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主に細川藤孝の周辺から、本能寺事件の経緯を再考することにしよう。 さて勝龍寺城の召し上げの問題は天正9年(1581)の記事の後、唐突に『信長公記』に登場する。 「すでに南丹後を領有したのだから」という理由だが、この交換は細川藤孝の納得の上とは思えない。 信長は細川家知行の再検地を命じ、京都所司代の部下二人に城郭を接収させたのだ。まるで合併した企業の破綻処理だ。 勝龍寺城とはどういう城なのか。 勝龍寺城はもともと大和(奈良)と河内(大阪)に勢力を持っていた三好氏が支配していた城だった。 永禄11年(1568)9月、義昭を奉じて上洛をする途上の信長に、三好と対立する松永久秀が謁見、圧倒的な軍勢の前に落城、三好氏は四国(徳島県)に逃亡した。 このとき勝龍寺城はいったん廃墟になった。 さて元亀2年(1571)正月から、足利義昭はあちこちの大名に密書(御内書)を送りつけ、前年に信長に対抗した浅井・朝倉に味方をするように説得する運動を始めた。 義昭の側近だった藤孝はすぐに「公儀御逆心」と信長に状況を詳細に通報した。これが藤孝文書の第1号の背景である。 天皇がいる京都を押さえている信長は、反抗する勢力はすべて賊軍として討伐できたから、あえて義昭を泳がせ、御内書にそそのかされた相手が攻めてくるのを待つ戦略をとったのだ。 これは孫子兵法の基本原則の一つ、何度も相手に犠牲の大きい長距離の行軍をさせ、何度も進出した軍勢を追いかえすことによって、本国そのものを疲弊させる、というもの。 『曹操注解・孫子の兵法』(273-4ページ) そこで同年、信長は細川藤孝に山城西岡(長岡京市)一帯を領地として与えた。 これは信長の比叡山焼き討ち(9月)の直後である。 当時の公卿たちは昼夜燃えさかる比叡山の地獄絵と、ひどい有り様の難民たちをみて怖れおののいていた。 もちろん正親町天皇おんみずから信長に会うことさえはばかるようになった。焼き討ちで逃亡した天台座主は天皇の実弟、覚恕法親王。 これでは困るのだ。 そこで信長は細川藤孝を立て、天皇周辺をなだめる役を命じ、あわせて京都洛外の守護に藤孝を任命したのである。 それは足利義昭の周辺をより厳重に監視させるためでもあった。 同年10月14日の信長より藤孝宛て『印判状』には 勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し 織田信長(印判) とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている。つまり築城の資金は、信長が負担したのだ。 これによって勝龍寺城は2重の堀をもつ堅固な城となった。 このことは藤孝にとって最もうれしいプレゼントだったに違いない。 この勝龍寺城のことを、先祖筋にあたる南北朝時代の細川頼春が最初に築城した小龍寺の遺跡だと断定し、自分も細川姓をやめ、地名に合わせて「長岡藤孝」と自称したほど。 こうして藤孝は信長の信任に応えるようになった。 彼は当初、足利義昭を将軍に擁立して、足利幕府を再建しようとしていたが、 義昭のいびつなパーソナリティ、嘘つきで気弱なのにヒステリックに怒りっぽい気まぐれな性格、 人をとことんまで見下す人徳の欠如に飽き飽きしていたと思う。 元亀3年(1572)10月、信長はついに義昭に詰問17条をつきつけ、「あんたのやってる小細工はみんなお見通しなんだよ」と駄目を押した。 翌年、義昭は武田信玄が救援にくると信じて、二条城で反乱を起こしたが、すでに信玄は死んでいて甲斐武田が軍が動かせるはずもなく、たやすく撃破され、京都を追放された。 しかし、これで藤孝の重要性、信長にとっての利用価値は一つ欠けた。 明けて天正2年(1574)、 武田信頼の軍営は、信長の《孫子兵法》の逆手をうち、辺境の小さな山城を包囲して、激怒した信長を誘き出し、疲弊させる戦略に変更した。 戦果のない連戦に欲求不満を募らせた信長は、京都にきて、天皇に請願して、正倉院を開封、名香・蘭奢待を切り取る許可を得る。 細川藤孝が、この一件にどう関わったかを記す文献は一つもないが、 藤原道長(1019)、源頼朝(1195)、足利義満(1385)、足利義政(1465)と重ねて、勅許を得て皇室の重宝を伐りとる意義を知っている人物、 天皇にそれを認めさせる説得ができた人間はそう多数はいない。 藤孝だけだ。 こうして信長はかつて松永久秀の居城だった奈良市内の多聞山城を訪れ、噂に聞いた4重の天守閣と豪壮な城郭を見た。 余談だが、かつて松永は築城(1560)にあたり、まず60mほどの小山の上に天守閣の建造を始め、それから近隣の富裕な豪族たちに土地を分譲して外郭を固めた。 これはいまのディズニーランドとほぼ同じ建設方法である。 後に織田信長が安土城を建設したときも、同じ方法がとられた。 この蘭奢待事件の後、しばらく信長は藤孝の立場の変更は捨て置いた。 しかし、天正8年(1580)にいたり、信長は藤孝・忠興父子に丹後の一色氏を攻めるように下知した。 藤孝にとってついに避けられない試練の時が訪れたのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 14, 2015 12:29:30 AM
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