オスカー・ワイルド『幸福の王子』(バジリコ、曾野綾子訳)
オスカー・ワイルド『幸福の王子』(バジリコ、曾野綾子訳)現在だからこそ、多くの人に読んでもらいたい不朽の名作。王子とつばめが紡ぐ愛と自己犠牲の物語。曽野綾子、入魂の新訳でお贈りする決定版。(「BOOK」データベースより)◎曾野綾子の訳オスカー・ワイルド『幸福の王子』(バジリコ、曾野綾子訳)が出たので、『幸福な王子』(新潮文庫、西村孝次訳)から紹介作を切り替えます。私は本作をkindle(結城浩訳)でも読んでいます。3つの訳文に大きな違いはありません。しかし大好きな作品を曾野綾子が手がけてくれたことに、感激させられました。曾野綾子訳を読み、巻末の「あとがき」を読んだとき、私は思わず最後のページに戻らざるをえませんでした。曾野綾子は「ただ一行だけ私が意図的に変えたところがある」と書いていたのです。その文章について、他の訳文とのちがいを、のちほど比較してみます。写真はバジリコ版の挿絵(建石修志)です。 ざっとストーリーを、追っておきたいと思います。町に金色に輝く幸福の王子の像があります。身体は金箔にまとわれ、両眼にはサファイアがはめこまれています。剣にはルビーが光っています。その王子の像に一羽のツバメが、羽を休めるためにとまります。王子はツバメに、協力を要請します。町に困っている人がいるので、自分の眼のサフィアを届けてあげてもらいたい。仲間のツバメたちは群れて、エジプトへ向かっています。ツバメは一回だけの条件で、王子の要請に応えます。しかし王子は次の日も、そしてその次の日も、ツバメに自分の身体をまとっているルビーや金箔を、貧しい人に届けるようにお願いします。こうして王子の像からは、一切の宝飾類がなくなりました。王子は鉛の心臓だけを残して、崩壊してしまいます。王子のやさしい気持ちを支えた、ツバミも死んでしまいます。銅像の台座のところには、王子の鉛の心臓と一羽のツバメの死骸が残っています。そんなときに、神さまが天使に次のように命じます。――神さまが天使たちの一人に「町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい」とおっしゃいました。 その天使は、神さまのところに鉛の心臓と死んだ鳥の亡骸を持ってきました。(結城浩訳)その場面は、本書のラストのページになります。次項で3つの訳文を比較してみます。◎神とともにいる3つの訳文のラストを並べてみます。引用文の前提は、次のとおりです。【kindle(結城浩訳)】――神さまは「よく選んできた」とおっしゃいました。 「天国の庭園でこの小さな鳥は永遠に歌い、 黄金の都でこの幸福の王子は私を賛美するだろう」【新潮文庫(西村孝次訳)】――「おまえの選択は正しかった」と神さまは言われました。「天国のわたしの庭で、この小鳥が永遠に歌いつづけるようにし、わたしの黄金の町で幸福な王子が私を賞(ほ)めたたえるようにするつもりだから。【バジリコ(曾野綾子訳)】――「お前はいいものを選んだ。私の天国の庭では、このつばめは永遠に歌い続けるだろうし、私の黄金の町で『幸福の王子』は、ずっと私と共にいるだろう。「神とともにいる」。曾野綾子のこだわりは、この一語にあります。聖書の世界はよく知りませんが、他訳の「神をほめる」は、「神と共に生きる」という前提で成り立っています。そこで曾野は、わかりやすく大前提の「ともにいる」を選んだわけです。素敵なわかりやすい選択だったと感心しました。◎「幸福な」と「幸福の」と2つのタイトル大人向け『The Happy Prince』(原書名)には、2つタイトルが存在しています。私は『幸福の王子』の方がふさわしいと考えています。「幸福な王子」の方は、銅像になるまえに市民から呼ばれていた尊称です。王子は「無憂宮」といわれる貧しさや悲しみとは無縁の天国のようなところに住んでいました。王子自身も自分は幸福だと思っています。「幸福な王子」は、そんな背景から用いられているタイトルです。しかし物語は、幸福を提供する銅像である王子が描かれています。それゆえ、「幸福の王子」の方が、物語に適していると思います。王子は銅像になって初めて、人々の貧しい生活を知ります。◎少年少女小説の第14位文春文庫ビジュアル版『少年少女小説ベスト100』で、本書は第14位に選ばれています。今なお根強い支持がある作品なのです。同書のなかで、ワイルド自身が『幸福の王子』について語った言葉が紹介されています。――ワイルドの童話は息子のために書かれたものが基になっている。(中略)半ば子供のため、半ばは子供のように驚いたり喜んだりする能力を失っていない大人のために、書いたという。(『少年少女小説ベスト100』文春文庫ビジュアル版P135)ラストの方では、すっかり変わり果てた王子の像を見て、市長や市議が新たな像を建てる相談をする場面があります。――市長が言うには、「もちろん、新しい像を作らなきゃならないが、それだったら私の像がいいと思うが」「いや、私のがいいですぞ」と市会議員たちが口々に言い、喧嘩が始まった。(本文P42-43)この箇所に着目した小川洋子は、次のように書いています。子どものときは気づかなかったが、大人になって再読して感じたとのことです。――高貴な心を持った王子とは対照的な、世俗にとらわれた人々。こういった描写に思わずニヤリとしてしまう感覚は、子どもの頃はなかったものでした。(小川洋子『みんなの図書室2』PHP文庫P175)子どもの本だとすませないで、ぜひ大人の感覚で堪能していただきたいと思います。山本藤光2017.11.30