2005/11/15(火)04:46
鳥取物語 番外編 あったること 第二節●妖狐三話●
クリームパン
あれはちょうど二年前の秋の日のこと、みくまりの婆が中学三年生になるみくまりの姉を連れて、きのこを採りにたいこうがなるに入った。
ほどなくしてきのこは大量に採れたが、いつもよりようけ歩いたので腹がぺこぺこになってしまった。
やにわに孫娘がクリームパンを食べたいと言いだした。それには婆も同感だった。しかし、こんな山の中に店屋があるわけでもないので、それでもまぁ少し休むかとそこらに腰掛けようとして、ひょいと後ろを見たら、木の切り株の上に今作ったようなちゃんと手の形をしたパンがある。狐に化かされたか、と匂いをかいでもいい匂いである。
婆は孫娘とふたりしてそれを食べてしまった。クリームが飛び出して、それはおいしい本物のクリームパンであった。
妖狐
こちらは本当に狐に化かされた人の話。
ある日いはれ(芳子)のお姉は、隣集落の知り合いに重箱を届けるように言いつけられた。一本道の途中で気がつくと、後から狐がついてくる。
あ、と思って振り返ってみると、すぐに木の影に隠れて、歩きだすとまたついてくる。恐くなってせっせと歩いていると、勢いあまって靴が片方すっぽ抜けてしまった。大慌てで重箱を置き、靴を取りにとって返した。もちろん、重箱には何者も近寄るすきはなかった。
さて靴をはきなおして見回すと、もう狐の姿はなかった。
その後知人の家に着いてみて、届けたご馳走のなかで、油揚げを使ったおかずだけがきれいに消えていることに気がついた。
──あれだけは腑に落ちん。あれだけは説明がつかんっちゃ。
小夜のあったること
小夜も妖狐と思しき何者かと行き会ったことがある。
ある日の夕暮れ時、小夜はひとりで家路を急いでいた。すると、向こうから何人かの人が縦一列に並んでこちらに向かって歩いてくる。そして、小夜は通りすがろうとして驚いた。
彼らは、皆同じ顔をしていたのである。
大人の身体をしたひとりを先頭に、子供がふたり、最後にもうひとりの大人の女の形をした者が歩いているのだが、まるで判で押したように四人ともが同じ吊り目の顔をしているのだ。
この四人は小夜には目もくれず、前方を凝視したままその脇を通り過ぎていった。明らかに異様な様子に、小夜はぞっと身の毛を逆立て、恐怖心にべそをかきながら家まで走って帰りついた。
家に帰った後、隣村の民家で火事があったことを夕飯時の最新ニュースで見聞きした。
それは、小夜があのおかしな風体の家族と行き合ったちょうどその時刻に出火したものであるらしかった。しかも、彼女が行き合ったとき、彼らが目指していた方向は、まさに出火のあった集落へとまっすぐに延びる道の上であったのだった。
そこまではなんの連鎖もない話であるのだが、次の瞬間、小夜の瞳が凍りついた。
地方版のニュースによると、なんでも出火のあった屋敷はお稲荷さんを篤く信仰している家で、庭には小さな祠が祀ってあるという。
出火が小さくて済んだのは、お稲荷さんへの信心のおかげだとその家の主人は確たる証拠を見せた。
主人の示した先には炎に焼けた戸板があったのだが、そこにはくっきりと狐の顔が四つ、浮き出ていたのである。
そしてそれは──小夜がさきほど行き合った四人の顔とそっくり同じであった。
本日の日記---------------------------------------------------------
こわ~。
と思っているのは私だけ?!
いや、実際に体験してみなんせ。
誰でもが思い出しては凍るわして。
【偽汽車】
現代の民話を集めるなかで、「子育て幽霊」と同じくらいに忘れ難いのが「偽汽車」という名でくくられる話です。これも狐にまつわるお話です。
安畑から八重原のあたり、一面のぼうぼうたる原野で榎峠といった。そこに玄蕃丞(げんばのじょう)というたいした狐がいた。手下には四天王といわれる狐がいて田川のおきよは芝居が得手、猫塚の孫左衛門は説教が好きと、それぞれ得意の化けを駆使していた。
ところがこの榎峠にも汽車が走ることになった。驚いたのは狐どもで、初めて汽車を見て、いつも仲たがいしている箭渓に棲む狐一族が化けたと思い込む。なかでも玄蕃丞はまけておれぬと汽車に化けて汽車に戦いを挑み、人の運転手を悩ましていた。
夜になるとこう、単線だというのに向こう側から汽笛を鳴らして汽車がやってくる。はじめのうちは機関士も衝突しちゃかなわないからそのたびに停まっては様子を見ていた。ところが、いっこうに汽車はやってこない。単線だったのだから向こうからむやみに汽車がやってくるわけはない。
これはおかしいというわけで、ある日の夜、いつものように汽笛が聞こえてきたが、かまうものかとスピードを出して突っ切ってしまった。正面衝突かと思われたが、それからも何事もなく汽車は走っていた。
一夜明けて、榎峠あたりの線路のところに、大狐がついに轢き殺されていたという。
古来、狐は音真似が得意とされていました。
木を伐る音、雨の音、機(はた)の音、花火、寺の鐘、面白いのは発動機の音まで真似をしています。
夜山のなかで、まくら木をひく移動製材の発動機の音がポンポンポンポンしたりする。昭和40年頃、綾一郎の祖父にあたる人が鳥を取る鳥屋を山の中に立てて泊り込んでいた。ひとり泊まっていると毎晩夜半にきまって木を伐る音がする。外に出てみるとぴたりと止む。呪方に話すと、「それは狐だ。鳥屋を山に立てると木を伐ったり整地をするので抗議にきたのだっちゃ」。
このほか子供の泣き声、三味線やらお囃子やら、芝居の真似、また葬式があるとその夜にすぐ葬式ごっこをやり、婚礼の真似もします。狸もまた同じような化け方をします。
電車に狸が飛び込んだ、高速道路で狸が轢かれて死んでいた──などの話を聞くと、「ああ、それは汽車や車に狸が挑んだのだろうな」などと私は思うのです。
「偽汽車」には、このようにもうひとつの側面があることが考えられるのです。この話は、日本人の心にひそむ民俗の深層から生まれ育っていったものなのだと。
つまり、開発に対する自然界の怒りのひとつとしての語りであることを、私たちは忘れてはならないのだと思います。
例をあげると、先ほどの榎峠の近くにある駟馳山(しちやま)峠にあるトンネルを掘るときは大変な難工事で、古い池を埋めるときにもいくら工事をしても埋まらず、さまざまの怪異があり、開通後は偽汽車も現われ、「これは狐のたたりだ」という声があがりました。そこである人が伏見稲荷に参詣、死んだ狐のために正一位の位をもらってきて、駟馳山トンネルの上にお稲荷さんの祠を建てて霊をなぐさめたといいます。
このように、偽汽車の話には、環境破壊への精霊の怒りと、その怒りを鎮めるために神社が建立され、本当にたたりがおさまったという、日本人の心象風景として収まるべきところに収まったと感じられるような話の流れが見られるのです。
皆さまは、実際に狐に出くわしたことがありますか?
それはそれは気味の悪い生きものですよ。
まず、走る姿態がいけない。背中を丸めて、ちょうどUの字の逆さになったようになって、くにゃりくにゃりと動物なのにまるで尺取虫のように動くのです。
それから、声。
人の耳をして、なんとも警戒心を抱かせるあの「けーん」という鋭い啼き声は、昔ならばなおさら人々の想像をいくらでもかき立てたことでしょう。
明日は●病気を持っていく●です。
呪師という役割の、さまざまな側面が垣間見えるお話です。
医療とは、とりもなおさずこういうことなのかも。
タイムスリップして、この番外編のタイトル「あったること」の真意を、目の当たりにしにきなんせ。
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