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2017/10/09(月)03:50

石川淳『紫苑物語』(講談社文芸文庫)

国内「い」の著者(28)

優美かつ艶やかな文体と、爽やかで強靭きわまる精神。昭和30年代初頭の日本現代文学に鮮烈な光芒を放つ真の意味での現代文学の巨匠・石川淳の中期代表作―。華麗な〈精真の運動〉と想像力の飛翔。芸術選奨受賞作「紫苑物語」及び「八幡縁起」「修羅」を収録。(「BOOK」データベースより) ■石川淳『紫苑物語』(講談社文芸文庫) ◎極上の名文  名文家といわれる作家は、たくさんいます。そのなかでも石川淳は、ぬきんでています。三島由紀夫が硬質の金属的な文章だとしたら、石川淳は庶民的な川の流れに似ています。大江健三郎も一文は長いのですが、石川淳はその比ではありません。  石川淳の文章に最初に接したのは、安部公房『壁』(新潮文庫)によせた「序文」ででした。息つくひまもないほどに、たたみかけてくる文章にオーラを見ました。卒論を「安部公房」としたため、影響を受けた作家の作品もずいぶん読みました。カフカ、リルケ、石川淳、花田清輝などです。 『壁』の序文に魅せられて、石川淳の芥川賞受賞作『普賢』(集英社文庫、現・講談社文芸文庫)をいちばんに読みました。重厚でいて、流れるようなリズムに鷲づかみされました。特別サービスで、一文を紹介しましょう。楽しめるでしょうか? こうした文章は、よほど博学でなければ書けません。正直にいうと、大学時代はかなり背伸びして、石川淳を読んでいたように思います。 (引用はじめ)  あくる朝、正午近く眼をさますと……だが、わたしにとって朝眼をさますということほど不思議な事件はないのだ。わたしは床の中でまたも日の光の下によみがえったわが手足を撫でながら、ああまだこのからだは生きているのかと、あたかも自分ではない微生物を指先につまみ上げて見るごとく、いましがた浮き出たばかりの仮睡の世界、夢と現(うつつ)のあわいの帷(とばり)を愛惜しつつ、数本の煙草を茫漠とくゆらすのであるが、これはわたしの一日のうちもっとも精彩ある時間で、たとえば太陽伝説についていうと心ひかれるのは太陽そのものよりも太陽の生殺を支配する朝焼け夕焼けの光であり、その明暗の中にわが身を浸して濛濛たる大病人の意識にふわりとくるまっているときにこそわたしは初めてたましいの秘密に参じえたような料簡になって、禅家のいわゆる透関の眼とは決してからりと晴れた青空を仰ぐようなばかばかしいものではなく、こうして世ならぬ霧の香をかぎあてた一瞬の妙機をさすのではあるまいかと独り合点をする始末で、人間の悟りがはたしてこの道のかなたにあるとすればそれは途方もない憂鬱の行き止りであろう。(引用おわり。石川淳『普賢』第8章冒頭の文より) 『紫苑物語』(講談社文芸文庫)には、表題作をふくめて3つの短編が所収されています。『普賢/佳人』(講談社文芸文庫)も捨てがたいのですが、いちばん好きなのは「紫苑物語」です。  主人公の守(宗頼)は勅撰集の選者である父をもつ、先祖代々の歌の家に生まれました。幼いころから、歌の才能はゆたかでした。ある日父の添削をみて逆上し、主人公は朱筆を父の顔面に投げつけて、歌の道をやめてしまいます。  主人公・宗頼には、弓に秀でた伯父(弓麻呂)がいます。叔父は父の兄ですが、身分の低い異腹の子でした。宗頼は無頼漢の弓麻呂の指導で、たちまち弓の道でも才能を発揮するようになります。  14歳のとき宗頼は、10歳のうつろ姫と呼ばれる女と結婚します。うつろ姫は醜く、白痴の疑いもありました。彼女は夜の営みについては、飽きることのないほど積極的でした。宗頼はそれを不潔と感じ、うつろ姫を遠ざけます。  18歳になった宗頼は、遠国の守に任ぜられます。うつろ姫もついてきます。宗頼は弓を携えて、狩に明け暮れます。その間うつろ姫は下賤の輩を自室に招き、快楽をむさぼりつづけます。  宗頼の家臣に、藤内という腹黒い男がいます。宗頼は以前から気になっていた「岩山の向こうに何があるのか?」と藤内にたずねます。「血のちがう輩が住んでおり、危険なので近寄らない方がよい」との答えがあります。  そういわれれば、なおさら見たくなるのが人情です。宗頼は岩山の向こうへと出かけます。そこには平太という岩に仏を彫っている、同年代の若い男がいました。  岩山の向こうからの帰路で、宗頼は美しい若い女(千草)とめぐりあいます。女は彼が射た弓に倒れた、子ぎつねの化身だったのです。正体を知っても、宗頼は千草を愛しつづけます。  ある日弓麻呂は、庭で2人の家来を弓矢で殺します。宗頼は血で汚れたところに、紫苑を植えるように命じます。邸内での殺戮がつづき、庭はたちまち紫苑でいっぱいになります。  この先についてはふれません。宗頼と千草のその後。平太との再会など、後半にものがたりは大きく動きます。ただただ石川淳の筆力に圧倒されながら、見知らぬ「紫苑」を思い浮かべてしまうことになります。「紫苑」(しおん)を植物図鑑で確認しました。薄い紫色の花で、九州でわずかに自生している、とありました。 ◎最後の文士  手元に文芸誌『すばる』(1988年4月臨時増刊号)があります。「石川淳追悼記念号」です。宝物のように大切にしていますが、小口のヤケが活字面にまで浸食してきました。そのなかに「石川淳の文学と位置」という鼎談があります。佐々木基一、中村真一郎、丸谷才一の豪華な組み合わせです。『紫苑物語』について、中村真一郎が直に聞いたという石川淳の言葉があります。 ――中村:おれ(補:石川淳)はある朝、目が覚めたら、頭のなかに「ル・セニュール・エーメ・ラ・シャス」というフランス語の句が浮かんだ。すぐにそれを日本語に直して、「国の守は狩を好んだ」と書いて、それから先、ずっと空想を増殖させていってあれができた。プロはそういうものだ、おまえみたいに初めから終わりまで構成を考えて書くのは素人であると、福永(補:武彦)をつかまえて言ったのを聞いてて、「ああ、そうか。石川さんはそうなんだな」と。  このつづきがおもしろいので、重ねて引用させていただきます。 丸谷:福永さんが石川さんのメモを見たんですって。淳さんが立ち上がったときに。小さな名刺みたいな紙に登場人物五人か六人の名前と職業と年齢が書いてあるだけで、あれを見るだけで書くんだ。「今の日本の小説家で、一番頭が強いのは、石川淳ではないか」と、福永さんが何かに書いていました。 中村:福永の小説ノートたるや、小説ぐらい長いんだ、綿密で。福永は小説ノートを書くのが趣味なんだ。道楽なんだよ。  石川淳の作品には起承転結がない、と安原顕が書いていました。とりあげた『紫苑物語』は、めずらしく骨格がしっかりとした作品ですが。その理由は、鼎談で理解できました。冒頭だけ浮かんで、あとは発酵するのを待った作品だったのです。  石川淳は1899(明治32)年浅草で生まれています。1936(昭和11)年に『普賢』で芥川賞を受賞しています。その2年後に発表した「マルスの歌」(『焼跡のイエス/普財』講談社文芸文庫所収)が発禁処分となります。それからしばらくは、「森鴎外」などの評論や、江戸文学の研究に没頭します。  石川淳は太宰治、織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれています。私にはあまりぴんとこないくくりです。石川淳は若手の文学者にも寛容な姿勢をみせました。安部公房や中野重治に目をかけ、2人からは師とあおがれていました。大江健三郎や金井美恵子を、支援したのも石川淳でした。文学者・石川淳の原点にふれた文章があります。紹介させていただきます。 ――荷風がヨーロッパに触れることによって、逆に伝統的な規範を発見したのと同じように、石川淳もまた、昭和時代における東京の文化の風化を代償として、逆に貴族主義的精神を手に入れることができたのではなかろうか。彼のうちには、「江戸っ子」としての「血」がなおも動かしがたいものとして生きている。(磯田光一『昭和作家論集成』新潮社P142より)  石川淳の博識について、吉田健一はつぎのように書いています。 ――江戸の人間であって和漢の学がその素養をなし、ヨオロッパの文学に明るくその昔金に困っていた頃に小遣い稼ぎに翻訳をする位のことは何でもなかった。(吉田健一『交遊録』講談社文芸文庫より)  私はジッド『背徳者』(新潮文庫)を、石川淳訳で読みました。ジッド『狭き門』(新潮文庫)の解説は石川淳が書いています。古典では『新釈雨月物語/新釈春雨物語』(ちくま文庫)という著作があります。小説家というよりも、文士という称号のほうがふさわしいのが石川淳です。日本一の名文をどうぞ堪能してください。 (山本藤光:2010.05.30初稿、2015.02.18改稿)

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