山本藤光の文庫で読む500+α

2017/10/09(月)01:27

伊井直行『服部さんの幸福な日』(新潮社)

国内「い」の著者(28)

飛行機墜落、〈奇跡の生還者〉となった服部さんを次々と襲う不可解な出来事。疑惑の財界人の元秘書はなぜ執拗に彼を狙うのか。服部さんは遂に立ちあがる。(「BOOK」データベースより) 伊井直行『服部さんの幸福な日』(新潮社) ◎文庫化されていませんが  伊井直行は1953年生まれの元小説家です。現在は出版社勤務を経て、東海大学文学部教授をしています。元小説家と書いたのは、最近はとんと小説を発表していないからです。直近では『岩崎彌太郎「会社」の創造』(講談社現代新書2010年)を買い求めましたが、小説には久しくお目にかかっていません。  伊井直行は、注目していた作家の一人です。なかでも、『服部さんの幸福な日』(新潮社)と『湯微島訪問記』(新潮社)は、文庫化されたら紹介したいと待ちつづけていまいた。しかし待てど暮らせど文庫化されませんので、掟破りで単行本を推薦させていただきます。  伊井直行は地味な作家です。デビューして以来、『服部さんの幸福な日』(新潮社)が12冊目の単行本となります。ところがあまり読まれていません。伊井直行は『草のかんむり』(講談社文庫、初出1983年)で、群像新人文学賞を受賞しています。第2作『さして重要でない一日』(講談社文庫、初出1989年)では、野間文芸新人賞をを受賞しています。 『草のかんむり』は、蛙にされた予備校生の話です。『さして重要でない一日』は、会社での未知なる空間を描いた作品です。伊井直行はこれまで、デビュー時代の2作品を引きずりつづけていたように思います。私はどちらかというと、『湯微島訪問記』(新潮社、初出1990年)に代表される、ファンタスティックな作品の方を評価していました。 ◎平凡な主人公の事件 『服部さんの幸福な日』は、これまでの作品とは明らかに異なる。エンターテイメントとして、十分に楽しめます。ストーリーも派手です。  旅客機が海上に墜落します。生存者は2名。それが服部さんと高木。主人公を「服部さん」と書いているのは、著者の主人公に対する優しい視点のためでしょう。この呼称が効いています。「服部さん」とすることで、主人公は憎めない人柄との既成事実ができあがります。服部さんは、平凡なサラリーマンです。妻・えり子と2人の子供がいて、愛人もいます。  2人は波間に漂いつづけます。やがて2人は、得体の知れないクルーザーに救助されます。乗員は2人に目隠しをし、顔を見せようとはしません。船名もビニールシートで覆い隠されています。クルーザーは、2人を漁船に引き渡します。かくして2人は生還するわけです。2人は一躍マスコミの寵児となります。マスコミのインタビューに対して、2人はクルーザーでのひどい待遇について訴求します。服部さんの悲劇はここからはじまります。  クルーザーの持ち主である肥満体の「奥様」とその息子は、インタビューの内容に憤慨します。息子は恩を仇で返す、2人への復讐を誓います。  奇跡の生還をとげた服部さんと高木に、執拗な復讐劇が繰り広げられます。「服部さん」と「奥様」。伊井直行は、2人の呼称を存分に活かして物語を進めます。  陰湿なストーリー展開のなかで、「さん」と「様」は微妙な均衡を保っています。2人は愛する家族のために闘います。不倫・愛人・おかぼれなど、物語の登場人物にはきな臭いにおいがつきまとっています。 『服部さんの幸福な日』は、伊井直行の代表作と断言します。物語には「偶然」が多すぎて、抵抗感を示す読者もいるかもしれません。しかし我々の日常にも、「偶然の産物」は数多くあります。「偶然」を「必然」に変えてみせる筆力。私はこの作品の、物語性のなかにそれを見ました。第三者の眼からは、ドタバタ劇としか映らない騒動ですが、底力が感じ取れるのです。本書の平凡と日常について、高橋源一郎は次のように書いています。 ――平凡とは、日常とは、人間がそこから抜け出すことができない存在の条件そのものなのではないか。そう思えた時、はじめて平凡であることの意味が揺らぎはじめるのだ。(高橋源一郎『人に言えない習慣、罪深い愉しみ』朝日文庫P204)  奇跡の生還が、とんだ復讐劇に変わる妙。十分に堪能させてもらいました。服部さんの「幸福」は、奇跡の生還にあったのか。「幸福」は「偶然」には手に入りません。「不幸」は「突然」にやってきます。「偶然」を「必然」に昇華するエネルギー。「不幸」に立ち向かうエネルギー。それを実感したエンターテイメント作品でした。  伊井直行の新しい小説を読みたい。そんな思いを乗せて、旧作の単行本をあえて、「文庫で読む400+α」の仲間入りさせてしまいました。 (山本藤光2000.03.20初稿、2016.04.18改稿)

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