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藤の屋文具店

ビート疾走る


            ビート疾走る

 「となりに乗ってく?」

 うんと答えて男は助手席に乗りこむ。運転席よりいくぶん狭い助
手席に収まるとシートを少し下げ、かちりとベルトを締めた。

 「ひっさしぶりだわぁ」

 クラッチを踏みこんでシートを合わせ、シフトをかちかちと確か
めながら女はつぶやいた。すり切れて飴色になったキーをひねると、
少しだけ勇ましい音を立てて、背後でエンジンが目覚める。ぐいと
踏みこむと、ほとんど同時にタコメーターが跳ね上がる。スニーカ
ーと直結したように動く針は、小気味良く上下を繰り返している。
 水温計が動き出した。高めの回転でクラッチをミートして走り出
す。何度か交差点を過ごすうちに身体が思い出し、ぎくしゃくして
いた操作はどんどん滑らかになってきた。セカンドで8500まで
引っ張りサードにシフト、苦しげな音と裏腹にどこまでも伸びそう
なエンジンは、一仕事やりおえて一息入れる。

 「ねぇ、海まで行ってみようか」

 助手席の男は軽く頷く。女はウィンカーを出して、山越えの県道
へノーズを向けた。

 「気持ちいいー」

 新緑の山に入る。背後のE07A型三気筒エンジンはその鼓動を
高め、ちいさなボディを前へ前へと押し出す。慣れた手つきでシフ
トとステアを繰り返す女の上を、木漏れ日が流れていく。アクセル
オンでわずかに外へ逃げるノーズは、軽いブレーキングで本来の軌
道を取り戻し、ふたりを乗せた小さなクーペは、緑の中を駆けてい
った。

 「・・・・・・・」

 何か言いかけて、女はやめた。聞き返すでもなく男は、心地よさ
そうに景色をながめている。暖かい日差しとまだ冷たい風が頬を撫
でる。もう、10年もたつのかな。人並みの軽い挫折はあったもの
の、希望通りの人生を歩み、優しい恋人や楽しい仕事に包まれ、こ
れから始まる自分の人生に、少しの不安と大きな期待を夢見ていた
あのころ。荷物を何も持たずに走りまわっていた、あの日。所詮、
二十歳を少し過ぎたくらいの幼い女の子には、何もわかっていなか
ったのかも知れない。

 「そこ、左に入ったほうが近いよ」

 Y字路を左に入った道は大きく右へ曲がり、登りながらトンネル
に入る。白い計器板が闇に浮かび上がった。反響する排気音が世界
を包む。遠くに見える小さな光がどんどん大きくなる。湿気を帯び
た闇がふっと途切れ、二人はまばゆい風の中にいた。

 道はやがて急に下り始めた。コーナーの手前でブレーキング、左
手のシフトに連動してタコメーターは跳ねあがり、軽くなった身体
はすぐに重さを取り戻す。ボンネットの水滴がつつーと左へ流れる。

 「ひぃぃぃるあんど、とぅぅぅぅうう」

 くそまじめな顔をしたまま男がつぶやく。

 「あっははは、やめてよ、もぅ」

 何かを手に入れるたびに、人は何かを失っていくのだろう。通り
すぎた闇に何かを残し、まだ見ぬコーナーの先に夢を抱き、熱い想
いに背中を押されて、ちっぽけなクルマはひたすら疾走る。

 「・・・わぁ」

 見下ろす坂の下いっぱいに群青の海、潮の香り。

 「・・・・・・」

 身体まで染まりそうな青の中を、銀色のクーペは身震いしながら
駆け下りていく。

 道は、まだ続く。

                     了




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