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曹操注解 孫子の兵法

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Feb 15, 2015
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もとは明智光秀の失敗が原因だった。

元亀元年(1570)、但馬(兵庫県北部)の生野銀山(1542発見)をもつ守護・山名祐豊と、隣国の丹波(兵庫県中部)の大名・赤井直正が国境の小競り合いから合戦となり、赤井軍はすすんで但馬側の竹田城(いわゆる日本のマチュピチュ)などを陥落させた。

両者はもともと信長に服従をしていたが、調整はつかず、天正3年(1575)末になって光秀が丹波の地侍(現地の豪族)を集めて赤井氏の本拠、黒井城を圧倒的な軍勢で包囲した。
ところが翌天正4年正月、黒井城(北近畿豊岡自動車道・春日JCT付近)の入り口にあたる八上城(篠山市)の波多野秀治が攻城戦の最中に突然謀叛を起こして背後から襲撃したので、光秀軍は総崩れになって京都市中に敗走した。
この戦いで、赤井直正は「丹波の赤鬼」という異名で天下一の武将と称えられ、織田軍は京童にも嘲られた。

光秀の戦歴をいろいろ検証すると、加勢の合戦はだいたい勝利しているが。単独の制圧戦はこのようにうまくいかないことが多かった。
これは光秀の性格に由来するものかも知れない。
補佐役として主人の脇の甘さ、他人の欠落は指摘できる。しかし、自分自身は隙だらけなので、いつまでたっても一本立ちできない。
「のぼうの城」武州忍城をしくじった石田三成もそういう男だった。

光秀がもっとも目覚ましい働きをしたのは比叡山焼き討ちだった。
10日前の9月2日付けの『和田秀純宛て光秀書状』では、比叡山に近い宇佐山城への入城を命じつつ「仰木の事は是非ともなでぎりに仕るべく候」と現在の大津市仰木町の一般市民を虐殺するように指示している。
こうして光秀は宇佐山から日吉大社の奥宮を襲撃し、逃亡してきた女や子どもをもろともに焼き殺した。
これは比叡山の僧兵たちが破戒淫乱を極めていた証明となり、織田軍は皇室に対しても大義名分を得ることができた。
しかし比叡山延暦寺と対立していた園城寺から進出した光秀軍は、民家を放火殲滅をしながら侵攻したので、逃げ惑う多数の避難民を巻き添えにしただけではないかという疑問もある。
しかも夜襲に驚いて、ほとんど抵抗せずに屈伏して逃げ惑うばかりの相手。
それでも功績随一とされた明智光秀は近江坂本を領地として与えられた。
光秀が何といいわけしようと、正親町天皇の実弟・天台座主を追いやった罪は黙した皇室の心深く刻まれていたと考えねばならない。
いっぽう、座主が必死に逃亡するのを道をあけて許したのは秀吉だった。

光秀が再び丹波に進出したのは天正6年(1578)3月。ここで信長の命令により、長岡(細川)藤孝も加勢に出た。

八上城は麓から200mを越す山城。光秀は八上城をだらだら包囲を続け、付近の諸城の各個制圧した。
4月には滝川一益・丹羽長秀らの増援を受ける。
しかし当時、秀吉も播磨国三木城に膠着、信長も荒木村重が叛旗をあげた摂津国有岡城、石山本願寺などに包囲され、光秀も前の失策に懲りて優柔不断から八上城総攻撃が決行できなかった。

その間に藤孝は守護・一色義直に反抗する國人衆に導かれて丹後武部山城(舞鶴湾西港)を攻略した。

天正7年(1579)2月、黒井城の赤井直正が病床にあるとの内通を得て、光秀は再び丹波に進出した。数年の包囲で八上城は兵糧が欠乏、餓死者も出ていた。
兵庫県立歴史博物館所蔵の信長朱印状は同年4月13日、但馬の豪族に宛てた内容で
「赤井忠家、赤井直正に荷担した罪を赦免し、去年以来より織田方に一味した者の身上は異論なく扱い、当知行も安堵するので、光秀と相談して益々忠節を尽くすように」とある。
こうした赦免状を何十枚も国中にばらまいて、少しでも赤井の勢力を削ごうとしたのだ。

6月1日、城主に不満をついに爆発させた城兵が波多野秀治を捕え、光秀に引き渡した。
すでに黒井城の直正は3月に病死していた。

夏8月、ようやく光秀は孤立した黒井城を攻撃、陥落させた。
残存兵力の掃討に手間取り、光秀、細川藤孝らが安土城の信長に丹波平定を報告したのは10月24日。
翌天正7年(1579)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えた。

それでも藤孝にとって勝龍寺城は何としても失いたくない場所だった。
だから名門の細川姓をやめて「長岡」と改姓したのだ。

武家は姓を発祥の地名と位置づける。
家康は愛知県豊田市の松平地区を本貫地とした。
松平氏の先祖をさかのぼると、群馬県太田市の新田氏の支族、徳川氏につながる。それで家康は清和源氏の末裔と称し、征夷大将軍の地位を要求できたのだ。
同じように毛利氏は鎌倉幕府を支えた大江広元の末裔で神奈川県厚木市内の毛利地区が本貫、武田氏は意外にも茨城県ひたちなか市武田地区が本貫の河内源氏(大将軍頼政の子孫)だという。
秀吉は父親は無名、妻ねねの実家・木下氏がかろうじて藤原氏の末裔なので、猿を守護神とする比叡山の日吉大社になぞらえ木下藤吉郎と称した。それで将軍ではなく、後に関白・太閤という高位を極めた。
明智光秀の本貫は愛知県可児市明智、明智氏は尾張守護の土岐氏の支族で、足利一門の末裔。
その明智城はたびたび近隣の駿河にいた武田軍の侵攻を受けた。
信長は「気にするな」という気持ちからだろうか「惟任」という姓を天皇から拝賜させ、惟任日向守と呼ばせた。

それにしても光秀という男、
合戦には弱いという定評は折り紙がついてしまった。
ルイス・フロイスは光秀についてこう書いている。
「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
「裏切りや密会を好む」
「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」
「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」
「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」
「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」
「刑を科するに残酷」
「独裁的でもあった」
「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」

まさにそういう人物だった。






Last updated  Feb 15, 2015 04:45:47 AM


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