カテゴリ:うちの一族
ソースは祖母(舟橋ヨシ)が生前、私の父の進めるがままに、テープレコーダーに記録したものです。編集とテープ起こし作業の都合上、何度かに分けてアップします。ちなみに、当時中学生か高校生くらいで、テープ係で立ち会ったことを覚えています。
父は、録音まで、僕が幼少のときの面白い一家の一コマを録音したりもしていますが、それの公表は、自分の孫がじいちゃんってどんな奴って気になったときに引っ張り出してもらうことにします。 内容的には、ほぼノーカットで、意味不明箇所を適当に丸めたものです。あくまで自分の記録用ですので、真偽の程は保障しません。 ■鷹栖にきて、小学校卒業まで  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 私5年生だったんだね。 5年生の五月ごろにね、鷹栖のね27線の12号ってところに引っ越していったんだ。 それから、2年間学校って行ったら小さい文教所でね。そこ一里もあるところ通ってさ。山坂越して、冬だったら帰りは、それこそ、焼酎もって帰らんきゃいかんならんちゅうところでね。 鷹栖の2線9号から。鷹栖の27線12号って山の山の奥に引っ越したの。寺原牧場って牧場だったんだわ。それも大きなのね。そこに引っ越してさ。 東京のおじさんが山をやるために、山の監督にじいさん(祖母の父)を使おうと思って、そして、そこ行ったらしいんだ。私らわからんけど、後で聞いたらね。 そこで、ま、2年間、それこそ学校、5、60人もおったかねぇ。生徒が。一人の先生でね、みんな受け持つ先生だったのさ。 そして、今度は6年になってから一人、若い先生来たんだ。ほんで、少しづつ人数が少なくて教えてもらってね、そこで卒業したんだわ。6年ね。 ■当麻へ、当麻につくまであれこれ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 6年卒業してからね、今度は4月ぐらいかな。当麻に来たの。当麻の7線っていってたのかねぇ。あの山の奥。あそこへ引っ越してきたんだ。みんなほかの人は前の日に、引っ越して当麻いったんだ。そして私だけ寺原に残ってね、旭川に残ってさ。荷物があるからそれもって、後から行くっていうので、旭川で、その東京のおじさんが汽車乗せてくれたわけさ。 永山までしか汽車無かったときだから、それでも、汽車乗せてくれたわけさ。そしたら、その、当麻から永山へ客車が、客車でもって迎えに来る車があるのさね。それが12時の汽車じゃなかったら来ないのに、東京のおじさんが間違って早い汽車に乗せてくれたわけさ。そしたら、降りたところ誰も来てない訳さね。ぜんぜんしらんでしょ。 それからもう、どっかのおばさんに頼って。で、Aさんを覚えていたんだね。ウエンベツのAさんちゅうことを。そしたら、そのおばさんが「私そっちのほう行くんだから、知ってるから連れて行ってあげるよ」っていってね。そのおばさんにつれてもらって、ウエンベツまで来たんだわ、荷物もってね。 良くあの荷物みんな持ってきたっていって。鍬だかなんだか持たしてもらっとるんだね。なおしたのをね。ウエンベツへ来て、そして、ウエンベツ泊まって、おばさんところ教えてもらって、そこへ泊まって。そして、それから今度は、向こうに知らせるかなんかしたんでしょ、あのころ電話があったかなんだか。 そんで一日か二日してから迎えに来てくれたんだ。当麻から。そして当麻いったわけさ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 31, 2008 07:12:23 PM
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