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ダマスカス大学医学部を卒業後、軍医として働いた後、1992年に英国に留学、ロンドンのウェスタン眼科病院で研修していたが、当時も彼は政治への関心は人並み程度だった。 この頃、後の妻アスマー・アル=アフラスと出会っている。彼女は英国で生まれ育ったスンニ派シリア人で、ロンドン大学キングス・カレッジを卒業後JPモルガン(英語版)の投資銀行部門でM&Aを手がけるキャリアウーマンだった。 ファッション誌『ヴォーグ』では、「優雅で若く、同国の改革の象徴」などと紹介され、英王室ダイアナ元妃になぞらえ、「中東のダイアナ」とまで称賛された。記事のタイトルには「砂漠のバラ」と冠されている。 しかし、軍人であった父や兄に対して、眼科医のバッシャールに国を率いるだけの能力があるのか疑問視された為、帰国後は、医務局付き大尉の肩書を持っていたので、シリア陸軍の軍務に付き、ホムス士官学校・機甲師団局に勤務、さらに1994年よりダマスカスの軍事高等アカデミー参謀コースで学び、その終了後は機甲師団司令官に昇進、1995年1月には少佐に、1997年には参謀本部付き中佐に、1999年1月に同大佐に昇進した。 こうして兄の権力基盤だった共和国防衛隊の実質的な指揮権を掌握。 政治実績を積むために、レバノン問題担当大統領顧問として、同国の親シリア派政治家であるエミール・ラッフード大統領就任やサリーム・フッス首相選出を後押して、レバノン内政に介入した。 このことが後の対レバノン関係に惨禍を残すことになる。 1999年には、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどのアラブ諸国を訪問。さらにフランスのジャック・シラク大統領とも会談し、シリアの次期後継者として周辺国にアピールした。 2000年、バッシャールは「古参と新たな血の融合」「腐敗との戦い」といった新たな運動を唱え、体制内部の腐敗一掃とあらゆる分野での改革を訴えた。 それに呼応するように3月8日、汚職疑惑があったマフムード・ズウビー首相率いる内閣が総辞職し、新たに清廉で実直として評価が高かったアレッポ県知事ムスタファー・ミールーがバアス党大会で首相に指名され、3月14日にミールー内閣が発足した。 この内閣には、バッシャールが指名した23名の実務や行政手腕が買われた50歳以下の若手閣僚も含まれていた。 今までのシリアの内閣は、大統領が国防・外務・情報・経済担当大臣を選び、他の大臣は情報・治安機関が人選した人間を選んでいたが、今回は実質バッシャールが人選を行った。 腐敗との戦いの最初のターゲットになったのは、前首相のズウビーであった。 2月には「首相在任中の行動規範が、党の価値観、道徳に反し、法を逸脱して国家の名誉、党の名声に被害をもたらした」としてバアス党地域指導部にて党を除名され、首相辞任後は公金横領容疑で起訴され、資産を凍結する懲罰措置が取られた。そして、逮捕日当日の5月21日、ズウビーは自宅で拳銃自殺を遂げた。 一説によると、ハーフィズ・アサドの妻の一族であるマフルーフ家の指示により、北朝鮮との天然ガス密売の取引に失敗したため、詰め腹を切らされたとの説もある。 ズウビー自殺を皮切りに、党や政府の高官が次々と腐敗の容疑で逮捕されていった。これは、体制内部の粛正と腐敗との戦いを進めるバッシャールに対して恐威の念を抱かせるという二重の意味があったとされる。 2007年5月に再任された。 2010年末よりはじまったアラブの春はシリアにもシリア騒乱として飛び火し、批判の矛先はバッシャールにも向けられることとなった。 反政府デモに対して当初は憲法改正や内閣改造、社会保障の拡大など妥協案も示されたが、デモの拡大に際し武力による鎮圧を試み、多数の死者を出すこととなった為、国際社会からの批判も高まっているが解決の糸口は見えていない。 騒乱が事実上の内戦として長期化する中、シリア国内では、欧米に支援されたシリア国民連合の統治能力に対する懐疑や、占領地域で厳格なシャリーアに基づいた統治を行うイスラム国/イラクとシリアのイスラム国(IS/ISIS)やアル=ヌスラ戦線等のアルカイダ系反政府勢力の跋扈から、少数派ムスリムやキリスト教徒を中心にアサド政権を支持する声も少ないとはいえず、また周辺諸国の利害関係や独立を望むクルド人勢力の動きも絡みあって、事態は複雑化している。 2014年の大統領選では88.7%の得票率を得て三選された。 ところが、米紙ワシントンポストの週刊誌「パレード」の「世界最悪の独裁者」ランキングにて第12位に選ばれた。ブッシュ前政権はシリア封じ込め策をとっていた。 アサド政権は対イスラエル闘争を続けるパレスチナのハマス、レバノンのヒズボラを支援している嫌疑をかけられており、欧米からいまだに「テロ支援国家」と名指しされている。 2003年のイラク戦争後は、イラクからの難民や、逆にイラクに潜入する武装勢力がシリアに集まり、アメリカ合衆国との関係が悪化。さらに2005年のラフィーク・ハリーリー前レバノン首相暗殺事件をきっかけに米欧を中心とする国際的圧力を受け、シリア軍のレバノンからの全面撤退を強いられた。レバノンや中東和平問題をめぐり、イスラエルとの関係は現在も悪いままである。 北朝鮮と核開発で協力しているという疑いをアメリカに持たれ、2007年9月にはイスラエル空軍によるシリア空爆が行われたと報じられている。 後に北朝鮮と核開発で協力しているという見解をアメリカは公式見解として発表する。 一方で先代以来の友好関係にあるイランとの関係を強固なものとし、また隣国トルコやイラクとの関係を劇的に改善しており、イラク戦争後の不安定な中東の政治状況の中で孤立を回避するよう努めている。 ただし、2009年のオバマ政権発足直後から上院外交委員長らを相次ぎシリアに送ったことを「まず対話を始めて互いに問題解決にかかわることが大切だ」と歓迎。 若干対米関係を修復させる態度を示している。 》》》》》》》 私が思うに、バッシャールは無能な政治家ではない。 レバノン問題では、彼は積極的に可否の判断ができなかった。 政治腐敗の問題では、母親の実家の利権を叩きつぶすなど賢明な処断をみせた。 欧米の情報機関が混乱したのは、実はこの腐敗撲滅運動ではなかったかと思う。 情報機関が他国にビジネスを展開するということは、簡単にいえば政府高官を買収するってことでしょ。 バッシャールに嫌われて、シリアを逃亡した連中が欧米に逃げて、何をいうかといったら。 「バッシャールはサダム・フセインの仇をとるために準備をしている」というわけさ。 亡命シリア高官たちは、自分たちを一番高く欧米に売りつけるデマをふりかざした。 これでアメリカやNATOの参謀たちはヒステリックになった。 「シリアも政権党はバアス党だ。アサド政権を何とかつぶそう」 まったく参謀さんって想像力が豊かすぎて道化役にたぶらかされる子どもみたいな人々なのだよ。 しかし、だからといってエジプトのムバラク政権の転覆の流れで、シリアの反政府勢力に資金や武器をつぎ込んだ欧米の罪は大きい。 もっとも罪が重いのは、初期の段階でアナン特使を派遣して、バッシャールに辞任を要求した国連事務総長パン・ギムンの愚行だ。 バッシャールも秘密警察や弾圧機関を父親の体制、陣容のまま引き継いでいたのも油断だった。 金正恩の体制引き継ぎもそう簡単にいってないことをわれわれは知っている。 これまでのシリア政府の問題は、旧体制の残存派が引き起こした弾圧と、シリア軍そのものの不備であり、それはバッシャール個人がいなくなればいいという問題ではない。 反政府運動は日本にもいるが(笑)彼らを誰も相手にしないのは、彼らに統治能力がなく、具体的な政策プログラムもなく、すべての人々の生活なり人生をいまより改善しようというヴィジョンがないからだ。 シリア内戦が拡大すると、化けの皮がはがれてきた。反政府勢力の支配地域に生活の改善が見られたか。 停戦合意をしようと、反政府勢力で話し合いをしたら、まとまらなかった。 前のアサド政権の怨みをはらそうと集まってきただけの反政府勢力にすぎなかったのだ。 パン・ギムンは、彼らならず者たちに政権を預けようと、いまでも考えているようだ。 彼が本当に韓国出身ならば、1960年の学生革命が翌年の朴正煕少将のクーデターで打ち破られたことを知らないだけだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 6, 2014 11:30:25 PM
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