デュラキウム脱出作戦☆退却戦術
NHKの歴史ドラマ《聖徳太子》をみた人は、物部一族と蘇我一族の決戦で、物部軍が「退却戦術」をとったことを記憶しているであろう。 これは史実である。 当時の物部氏族の本拠地は渋川・若江・日下など生駒山麓、現在の東大阪市に集中していた。 蘇我の軍勢がその地域に足を踏み入れたとたん激しい迎撃が待っていた。 物部軍はもともと自分たちの勢力圏に堅固な防衛拠点を建設していたので、蘇我軍はおいそれと突入できなかったのである。 特に現在の大阪市街は「河内潟湖」という河口湖であり、竹内街道から渋川・日下に通じる八尾は湿地帯で、蘇我軍の主力だった騎馬部隊の突撃戦術は使えない。 賢明な蘇我馬子は、すぐに基本戦略を転換した。 そこで蘇我軍はいったん退却し、物部軍側の進出を促した。 決戦場は地勢的に考えても、大阪夏の陣と同じ四天王寺付近であったと思われる。 つまり、四天王寺の創建伝説は正しいもので、この地が最大の決戦地であり、多くの物部の人々の血が流され、死体が埋められた場所なのである。 ここは大阪・夏の陣でも徳川家康の本陣になり、真田幸村の騎馬軍団が奇襲突撃したところである。 戦いやすい場所に退却して、物部軍のムリな進出を誘ったのだ。 物部軍から見れば、退却した蘇我は弱った敗残兵であり、しかも「背水の陣」である。 物部守屋は「チャンスだ」と思ったにちがいない。 蘇我軍は支配勢力圏の竹内街道から進出し、このルートを補給路にしていた。 物部氏族は一気にこの補給路を断絶して、四天王寺付近を強襲包囲しようとした。 四天王寺付近の蘇我軍を放置しておくと包囲持久戦となり、住民の非戦闘員を多数抱えていた物部側に不利になるからだ。 つまり、物部守屋は結果的に軍を二手に分けたのである。必然的に。 もう一つ、私が想定しているのは、現在の天王寺公園内の巨大古墳、茶臼山の存在である。 これは物部氏族の中で、相当な活躍をした人物、特に物部尾輿大連のように大阪の各地に逸話伝承が残る人物の墳墓だったのではあるまいか。 これは想像に過ぎないが、物部が蘇我を生駒山系の難所、特に磯長谷付近でゲリラ攻撃せずに、わざわざ本拠地まで誘い込んだところに、物部守屋の油断があったと思われる。 逆に守屋は、本拠地で蘇我を叩けば、大和の方向に蘇我の残兵は退却するから、まさに磯長谷の付近で包囲殲滅できると考えたのであろう。 NHKのドラマでは、ここで聖徳太子と新羅人の弓の名手が物部守屋を遠矢で狙撃したことになっているが、これはもちろんフィクションである。 史実では、さらに蘇我軍も退却戦術をとり、物部軍を本拠地の渋川・八尾から引き離し、リバーシ(オセロ・ゲーム)方式で逆転包囲作戦に持ち込んだのである。 もちろん馬子は、最初から本拠地の強襲より、自分たちが退却して有利な地勢に誘導し、物部軍を分けさせてから決戦する戦略を持っていたかも知れない。 カメが甲羅を脱ぎ捨てるように防衛陣地を放棄して、うかうかと蘇我の勢力圏に進出してきたから、さしもの武勇を誇る物部の軍勢も、たちまち竹内街道の東からあふれ出てくる蘇我石川氏・河内大伴族の援軍部隊に背後と側面を包囲されて打倒されたのである。 この戦術は、日本書紀にも示唆しかされていない。 蘇我軍には、最初は皇室の親衛隊・大伴軍団は参加していなかった。 しかし、物部滅亡後に、大伴氏は摂津の物部旧領の配分を受けているのである。 このことから、最初は大伴軍団が中立であることにして、物部守屋を油断させ、最終段階になって、蘇我の陣営に迫った物部軍の背後に、大伴の兵が大挙してあらわれ、奇襲をかけた、そうした奇計が読めるのである。 この退却戦術は、《孫子兵法》にくり返し説明されている。 もし蘇我氏族や帰化人の司馬(須磨)氏族の人々が古写本を持ち込んでいたとしたら、これが日本の「兵法事始め」ということになるであろう。 ジュリアス・シーザーがポンペイウス戦争で使用した大退却戦術は、アドリア海に面したギリシャ・ペロポネソス半島の西端のデュラキウムから、反対側のエーゲ海のマケドニアに抜けるものであった。 シーザーは《市民戦争注解 De Commentarii de Bello Civili》に最も流暢に、この迅速な退却戦術の実行を詳細にわたり記述している。 それまでシーザーの軍団はデュラキウムで、ポンペイウスと保守派の人々が篭城する城砦を完全に包囲していたが、ポンペイウスは城内に糧食もたっぷりとあったので、全く戦おうとしなかった。 むしろ海路からシーザーの糧食補給路を断絶した。 包囲は半年間に及んだが、シーザー軍団の困窮と疲弊は明らかであった。 しかしガリア戦争をシーザーの旗下で戦い抜いた軍団将兵の士気は衰えなかった。 ポンペイウスの兵士たちが、 「貴様らには今晩たべるパンもなかろうよ」と大笑いすると、 シーザー軍の兵士たちは大いに笑い返して、 「これを食べてみろ。食べられるか」とたくさんのパンを投げつけた。 その大きさは、普通のローマ兵士に支給されるパンの半分もなく、しかも谷間の草や根菜を練りこんだ緑色をしていた。 実は戦闘経験のない新兵が多かったポンペイウス軍は、このパンを見るだけでシーザー軍団の士気の高さに非常な衝撃を受けたのである。 彼ら兵士は一人で数十人のガリア人を打倒し、突き殺してきた歴戦の猛者ばかりであった。 同じローマ軍の兵士たち同士なので、 「おまえたちはそこまでやるのか」という気持ちであろう。 報告を受けたポンペイウス自身も緑色のパンを見て大きなショックを受け、 「他の兵士に、このパンを見せるな」と厳命したという。 シーザーの部将としてガリアやゲルマニアで戦ってきた将軍ラビエヌスは、 「これでは勝てない。ここで下手にシーザーを強襲したら、味方の損害も多いし、ただでさえ政治家たちの対立が多い陣地がパニックになる」と考えた。 それでますます守備を堅くして、動こうとしなかった。 シーザーは冬前を迎えて、海上封鎖のために糧食補給が不可能になっていた。 ポンペイウスとラビエヌスは、シーザー軍団が孤立して、困窮のために降参するか、ギリギリ戦力が低下したところで決戦するチャンスを待っていたのである。 そのことに気づいたシーザーは、みずから、 「戦略が間違っていた」と判断し、ガリア戦争で何度も訓練・経験した極秘命令で軍団に撤退準備を整えさせた。 そして命令一下、西方のマケドニアの穀倉地帯に向かって、まさにグッド・タイミングで突然退却した。 退却というよりも、前触れもない転進戦術にあわてたポンペイウス軍の追撃は全く失敗した。 こうしてマケドニア進駐、補給が枯渇して身軽になっていたシーザー軍団は収穫を終えたばかりのマケドニア地方の租税の蓄積をまたたくまに全て手に入れてしまったのである。 さらにシーザー軍団が南に進出すれば、エーゲ海方面のローマ海軍の最強艦隊がシーザーの配下につき、たちまちアドリア海沿岸は封鎖される。 アドリア海のポンペイウス艦隊は、それに匹敵する兵力はなく、自分の配下のヒスパニア艦隊の応援も間にあわない。 デュラキウムの小さな城で鳩首協議をしていたポンペイウスは事態の逆転を読めば読むほどシーザーの勢力がこれ以上大きくならないうちに、デュラキウムを放棄して、マケドニア平原に進出する決戦の選択に迫られた。 だまってデュラキウムに座していたら、無能な政治家たちの無駄な議論ばかりで、立場が悪くなれば平気で他人を裏切る人々と死ぬまで行動をともにせざるをえない。 と言っても、逆にシーザーとの対戦を避け、ローマやイスパニアに移動すれば、 「ポンペイウスは逃げた」ということになる。 シーザーが退却戦術をとったとき、事情を知らないローマや各地の植民市民の多くの人々が 「シーザーはもう終わりだ」と考えたとプルタルコスは記述している。 こうした耳にも聞こえる世論は、ポンペイウスが別の地域に展開することを許さなかった。 もし私がポンペイウスの参謀であったならば、無理難題をふっかける政治家たちを強引にエジプトなどに追放し、直ちにローマにもどって、イタリア全土を制圧した上で、マケドニアにいるシーザーと対等に交渉し、和解することを勧めたであろう。 しかし歴史は無情である。 ポンペイウスは老いていたし、幕僚たちも戦場から遠ざかりすぎていた。 唯一頼りになる猛将ラビエヌスは、秩序もままならない新兵たちの軍団に手を焼いて、すっかり意気阻喪していた。 シーザーは、このときのポンペイウス陣営の戦略会議の内容を、戦後になってつぶさに調査し、その上で次のように痛烈な批判を加えている。 「postremo omnes aut de honoribus suis, aut de praemiis pecuniae, aut de persequendis inimicis agebant. nec quibus rationibus superare possent; sed quemadmodum vti victoria deberent, cogitabant. 要するに彼らの全てが、自分自身の出世欲や金銭上の利欲、あるいは過去の政敵に対する遺恨の報復ばかりを主張しあい、どんな作戦で勝利を手にするかという議論ではなく、いかに勝利を自分たちの我田引水に利用するかと考えあっていたのである。」 (C.B.C. Libri III-83)