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曹操注解 孫子の兵法

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Feb 13, 2015
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さて、後れ馳せながら、熊本大学の永青文庫研究センターのみなさん、そして稲葉継陽先生の業績に心からの敬意を申し上げたい。
しかし、書状の文言の解釈はすべての真相を明らかにするものではない。

歴史資料は、いわば点である。
足場になりうるかは、点の数で決まる。
違う方向、位置にある2点(歴史資料)が存在すれば、それは有力な説、
3点以上が一致すれば、それは限りなく真相に近い。

現代の政治家の記者会見の発言だと思えばいい。
よく政治家は「真相が間違って伝えられたが、私の真意はこうだ」と発言の解釈を説明する。
しかし、その真意の説明は、マスコミの一方的な解釈に対する反論であり、自己弁護なのだから、素直に読み取れないことは言うまでもない。

光秀は真意を語っているかもしれないが、大袈裟に物事を語り、嘘をついているかも知れない。
それは書状だけでは読み取れない。

しかし永青文庫研究センターのチームは、
「光秀の山陰道攻略に、丹後の細川家も全軍をあげて協力するように」という信長の絶対命令があったことを明らかにした。

それを光秀は拒否した。
しかも、信長を殺害して山陰道攻略作戦を中止することが、
「私もそうだし、細川家にとっても、存亡の瀬戸際だったはずだよ」と哀願したわけだ。

光秀の山陰道攻略が、信長の戦略全体では「捨て石」だったことは間違いない。
実際に信長は、秀吉の山陽道攻略に参加するために京都に短期滞在していた。
いわばトランジットで京都で対策を練っていたという立場。
高松城の水攻めの報告はすでに秀吉から詳細に届いている。
毛利はほとんど全軍を投入して、高松城の近くに布陣していた。

したがって毛利の本拠地だった出雲(島根県)と安芸(広島県)は手薄な状態。
山陰道から光秀が一気に乱入したら、高松の毛利本陣の背後をかく乱するわけで、
毛利は防戦の窮地に立たされ、本国に撤退を余儀なくされる。
そこまではいい。

しかし、本国撤退は毛利も計算のうち。
山陰道を攻め込んだ光秀軍は、もとの領主にして姦雄・尼子経久が針ネズミのように砦や出城を配置した出雲領内で蜘蛛の巣網にかかった蜂のように身動きがとれなくなる。

そこに広島の領地を捨てた毛利軍が攻め入ったら、光秀と細川の山陰道攻略軍は完全に殲滅されるだろう。

すると、秀吉と信長の総攻撃軍は、一気に安芸(広島)から長門(山口県)まで軍を突進させる。

毛利は光秀軍を撃破した後に、改めて信長と出雲・石見(銀鉱山あり)の線引きで和睦する、
これが孫子兵法の戦略シミュレーション解析である。

信長はあえて「お前は死んでこい」という命令を下し、それに細川藤孝を巻き添えにしようとした。

だから光秀は「信長の殺害は、細川家の存亡のためでもあるのだ」と言い張ったのだ。
しかしなぜ、細川藤孝を信長は光秀といっしょにお払い箱にしようとしたのか。

足利義昭を追放して、完全に京都を軍事占領、
大阪の石山本願寺も滋賀の比叡山も叩きつぶした信長は、
安土城に天皇を遷御する準備を整え、実際に清涼殿など天皇の御座所となる施設を建設していた。

京都に天皇がいて、たくさんの公卿たちに囲まれている状況であれば、
細川藤孝のような博覧強記の天才は活躍の場がある。
つまり、天皇から意のままの詔勅を出してもらうためには、天皇の文書を管理する立場の公卿たちをうまく操縦しなければならない。
もともと細川藤孝はそういう立場だった。

しかし、信長は光秀とともに細川藤孝を切り捨て、「お前はもう捨て駒だから必要ない」と決めつけていたようである。

本能寺事件の数ヵ月前からの書状は、まったくの命令書であり、つまり信長の官僚機構から通達された無機質なもの。
稲葉教授はそのことは確認できるはず。
信長自身の命令でもなく、すでに発動されていた山陽道攻略優先の作戦手順で、中央本部の作戦会議が信長の承認を得ながら動いていたと。

天皇を京都から強制移動させ、言いなりになる公卿たちだけを同行させれば、もう公卿の引き付け役の藤孝はいらなくなるわけである。
実際にいらなくなったのだ。
だから京都から追い出され、丹後に左遷されたのだ。

その理由は、藤孝が天皇の安土城遷幸の構想に異議を申し立てたからであろう。
後に、黒田官兵衛が秀吉の韓国征伐に異論を唱え、逆に前線にいけと命令されたように。
加えて、毛利には足利義昭がいた。
義昭がいる毛利を攻めろという絶対命令は、まさに藤孝の異心を実検するため、
信長が突きつけた無理難題だったのだ。






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Last updated  Feb 14, 2015 03:53:17 PM


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