000000 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

曹操注解 孫子の兵法

PR

全1156件 (1156件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 >

Apr 7, 2015
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
株式会社エアウィーヴ 取締役社長 殿


冠省
TV番組《ガイアの夜明け》を拝見しました。
私もエアウィーヴの愛用者ですので、主題だったアメリカ市場への件について率直に意見します。
アメリカ市民は圧倒的な割合で肥満体質の人々が多い。
体重が100kg、体脂肪率が100%を超える場合、マットレスに過ぎないエアウィーヴの特質や利点は生かしにくいと断言します。
し … [続きを読む >>]





Last updated  Apr 7, 2015 11:29:13 PM


Feb 25, 2015
カテゴリ:カテゴリ未分類
『信長公記』の著者・太田牛一は天正9年(1581)8月、おそらく安土城で信長がこう発言したことを記録した。

『今度毛利勢が後詰に出づれば、信長もみずから出馬して東国の人数をもって西国勢にまみえ、一戦を遂げてことごとく討ち果たし、この日の本を一挙に平定する所存である(本朝、滞りなく御心一つに任せらるべきの旨)』

これは秀吉軍から毛利攻めに参加を呼びかけるプ … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 25, 2015 01:01:35 AM
Feb 18, 2015
カテゴリ:カテゴリ未分類
今年、「本能寺の変」直前の長宗我部元親の手紙が岡山県立美術館「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」展で公開され、
2月4日放送のNHK歴史秘話ヒストリアで紹介された。

その内容は、本能寺事件の直前に元親が、光秀の家臣で肉親の斎藤利三を通じて、降伏命令を受け入れるというものだった。
実際に元親は光秀に使者を送り、和睦したいと信長に申し入れている。
これは … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 18, 2015 09:58:20 PM
カテゴリ:カテゴリ未分類
たまたま最近、2月4日のNHKヒストリアの長宗我部元親の斎藤利三宛て書状のことを知り、桐野先生の労作のことを知りました。

また、本能寺事件の直後に細川藤孝宛て光秀書状が東京の永青文庫で公開されたことも聞き知り、戦略シミュレーション研究の観点から、この問題に興味を持ちました。

結論は、光秀が四国侵攻を阻止するため、本能寺事件を起こしたことを確認し、
また光秀が命じられた山陰 … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 18, 2015 07:39:28 PM
Feb 17, 2015
カテゴリ:カテゴリ未分類
伊達政宗の先祖は鎌倉時代初期、奥州合戦に従軍した戦功により源頼朝から現在の福島県伊達郡の地を与えられた初代・伊達朝宗だった。
だから秀吉が「国替え」という方法で諸大名の根拠地を奪ったとき、山形県米沢市に本拠があった政宗は伊達郡への復帰を切望した。

信長が光秀に「惟任」という名を与えたのは、明智城のある東美濃の形勢(1574)から光秀の執着を奪い、丹波方 … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 17, 2015 11:28:56 AM
Feb 15, 2015
カテゴリ:カテゴリ未分類
もとは明智光秀の失敗が原因だった。

元亀元年(1570)、但馬(兵庫県北部)の生野銀山(1542発見)をもつ守護・山名祐豊と、隣国の丹波(兵庫県中部)の大名・赤井直正が国境の小競り合いから合戦となり、赤井軍はすすんで但馬側の竹田城(いわゆる日本のマチュピチュ)などを陥落させた。

両者はもともと信長に服従をしていたが、調整はつかず、天正3年(1575)末になって光秀が丹 … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 15, 2015 04:45:47 AM
Feb 13, 2015
カテゴリ:カテゴリ未分類
いま改めて『信長公記』を読み返してみると、
安土城を建設した後、楽市楽座で移住人口を増やす政策をとっていた時期、
織田信長はそれまで奉行など役人に任せていたであろう町の中の喧嘩にまで介入し、
部下を投入して決着をつけさせている。

清洲にせよ、岐阜にせよ、そこは旧市街があり、町役となる地域自治のリーダーがいたが。
安土城下はだれがリーダーになるのか … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 14, 2015 04:56:29 PM
カテゴリ:カテゴリ未分類
この議論は永青文庫研究センターの問題提起から始めたものなので、
主に細川藤孝の周辺から、本能寺事件の経緯を再考することにしよう。

さて勝龍寺城の召し上げの問題は天正9年(1581)の記事の後、唐突に『信長公記』に登場する。
「すでに南丹後を領有したのだから」という理由だが、この交換は細川藤孝の納得の上とは思えない。
信長は細川家知行の再検地を命じ、京都 … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 14, 2015 12:29:30 AM
カテゴリ:カテゴリ未分類
細川藤孝は、本能寺事件の年、すでに織田信長政権にとって、光秀と同等に「無用の長物」の扱いを受けていた。
なぜなら、信長は自分自身が平清盛に習って太政大臣になろうとしていて、
正親町天皇の皇太子・誠仁親王に自分の京都の邸宅だった二条第を譲っていた。
だから本能寺を宿舎としたわけだ。

光秀の心情はともかく、信長が本能寺事件の直前にやろうとしていたこ … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 13, 2015 10:39:56 AM
カテゴリ:カテゴリ未分類
さて、後れ馳せながら、熊本大学の永青文庫研究センターのみなさん、そして稲葉継陽先生の業績に心からの敬意を申し上げたい。
しかし、書状の文言の解釈はすべての真相を明らかにするものではない。

歴史資料は、いわば点である。
足場になりうるかは、点の数で決まる。
違う方向、位置にある2点(歴史資料)が存在すれば、それは有力な説、
3点以上が一致すれば、それは限りなく真相に近い … [続きを読む >>]





Last updated  Feb 14, 2015 03:53:17 PM

全1156件 (1156件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 >


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.