんは無所属であったが、逢沢さんは喜んで選挙の駅頭・街頭演説をひきうけ、東京から駆けつけてくれたものである。 現在、衆議院議員になった武正さんは、民主党の二年生議員である。彼は五期生で、当選四回の伊藤達也大臣と同期だ。 彼も「出世を急がない男」だ。 浦和・与野・大宮の合併協議を推進する県議会議員として、彼はトップ当選を続けた。 支持者は「早く国会議員になれ」といつも言ったものだ。 「合併協議を仕上げるまで」と彼は固辞を続けた。 無所属の彼は、超党派の推進協議会に、なくてはならない存在。 その彼が自民党なり、民主党(新進党)なりの旗色を鮮明にして、県議会を辞職して出馬表明をしたとたんに、三市合併協議はガタガタになったであろう。 その彼が「いよいよ出るよ」と連絡があった時。 「もういいの。合併は。どっちから」と聞いたものだ。 「民主党」 「エッ。武正さんもか」 その瞬間、私の頭の中には、浦和駅前で駅頭演説したり、宣伝カーに乗りこんで、マイクを握った逢沢代議士のことが思い出された。 もちろん、武正さんも悩んだであろう。 しかし、小選挙区の浦和には、自民党の高齢議員がいたのだから、義理人情を捨てた一騎撃ちしかなかった。 奇しくも、その議員は細川内閣の倒閣に活躍した人物だったから、日本新党をやっていた私たちには仇討ちだったが、武正さんはあれほど誘われても日本新党に参加しなかった。 無所属を守り、合併実現を優先したのである。 武正さんばかりではない。 民主党に参加した議員のほとんどは、塾生として、また政治活動中も、政経塾の指導者である逢沢代議士の無償の応援を受けた経験があった。 そんな後輩が、反対政党の新進党や民主党に回るにつけ、逢沢さんの出世は何度も阻止されたというべきであろう。 「逢沢は民主党にも顔がきくだろう」と言えば、自民党内では禁句である。 つまり、政権を担当するラインからは外されてしまうのだ。 政務次官になった順番も遅咲きだった。 しかし。 逢沢さんはジッと耐えていた。 山田宏さんや、松沢成文さんがあちこちで何を言っても、逢沢さんは政経塾のつながりは絶たなかった。 これに比較すると申し訳ないが。 無所属代議士だった中田宏さんが、小泉さんの最初の首相選出で一票を投じたとき、民主党の熊谷弘幹事長(当時)の怒りは、松沢さんに向けられた。 「中田はいいよ。自由だから。しかし、オレの立場も少しは考えてくれよな。少しは」 松沢さんは本当に泣き顔でボヤいたものだ。 無所属の中田宏さんは、民主党と会派を共にして、民主党の質問時間を分けてもらって、花形の予算委員会質問に立っていた。 熊谷幹事長は、山田宏さんが若い塾生だったころに、運転手として採用した経緯と権威のある政治家人生の師匠である。 しかも、羽田孜さんの直系である松沢さんにとって、熊谷さんはただでさえ足元にも及ばない人物である。 菅直人と代表選挙を争ったときも、熊谷さんの全面的な応援があったからこその立候補だった。上田清司さんは「オレは熊谷組だ」といってはばからなかった。義理とつながりは大きい。 もちろん、熊谷幹事長にもニラミをきかせなければならない理由があった。 松沢さんは、郵政民営化問題で冷遇されていた小泉さんと超党派で政策同盟し、共著も出すような間柄だったのだ。 松沢さんが若手議員を引き連れて、小泉票に造反するようなことがないように、幹事長としては面子をかけて党内を引き締めたのだ。 この「中田の一票」が後に横浜市長選挙でも、県知事選挙でも蒸しかえされるのだから、右左の政治決断はどこにどう転ぶかわからない。 それは政治家本人の運命である。 しかし、逢沢さんは、このような経験を何度もしてきたのだ。 自分の仲間や後輩たちが自分の党派と反対の政党にいってしまって、自民党攻撃にまわり、いつも顔をあわせる同僚議員の対立候補になっていくのであるから。 同僚議員たちの不満やいじわるは、陰に日向に、逢沢さんに集中したのだ。 そんなマイナスをすべて受けとめながら、足元をとられ、批判されるような政治活動をしないで、自民党でやってきたことは、普通の人間には不可能なことである。 普通の政治家でも、小さなスキャンダルで落ちていくのだ。 敵対者、利害が相反する立場の人々にスキを見せたら、たちまち餌食になっていたであろう。 逢沢さんが当選6回になり、年功も積みあがり、政策通の若手議員のホープとして、官僚組織からも敬意をはらわれるようになり、誰もが「次の入閣候補だ」と言われたころ。 《加藤の乱》といわれる森内閣倒閣運動未遂事件が起きた。 小泉内閣の成立前夜のことだから、記憶している人も多いであろう。 この話を聞いたとき、私はつくづく逢沢さんの不運に同情した。 戦略家として見ても、失敗は明らかだった。 「加藤派は民主党の不信任案採決に欠席する」という最終手段までテレビ報道されるほど、手のうちは筒抜けだった。 加藤紘一さんの金庫番の金集めは異常であり、後に逮捕されることになるが、以前から「危ない」という噂は飛び交っていた。 指導者個人も問題がある。造反計画は敵側にも筒抜け。 加藤さんが相手にしていたのは、森喜朗総理ではなく、歴戦練磨の闘将、野中広務さんと、その意を受けた古賀さんであった。 週末までに勝敗は決していた。 月曜の朝、私は衆議院の廊下を歩いていて、ニコニコ顔の中田宏さんにバッタリ出会った。 「逢沢さんもついに決意したようだ」 「そうですか。うまくいけばいいんですが」 すべての未来がわかっていても、「あんなことに関わっちゃダメだ」と言えないのが、戦略家なのである。 政治家たちはもはや損得で行動していない。 これは彼の運命だ。それを妨げてはいけない。 当たって砕けろ。死にはしないから。 数時間後、衆議院の地下道で、顔見知りの長老議員がしたり顔で、こう言った。 「逢沢くんも、大臣の地位を棒にふったな。ハッハッ」 加藤政局は、谷垣さん(現・財務大臣)たちが、加藤さんを涙で引きとめるというドラマチックなシーンで終わった。 造反話がつぶれた民主党は、あまりの自滅的な茶番劇に憤激していた。 前原誠司代議士は議員会館事務所でニュースを見ていたが、「何をやっているんだ」とテレビに向かって怒りを吐き捨てた。 《加藤の乱》に参加した人々は、森内閣の最期までの一時であったが、徹底的に冷遇された。 加藤派は分裂し、古賀幹事長の下、堀内派が主流派として重きをなした。主人公を失った加藤グループは団結は維持したものの、苦境は明白だった。 そのとき、私は古賀幹事長が秘書として仕えた田中六助の著書、『保守本流の直言』を逢沢事務所にさし入れた。 まさに《加藤の乱》と同じ政局の混乱で、大平内閣と福田派が対決したとき、策士として有名だった田中六助は動かず、保守本流の宏池会の団結を守った。その経緯の独白録である。 師匠の田中六助の哲学で理論武装すれば、古賀幹事長も逢沢さんをつぶすことなく、むしろ一目を置くだろう。 逢沢さんは理系だ。 こんな古い本は持っていないだろうと思ったが、やはり。 逢沢さん、読んでくれましたよね。 しかし、《加藤の乱》の政局劇を山崎派で仕切った武部勤さんは、今や幹事長だ。 森元総理が激怒されるのもムリはない。 そして。 逢沢一郎外務副大臣の前途は大きく開けたと思っている。 実力があっても「出世を急がない男」が、ワシは好きなのである。 ジャンル別一覧
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