孫子兵法からみた《本能寺事件》の真相【6】
伊達政宗の先祖は鎌倉時代初期、奥州合戦に従軍した戦功により源頼朝から現在の福島県伊達郡の地を与えられた初代・伊達朝宗だった。だから秀吉が「国替え」という方法で諸大名の根拠地を奪ったとき、山形県米沢市に本拠があった政宗は伊達郡への復帰を切望した。信長が光秀に「惟任」という名を与えたのは、明智城のある東美濃の形勢(1574)から光秀の執着を奪い、丹波方面の攻略(1575)に専念させるためだったと考えられる。天皇の諮問で名前を決めたのは、おそらく「惟神(かむながら)の道」を説く光秀の友人(藤孝の従兄弟)の公卿・吉田兼見だろう。兼見は比叡山攻略前に吉田神道(神仏混合)の指導者として、信長から「寺を焼いてもいいか」と相談を受けていることを日記に自慢している。つまり「惟任」は任務に集中しろという皮肉な名付けだ。このころの光秀の出世ぶり(安土城対岸の近江坂本の築城など)は、朝倉討伐以来、ずっと極寒の北越に置かれていた家老格の柴田勝家さえ嫉妬するほどだった。しかし、前述のように丹波計略は最初からつまずいた。しかし、黒井城の包囲や波多野の裏切り、光秀の敗走といった織田軍の面汚しの記録は、『信長公記』にはいっさい書かれていない。光秀が部下を見捨てて生命からがら京都の大路に逃げ帰った、などという記述は『信長公記・天正四年正月条』にはどこにも書かれていない。ただ安土城の建設が本格的になって、それらの盛大なありさまが美辞を連ねているだけ。削除されたか、それともあまりの信長の怒りぶりに記録するのをはばかったか。吉田兼見の日記、『兼見卿記』に記されているだけなのである。ルイス・フロイスが「信長は光秀を足蹴にしたことがある」と書いているが、まさにこの時のことだろう。これは重要なことだ。その場で信長が直ちに怒りに任せて光秀の首を斬らなかったのは、「まだ使い道もあるだろう」とじっと我慢をしていたのだ。その後は足蹴にするのも穢らわしいと思ったか、少しのことに激怒すると、近習の森蘭丸に鉄扇で殴らせている。これはひどい恥辱だ。ルイス・フロイスの記述は、キリスト教団側の偏見に満ちているという批判はあるが、彼ら歴史の第三者、つまり庶民層にまでも「光秀の悪評判」がそのように広まっていた、という事情を軽視してはならない。よく光秀の本能寺事件の動機を探る人々は、信長の仕打ちに「怨恨を抱いて復讐した」という見方に偏りがちで、これが最も害を及ぼしている。つまり、歴史のなかに、フィクションを含めて、もっともらしい怨恨の理由を探して回るのだ。今回の永青文庫研究センターの解説も「光秀怨恨の理由がどこかにあるか探せ」という暗黙の伝統的な命題に影響されていると思われる。人間は殺人事件を犯すとき、必ず怨恨が動機で事件を起こすものだろうか。何か動機があるはずだと、下手な推理小説のように理屈をつけようとすることが愚かしいのだ。怨恨は個人の感情である。そのような怨恨はまわりの人々には理解されない。だから「光秀は信長にいろいろな怨恨があったから、本能寺事件を起こしたのだ」と決めつけるのは、もう止めなければならない。その逆の意味で、永青文庫の光秀書状を見直すのが私の立論である。光秀はいつも悪夢に怯えていたのだ。いつかまた黒井城みたいに大敗したら、その時はすぐ信長の命令で、森蘭丸たちがやってきて、今度は鉄扇ではなく、御太刀で頭蓋を叩き斬られるだろうと。よしんば敗戦で、山陰道攻略の主将である自分が陣中で切腹をする間もなく、罪人のように叩き斬られたら、部将である藤孝・忠興はどうなるだろうか。光秀は「このまま信長に天皇と天下をとらせたら、われわれの首は最初の犠牲になるところだったんじゃないのか」と藤孝に痛い胸中を明かしたのだ。