「メビウスの輪」16久しぶりに幸恵とデートだ。 何年か前に行った千倉の海にドライブすることにした。 学生のときは、お金もなかったし、 電車で行ったのだが、今度はレンタカーを借りた。 車を買うより、結婚資金を貯めて、早く幸恵と結婚したい。 家から早く独立したいというのもあるけど。 レンタカーを借りてから、幸恵の家まで迎えに行ったが、 相変わらず立派な邸宅だよな。 門から玄関まで、車でしばらくかかるとは。 自分がお抱え運転手のような錯覚を抱いてしまうほどだ。 気を飲まれるな。俺はここの主人になるんだ。 玄関の前に車を付けて、ドアフォンを押す。 「堂本信吾ですが、幸恵さんお願いします。」 「お嬢様ですね。お待ちください。」 お手伝いが居るんだよな。 「ちょっと待っててね。すぐ行くから。」 幸恵の慌てた声が聞こえた。 「そんなに急がなくてもいいよ。」 言ってるそばから、ドアフォン越しにゴンと鈍い音が聞こえた。 「痛い!」 また、どこかにぶつけたんだろう。 そそっかしいんだから。 「大丈夫か?」 こっちの声は聞こえないかな。 落ち着いたお嬢さんに見えて、 幸恵は結構危なかっしいのだ。 そこがまた可愛いのだが。 「お待たせ。ごめんね。」 バタバタと玄関から出てきた。 今日は海に入るつもりなのか、 ミニスカートで足を出してる。 いつもはロングスカートが多いのに。 「秋なのに、寒くないのか?」 「でも、今日は割と暖かいよ。」 「やっぱり海に入るつもりだな。」 「信吾こそ、入らないの?」 俺も念のため、着替えは持ってきた。 幸恵のことだから、海に入ったり、 水をかけたりするだろうからな。 「それは、幸恵次第さ。 一人じゃ危なくて入らせられないよ。」 年上のくせに、精神年齢が幼いから、 俺が保護者のような気分になってしまう。 話を聞いてくれるときは年上ぶってるけど。 まあカウンセラーだから仕方ないか。 「じゃあ、入ってくれるのね。 良かった。信吾が一緒なら安心。」 ニコッと童女のように微笑まれると弱い。 「この薄ら寒いのに本当に海に入るつもりなのか?」 「もちろん、足だけよ。 だからミニにしたんだ。」 フレアのスカートを翻しながら、回ってみせた。 パンティが見えそうで見えない。 他の男には見せたくないな。 「早く乗れよ。時間無くなるぞ。」 「そうだね。早く出して。」 まったく、こっちの台詞だよ。 出会った頃に比べたら、本当に明るくなったよな。 最初は影の薄い、たおやかなイメージだったのに。 まあ、俺も幸恵と会ってから、陰気ではなくなったと思う。 お互い暗い家庭環境で育ったけど、二人で明るい家庭を築こう。 学生のときに免許を取ってから、しばらくペーパードライバーだったが、 仕事でも運転するから、割と自信はある。 房総スカイラインや鴨川有料道路も少し飛ばしてしまった。 幸恵は窓を開け、風を受けている。 いつもおしゃべりな幸恵が珍しく黙っている。 「幸恵が話さないなんて、どうしたんだ?」 「風が気持ちいいし、 窓開けてるから、声聞こえないでしょ。」 確かにカーステレオの音楽も聞こえないほどだ。 「じゃあ、窓閉めて話そうぜ。」 「久しぶりの運転だから、邪魔しないようにと思ったのに。」 「仕事で運転してるから、大丈夫だよ。」 「そうなんだ。私とは久しぶりよね。」 「前はいつ乗せたっけ?」 「去年の夏に高原行ったときかな。」 幸恵とは数えるほどしか遠出していない。 というよりデート自体が少ないのかも。 電話やメールが主だが、それも頻繁ではない。 それでも続いてるというのは、 心が繋がってるからだと信じてる。 「信吾こそ、黙ってるじゃない。」 「幸恵のダンマリがうつっちゃったよ。」 「もう、人のせいにして。」 軽く俺をたたいてから、寄りかかってきた。 それこそ運転の邪魔だぞ。 幸恵の頭が触れてる肩が気になって仕方ない。 「重いよ。」 「ひどいな。」と言いながら、 動こうとはしない。 このままどこまでも行きたいような気がする。 そんなこと思ってるうちに千倉の海岸に着いてしまった。 「わあ!懐かしい。」 幸恵が叫びながら、海に向かって走り出した。 「待てよ。」 幸恵は思ったより足が速い。 砂浜に足を取られて、思うように追いつけない。 「ここまでおいで」 からかうように振り向いて俺を手招きする。 「このやろう。」 俺が本気で走れば、幸恵なんて すぐに捕まえられるんだ。 距離がどんどん縮まって、 幸恵の腕をつかんだ。 「つかまえたぞ。」 電流が走ったように、幸恵がビクッとして立ち止まる。 俺は止まりきれずに、幸恵に体当たりしてしまった。 二人とも砂浜に倒れこんだが、 とっさに幸恵を腕でかばった。 「大丈夫か?」 返事がない。 幸恵の顔を覗き込むと、 両手で顔を覆っている。 「顔でも打ったのか?」 啜り泣きが聞こえてきた。 「そんなに痛いのか?」 「違う・・・」 やっと声が出た。 「じゃあ、どうしたんだ。」 「哀しかったの。」 「何が?」 「つかまれただけで、怖くなってしまう自分が。」 幸恵は今までも、そうだった。 何が原因か分からないが、 男性恐怖症というか、セックス恐怖症なのだ。 俺で慣れてきたとは思っていたが、まだ治らない。 頭ではわかってはいても、俺も男だから、 つい忘れて、触れたくなってしまう。 そのくせ、幸恵は自分から触れる分には大丈夫なのだ。 罪作りだよな。 誘ってるようにも感じるけど、ただ甘えてるだけらしい。 幼いにもほどがあるよな。 「カウンセラーなんだろ。原因は分からないのか?」 つい責めるような口調になってしまった。 「自分のカウンセリングは出来ないの。 やっぱりちゃんと受けたほうがいいかな。」 申しわけなさそうな声を出すから、 こっちまで情けなくなってしまう。 「受けてみろよ。原因を知るのが怖いんだったら、 対症療法だってあるんだろう?」 「行動療法はあるけど、やっぱり原因も知りたいな。」 「だったら、催眠療法でも受ければいいじゃないか。」 俺まで幸恵の勉強に付き合って、少し聞きかじっているのだ。 「そうだよね。こんなんじゃ信吾に申しわけないし、 結婚も出来ないよね。」 幸恵が落ち込んでる様子だから、 「結婚は出来ても、子供は出来ないよな。」 わざと冗談めかして言ってやると、 「もう、信吾ったら!」 と、やっと笑った。 幸恵に手を貸して起き上がらせると、 また逃げ出すように走り出した。 靴と靴下を脱いで、 海にさっさと入り始めた。 「冷たくないか?」 「大丈夫だよ。」 「俺も入るから待ってろよ。」 俺も靴と靴下を脱ぎ、 ズボンの裾をめくってから入ろうとすると、 幸恵がもっと深いところまで入ろうとしてるのが目に入った。 「危ない。戻れ。」 慌てて、幸恵のところまで走った。 また腕をつかんで引き戻したが、 今度はさすがに慣れたのか、 ビクッともしなかったが、 逆らいもしなかった。 ただ呆然としてるだけだ。 「幸恵、しっかりしろ。」 目が空ろで、遠くを見ている。 俺が目に入ってないようだ。 肩をつかんで揺さぶると、 夢の世界から戻ってきたようにハッとした。 「ごめんね。私どうしてた?」 「覚えてないのか?」 「なんとなく・・・。 海に入ろうとしたのまでは覚えてるんだけど。」 これは、セックス恐怖症より重症の病気かも。 「もう帰ろう。危ないよ。」 「嫌!せっかく信吾と海に来たのに。 帰りたくない。」 座り込んで泣きじゃくる。 子供みたいだ。 幸恵は躁鬱の気があるかなとは以前から思っていたが、 これは、解離性人格障害かもしれないな。 専門家ではないが、俺も「門前の小僧」だから。 でも、幸恵は自分のことを観察することが出来たはず。 なぜ、こんなになるまで放って置いたのだろう。 スクールカウンセラーとして、 女子高生の相談にのる立場なのに、 本当は自分こそカウンセリングを受ける必要がある。 勝手にアダルトチルドレンなどと自己判断して、 軽いものだと自分に思い込ませていたのか。 俺が連れていかなければ、幸恵は動けないのか。 泣きじゃくる幸恵を抱きかかえながら、 立ち上がらせた。 こういうときは拒否しないというのも不思議だ。 もちろん、こんな状態の幸恵に何かするつもりはないが。 「分かった。もう少し海風に当たったら、帰ろうな。」 幼女に言い含めるように優しくなだめると 素直にうなずいた。 やはり幸恵は幼いのかもしれない。 子供に戻ってしまってるようだ。 二人で黙って、砂浜に座り、海を見ていた。 幸恵は俺に寄りかかっていたが、 そのうち寝息が聞こえてきた。 疲れて眠ってしまったようだ。 抱き上げて運び、車の後部座席に寝かせた。 このまま、心療内科か精神科に連れて行こう。 うちに帰すだけでは不安だ。 第一、その家庭自体が原因なのだ。 そんな家に帰すわけにはいかない。 幸恵と俺が通った大学の付属病院なら、 幸恵の恩師がカウンセリングをしてくれるだろう。 でも、幸恵は自分の病気を知られたくないか。 どこへ行けばいいのだろう。 とりあえず、俺のうちに連れていって、 パソコンで病院を調べよう。 うちも危ないうちだけど、 今は幸恵の家よりましだろう。 父親は入院だし、母や姉も付き添いだ。 誰も居ないほうがいいというのも寂しいが。 幸恵が起きないうちに早く連れ帰ったほうがいい。 また海に行きたいと言わないうちに。 帰りは行きよりも、もっと飛ばした。 自分でも怖いくらいだ。 やっとうちにたどり着き、 幸恵を運び込んだ。 死んだように眠っている。 寝息を確かめたほどだ。 寝てる間に、パソコンで調べたが、 なかなかいい病院がない。 というより、どこがいいか分からないのだ。 通うことを考えれば、あまり遠くては時間がかかりすぎるし、 近所では人目も気になる。 まだまだ、精神科などは差別の目で見られるからな。 欝は心の風邪だというのに。 やはり、大学の付属病院が安心だな。 プライバシーは守ってくれるだろうから、 恩師以外ならいいかもしれない。 それとも恩師の方が安心なのかな。 幸恵に聞いてみないことには分からない。 起こそうかと振り向くと、いつの間にか 後ろに立ってるから、心臓が止まりそうになった。 「気がついたのか?」 平静を装いながら言った。 「私はなんでここに居るの? 海に行ったはずなのに。」 まだ、ボーっとしているようだ。 「幸恵が気分悪くなったから、連れてきたんだよ。 覚えてないのかい?」 「記憶が断片的でまとまらないの。 私どうかしちゃったのかな。」 不安そうに言う幸恵が「智恵子抄」の智恵子に重なる。 あんな風に狂わせたりはしない。 「疲れてるんだよ。少し休むといい。 そうしたら、病院に連れて行くよ。」 「うん。連れてって。」 やけに素直だけど分かってるんだろうか。 「付属病院でいいか?恩師は嫌か?」 「ううん。実は前からカウンセリング受けるように言われてたの。」 「じゃあ、なんで早く受けなかったんだ。」 ついムキになってしまった。 「だって、カウンセラー失格と言われそうだし、 原因は知りたいような知りたくないような感じだったから・・・」 「分かったよ。でも、もう限界だ。 受けたほうがいい。それは幸恵だって感じたんだろう。」 「うん。そうだね。信吾と一緒なら行ってもいい。」 すがるような目で見上げられると、切なくなる。 「これから行こう。でも、予約が必要なんだよな。」 「先生に電話してみる。時間外で診てくれるかもしれない。」 「そうだな。愛弟子だし。」 幸恵の恩師は穏やかな老紳士で、娘のように可愛がっていた。 幸恵の病理を知ってて、心配してたのだろう。 電話をかけると、早速来るように言われた。 付属病院に着くと、懐かしい匂いがした。 何度か院生の幸恵を迎えに来たものだ。 まさか患者として幸恵を連れてくるとは。 「待っていたよ。」 恩師は優しく迎えてくれた。 俺のことまで覚えていたらしく、 「久しぶりだね。君が付いててくれれば安心だ。」 そう言ってくれて、涙が出そうになった。 俺自身がどうしていいか分からず不安だったのだ。 「さあ、幸恵さん座って。君もあちらにどうぞ。」 付き添いのスペースなのか、部屋の隅にある椅子を指差した。 少し遠くから離れて見ているように言われた感じがした。 幸恵が不安そうに俺のほうを振り向いて見つめる。 「幸恵さん、大丈夫。彼は見守っててくれるからね。」 恩師がそう言うと、幸恵はやっと安心したように恩師を見た。 少し寂しいような気がしたが。 「今日はどうしたのかな? いつもカウンセリングの必要はありませんと言ってたのに。」 恩師の笑顔は、くしゃっとして可愛く感じるほどだ。 「すみません。」 幸恵が頭を下げた。 「謝ることはないんだよ。 カウンセリングは自分が必要だと思ったときだけ 受ければいいんだから。」 「今日はそう思ったんです。」 「そうなのか。どう思ったんだい?」 「記憶が飛んでるんです。 彼が一緒だったので、詳しいことは彼に聞いてください。」 「そうか。それは不安になっただろうね。 でも、彼に頼るだけでなく、 覚えてるところだけでもいいから、話して欲しいな。」 「そうですね。彼と海に行って、入ったまでは覚えてるんです。 でも、彼に引き戻されて危ないと言われたけど、 そんなに深くまで入った覚えはなかったんです。」 「海に入るまでは覚えてるんだね。 では、君に聞くけど、我に帰るまでどれぐらい時間が経ってたかい?」 急に俺に振られて焦ってしまった。 「正確にはわからないけど、 俺が靴や靴下を脱ぎ、ズボンの裾を上げて入ろうとしたときには、 もう深いところまで行こうとしていて、 慌てて引き戻そうとしたから、 それほど時間は経ってないと思います。 せいぜい5分くらいかな。」 俺も支離滅裂だな。 「そうですか。大して時間は経ってないのですね。」 「でも、俺が視界に入ってないような、空ろな目をしてました。」 病状を軽く受け取られては困るとばかり、 つい声が大きくなってしまった。 「時間はそれほど問題ではありません。」 俺を諭すように恩師は言った。 「こんな経験は、以前にもありましたか?」 「ここまでひどいのは初めてだけど、 なんとなく私だけ別世界にいるような気がするときはありました。」 幸恵が夢の世界に行ってるときだな。 「どんなときですか?」 「集団の中で、孤独を感じたり、 付いていけないと劣等感を感じたりするときです。」 「子供の頃からですか?」 「小さい頃はよく覚えていないのです。 ただ、父も母も嫌いで、近寄りたくないと思ってました。 だから、そばに来られると、自分はここに居ないと思ってた。」 「そうですか。そんなに嫌いだったのですか?」 「大嫌い!」 急に子供のような声で叫んだ。 自分でも驚いたようだ。 俺も驚いたが、恩師だけは顔色も変えず、 「そうですか。大嫌いなのですね。」 と穏やかに繰り返すだけだったが、 幸恵もその対応にホッとしたようだ。 「嫌いなの。二人とも大っ嫌い。」 また子供のようなしゃべり方をする。 「お父さんもお母さんも嫌いなのですね。」 「お父さんは、うちに帰ってこないで、 他の人に子供を生ませるし、 お母さんも私を放っておいて、 遊んでばかりいる。 私はお手伝いさんとお留守番ばかり。」 「それは寂しかったでしょうね。」 「寂しくなんかないよ。あんな人たち居ない方がいいもの。」 「そうですか。お手伝いさんはいい人だったのですね。」 「いい人も居たけど、嫌な人も居た。 お母さんがきついから、長く続かないの。」 「そうですか。それでは、お手伝いさんに懐く暇もなかったのですね。」 「そういえば一人だけ、お母さんの嫌味も我慢して、 私のそばに居てくれてた人が居たけど、 おばあちゃんだったから病気で死んじゃったんだ。」 思い出したのか、涙声になっている。 「それは哀しかったですね。 哀しかったら、泣いてもいいんですよ。」 「おばあちゃーん!」 幸恵はまた幼女のように泣き出した。 俺は駆け寄ろうとしたが、 恩師に目で止められた。 恩師は肩に手を置いて、 幸恵が拒否しないのを確かめてから、 背中をさすり始めた。 恩師は男性恐怖症を知っていて、 なおかつ対象から除外された人物なのだ。 それは俺だけだと思っていたのに。 少し焼餅を焼いてしまった。 それとも、こういう精神状態のときは、 拒否しないのだろうか。 そんなことを考えてるうちに、 やっと幸恵の泣き声が収まってきた。 「もう大丈夫ですか?おばあちゃんが好きだったんですね。」 「うん。おばあちゃんが死ぬときに逢いたかったの。 でも、お父さんもお母さんも病院に連れて行ってくれなかった。 死んだって後から聞いて、泣きたかったけど、泣けなかったの。 見なかったから信じられなかったし、お父さんやお母さんの前で 泣き顔は見せたくなかった。悔しいから。」 「そうだったんですか。 じゃあ、今初めておばあちゃんのために泣いたのですか?」 「そうかもしれない。先生に言われるまで、 おばあちゃんのことは忘れてたの。 あんなに好きだったのに。どうしてかしら?」 「おばあちゃんが死んでしまったことを 思い出したくなかったのでしょうね。」 「本当のおばあちゃんは、 私が生まれる前に、二人とも死んじゃってたから、 その人のことを、おばあちゃんと呼ばせてもらって嬉しかったんだ。 本当のおじいちゃんは、厳しい人で嫌いだったし。」 先代の社長のことか。 「そうですか。本当のおばあちゃんのように思ってたんですね。」 「優しい人で、寝る前は必ず絵本を読んでくれたんだよ。 私が眠るまでそばに居てくれた。 朝早くから夜遅くまで働いてたから、 病気になっちゃんだよね。私のせいだ。」 また泣きそうになる。 「幸恵さんのせいではありませんよ。 おばあちゃんは幸恵さんが可愛いから、 長い時間そばに居てくれたんでしょうが、 お年だったから、病気も仕方ないですよ。」 「私のせいじゃないの?」 「たとえそうだとしても、 おばあちゃんは本望だったと思いますよ。」 「おばあちゃんは幸せだったのかな?」 「幸恵さんのそばに居られて幸せだったでしょうね。」 「そうだといいんだけど。 うるさいお母さんにいじめられて、可哀想だったんだ。 お母さんは何にもしないくせに、 おばあちゃんは仕事が鈍いとか文句ばっかり言うの。 私がそんなことないって言うと、 しつけもなってないと、またおばあちゃんが怒られる。 だから黙って見てるしかなかったの。 そういえば、その時も私はここに居ないほうがいいと思ってた。 どうせ何も出来ないのだから、居ないのとおんなじだって。」 「そうですか。居ないのと同じと思ったのですか?」 「お母さんに怒られてるおばあちゃんのそばにいる私は 本当の私じゃないと思いたかった。 おばあちゃんに絵本を読んでもらってる私が 本当の私なんだって、思い込もうとしてた。」 「おばあちゃんを通して、間接的に虐待されてた感じでしょうか。」 「私だってお母さんにいじめられたよ。」 「いじめられたの? どんなふうに?」 「お母さん、お腹とか背中とか見えないところをつねるんだ。」 顔とか腕とか目立つところは絶対やらない。」 「どんなときに?」 「たとえば、お呼ばれの時、お菓子を出されて食べようとすると、 後ろから背中をつねるんだ。食べるなって。」 「それでどうするの?」 「仕方ないから、お腹一杯って言って、食べない。」 「痛かっただろうね。他には?」 「ピアノの練習のとき、手が平たくなってるからと、 手の下に針を持ってきて、刺さらないように丸くしなさいと お母さんに言われた。」 「刺されたの?」 「刺されはしなかったけど、怖くて、 それからピアノの前に座るとお腹が痛くなった。」 「それは怖かったでしょうね。」 童女に帰ったように、次々と思い出を話し始めた。 幸恵は長い間ピアノを習っていたのに、 弾きたがらないのはこういうわけだったのか。 「そうですか。お母さんが嫌いなのは分かったけど、 お父さんはなんで嫌いなのかな?」 「別な女の人のところに行っちゃったから。」 「でも、幸恵さんには優しかったんじゃないの?」 「優しかったけど、なんか怖かった。」 母のときより、怯えているようだ。 やはり何かあるのだろうか。 「今日はこれくらいにしましょうか。」 恩師が言うと、幸恵はホッとしたように笑った。 やっと俺のほうを見て、手を振った。 「今度からは一人でカウンセリング受けましょうね。」 「え? 信吾も一緒じゃダメですか?」 「今日は特別許したのです。本当は一人なのですよ。 幸恵さんはご存知のはずでしょ。」 「分かってるけど、信吾が一緒じゃないと不安・・・。」 「じゃあ、廊下で待っててもらいましょう。 そうすれば、幸恵さんの声も聞こえるし、お互い安心でしょう?」 恩師は俺と幸恵の二人を交互に見ながら言った。 「はい。そうさせてください。」 俺がはっきり答えると、 幸恵は諦めたように 「うん。」とうなずいた。 とにかくお母さんの虐待や、 おばあちゃんと呼ぶお手伝いさんとの死別が、 幸恵の病気の一因だと分かっただけよかった。 まだ隠されてるような気もするが。 幸恵が子供帰りしてしまうのは不思議だ。 催眠術をかけてるわけでもないのに。 そんな話術があるのだろうか。 「ありがとうございました。 またよろしくお願いします。」 保護者のように、頼んでしまった。 まだボーっとしてる幸恵の頭を下げさせて、 一緒にカウンセリングルームを出た。 とりあえず、これで少しは大丈夫になったかな。 「信吾、私いろいろ思い出したけど、 今まで忘れてたことばかりなの。 何で思い出せたか不思議だよね。」 「さすが幸恵の恩師だよな。」 「そうだね。私もあんなカウンセラーになりたいな。」 「まずは自分の病気を治さないとな。」 「そうだよね。」 笑った顔はいつもの幸恵だった。 俺もこれで安心して幸恵を送り届けられると思ったが、 あんな話を聞いた後だからこそ、 恐怖の屋敷に帰したくないと思ってしまった。 かといって、このままうちに連れ帰るわけにもいかない。 「幸恵、これからどうする?」 「どうするって、もう帰らないと。 明日は仕事だからね。」 「仕事は休んだほうがいいんじゃないか?」 「そういうわけにはいかないよ。 それにもう大丈夫。恩師のお陰で気分も良くなった。 カウンセリングの技術もついでに盗んじゃった。」 「本当に大丈夫か?」 「大丈夫だって。信吾ったら心配症なんだから。」 「じゃあ、何かあったら、俺に連絡しろよ。」 「ありがとう。大丈夫だよ。」 急に元気になり過ぎて、かえって心配だった。 その心配が的中するとは・・・。 次の日、仕事中にプライベート用の携帯が鳴った。 いつもはマナーモードか、電源を切っておくのだが、 幸恵が心配で、オンにしておいたのだ。 案の定、幸恵からだ。 「どうした?」 「何でもないんだけど・・・」 でも、不安そうな声だ。 「今、どこだ?」 「学校の相談室だけど、 なんか別のところに居るみたいな感じなの。」 離人症の始まりか。 「これから商談があるから、すぐには行けないんだ。 先生にも連絡してみたらどうだ?」 「さっきしたけど、授業中だって。」 俺より先に恩師に電話したのか。 悔しいけど、そっちの方が頼りにはなるかも。 「そうか。商談が終わったら、すぐ行くから。 そこで待ってろよ。」 「うん。待ってる。」 また童女のような話しかた。 不安がかすめるが、仕方ない。 早く商談をまとめよう。 まだ時間前だったが、早めに始めてもらった。 俺が勢い込んで説明するものだから、 圧倒されてしまったのか、思いのほか早く決まった。 怪我の功名かも。 早く幸恵のところに行かなければ。 学校にタクシーで駆けつけて、相談室に行ってみたが、 なぜか幸恵はいない。 職員室で教師に聞いてみても、所在が分からない。 仕方なく、相談室に戻って、 たむろしていた女子高生に聞いてみた。 「そういえば、さっき外に出てったみたいだよ。」 「なんで早くそれを言ってくれないんだ。」 「そんなこと聞かなかったじゃないか。」 まったく、いまどきの女子高生は、と思ったが、 確かに、幸恵が居ないのに気が動転して、 何も聞かずに飛び出していってしまったのだ。 「いつごろ出てったんだ?」 「あんたが来るちょっと前だよ。 逃げられたんじゃないの?」 ケラケラ笑う声が小憎らしい。 「ありがとう。もし帰ってきたら、 信吾の携帯に電話するよう伝えてくれないか。」 「ふーん。先生の彼氏、信吾って言うんだって。」 面白そうに他の子達に言っている。 本当に伝えてくれるのだろうか。 手帳にメモ書きして破り、机に貼った。 「あたし達を信用してないね。」 急に顔色が変わった。 かえって反感を買ったようだ。 「悪い。君たちもずっとここに居るわけにはいかないだろう。 もし会ったらでいいから。」 と言い訳しながら、幸恵を追った。 どっちへ行ったのか、見当もつかない。 恩師のところにも電話をかけてみる。 まだ授業中だ。 幸恵や俺の自宅にもかけてみた。 もしかしたら、千倉の海? そんなわけはないよな。 記憶を失ったようなところには戻りたくないはず。 でも、万が一を考え、レンタカーを借り、 千倉まで飛ばしてしまった。 ここしか思いつかなかったのだ。 やっと着いたときは、もう夕暮れだった。 砂浜で貝殻を拾ってるような女性のシルエット。 顔は見えないけど、あれは幸恵だ。 「幸恵ー!」 呼んでも答えない。 そばに行って見ると、やっぱり幸恵だ。 「幸恵。どうしたんだ?」 返事をしないので、後ろから肩に手を触れると 幸恵は優しく手をつかみ、 ゆっくりとおろして離した。 やけに色っぽいしぐさだ。 振り向いた顔は確かに幸恵だが、 微妙に違うような気がする。 「私は幸恵ではありません。 人違いではないですか?」 優雅に微笑むと、さっと通り過ぎようとした。 思わず腕をつかんで 「俺だよ。信吾だよ。 分からないのか?」 「ごめんなさい。 そういうお知り合いは居ないのです。 離していただけますか?」 また腕を振りほどかれてしまった。 でも、その身のこなしは上品で、 拒否してるという感じは与えない。 「すみません。俺の恋人に似てたもので。 あなたのお名前はなんと言うのですか?」 「名乗るほどの者ではありませんわ。」 「そこをなんとか。」 「新手のナンパですの?」 「違います。」 きっぱり言ってしまった。 「まあ。面白い方。」 ホッホと笑いながら、 「私は白鳥優美と申します。 優美と書いてユミと読むのです。」 「俺は堂本信吾です。 吾を信じると書きます。」 「すごい名前ですのね。 本当に自分を信じていらっしゃるの?」 「自分に嘘をつかないという意味では信じてます。」 「素敵ね。あなたの恋人は幸せ者ですわね。」 「その恋人が行方不明になってしまったのです。」 「私に似てるという恋人ですか?」 「そうです。そっくりなのです。」 「まあ、光栄ですわ。」 「ここは二人の思い出の場所なので、 もしかしたらと思ってきたのですが、 似た女性を見かけませんでしたか?」 たぶん幸恵が解離性遁走で、 この人格になってしまったのだとは思っていたが、 幸恵から離れないためにも、話を続けたかった。 「お見かけしませんでしたけど。」 「そうですか。では、お侘びに もし良ければ、お宅まで送りしますよ。」 「やっぱりナンパではありませんの。 私はそんな軽い女ではありませんわ。」 「失礼しました。それでは、 一緒に貝殻を拾わせていただけませんか。」 「桜貝を探してるのですけど、暗くなってきて 見えなくなってしまったのです。 もう帰りますので、結構ですわ。」 「それなら送らせてください。」 「しつこい人は嫌いです。 恋人を探しているのでしょう? 早く探しに行ったらいかがですか?」 結構気の強い性格らしい。 「分かりました。 じゃあ、もし見かけたら、 この番号にかけてもらえませんか?」 携帯の番号をメモ書きして渡す。 「警察に届けたほうが早いのでは?」 「これから届けます。」 「そうですか。それでは見つかることをお祈りしてますわ。 お気をつけて。」 幸恵はどこに帰るつもりか、去っていってしまった。 逆方向に行くと見せかけて、 離れてから、そっと後を付けた。 続き |