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カテゴリ:うちの一族
うちの始まりは、東春日井郡史、愛別町史、存命の方の聞き取りなどを総合して判断すると、明治31(1898)年の愛別村への入植第2陣に東春日井郡から参加しともに入植したと思われます。その頃の、東春日井郡周辺は、地震と水害でかなり被害を受けていたらしく、現在の石狩市や八雲町に東春日井郡、西春日井郡、丹羽郡の三郡合同での入植が相次いでいたようです。 年齢上の筆頭は、重兵衛という人で東春日井郡のどこか(厳密な住所確定は未だ出来ず)に居を構えていた彦左衛門という方の4男です。春日井出立時にその長子の和三郎に家督を相続し、到着後間もなくに、重兵衛の5男の甚市(当時13歳)を分家させ重兵衛自身はその甚市の籍の中に入っております。 ところが、納税者を軸とした当時の中愛別の戸籍情報には、和三郎のみが出ていて肝心の甚市(当然、隠居扱いの重兵衛も)は出てきません。どうも、存命の正義さん(写真の馬上の方)の話だと、分家した後も、重兵衛他は和三郎宅に同居していたようです。ただ、甚市の弟に当たる方が先に納税者リストに顔を出した所を見ると、他の事情もあったのではないかと思われます。 で、大正5年に写真のお店「舟橋商店」を中愛別地区の国道沿いに出店します。このときに、甚市(当時29歳)は和三郎の家を出て、独立したと思われます。そういう意味では、北海道の僕の祖先の立てた初めてのうちです。 この後、大正11年(1922年)に石北本線の旭川愛別間、翌12年(1923)に愛別上川間が開通し、昭和7年(1932)には旭川~網走間が全線開通し、人の流れが国道から鉄路に移る中で、業績が悪化し、店を手放し、旭川の中心部に出てきたそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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