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藤の屋文具店

藤の屋文具店

和代疾走る



            和代疾走る


 クルマを入れ替えたから見においでと、和代から電話があった。

 梅雨を忘れさせるような日曜の午後、亮一は幼なじみの家へとク
ルマを走らせた。インターへと続く国道には、カラフルなモーター
バイクの集団がいた。真紅に塗られたマシンの後ろにつくと、Vツ
インのビートが亮一のスターレットを包む。開け放った窓からはか
すかなオイルの焼ける臭い・・・

「はーい、ちょっと待ってね」

 本物の木材をふんだんに使った、見た目は質素な家のダイニング
に通される。和代はふたり分のコーヒーを煎れてテーブルについた。

「アストラを買ったのかぁ」
「うん、わたしは普通のセダンのほうが好きなんだけどね」
「オープンカーは気持ちいいよ」
「でも、目だつでしょ」
「似合うからいいじゃないか」
「わたし、派手なのが好きなわけじゃないんだけど、これにされち
ゃったの」
「旦那さんは、君に綺麗にしていて欲しいんだな」
「うん、わかってる」
「いい家に住んでいいクルマ買ってもらえて・・・、」
「・・・ね、ちょっとそこらへんを走ってこない?」
「あぁ、いいね」

 深い紺色のメタリックにベージュのトップを持つアストラは、セ
ダンとはまるで違うクルマのようだ。運転席に滑り込んだ和代が、
頭上のラッチをかちりと外して、コンソールのスゥィッチを入れる。
複雑なリンケージが確実に作動し、頭の上に青空が広がった。
 海へと続く道をゆったりと流すと、信号に捕らわれる度に視線を
浴びる。和代は、40を過ぎているとは思えぬほどに若く、そして
美しい。

「みんな、何が楽しくて生きているのかな」

 独り言のように和代がつぶやく。

「わたし、子供のころに戻りたい・・・」

 亮一は、何も答えずに前方を見つめている。ゆるい右カーブ。和
代の身体が亮一へと傾く。腕にふれた彼女の肩は、哀しいほどに細
かった。

「旦那さん、あんなに優しいじゃないか」

 こんどは左のきついカーブ。亮一の身体は流れない。

「そうよ、あのひとはわたしのことを愛してくれているわ」

 カーブの出口に向けて、和代はアクセルをぐいと煽った。ほんの
少しスキール音をたて、クルマはストレートを加速する。松並木が、
緑のトンネルとなって流れる。

「母はね、」

 下りのコーナーが迫る、和代はATのセレクターを「パワー」に
切り替えると同時に、ブレーキを踏んだ。シートベルトが二人の上
体を軽くホールドする。

「女は、愛されて暮らすのがいちばん幸福だといったわ・・・」

 木漏れ日が、ボンネットに複雑な模様を流す。ウィンドシールド
をすり抜けた影は、ふたりの上を滑らかに駆け抜け、短いトランク
へと去っていく。

「男はいいわね・・」

 ほとんどため息のように和代はつぶやく。目の前に海が開けた。
群青の海に白い波。亮一は何も言わない。

「わたし、愛されなくてもいいから、好きな人を追いかけるべきだ
ったんかな・・」

 速度が落ちた。

「選ばなかったほうの料理は、いつも美味しいものだよ」

 亮一が、抑揚のない声で言う。クルマはハーバーのパーキングで
止まった。

「ね、わたしは、どうして幸せじゃないの?」

 前を向いたまま、和代は訊ねる。掛けっぱなしのエンジンが、少
し回転をあげた。

「不幸が好きだからじゃないのか」

 亮一は、水平線を見ながら応える。電動ファンがぶぅんと唸る。

「・・・・わたし・・・人形でもペットでもないのよ・・・」

 和代は、ゆっくりと亮一の方を向いた。学生時代のような若さこ
そ失われたものの、その美貌はいささかも衰えてはいない。なにひ
とつとして不自由のない生活を送っていながらも満たされない想い
のせいか、寂しさに彩られた瞳が、端正な顔立ちの上に物憂げな陰
を落としていた。

「ひとがひとを所有するなんてことは、できないけどね、おとこは、
時々錯覚を起こすものなんだ」

「わたし、だれのものでもないわ」

「そうだよ、あたりまえさ」

「島田クン、誰かを欲しいと思ったこと、あるの?」

「あるよ」

「うまく手に入った?」

「ああ、生きてる間は無理だったけどね」

「・・・・・・・・そう」

 いつのまにか、太陽は赤みを増していた。雲の切れ間から降り注
ぐ光が、海面を静かに刺す。

「わたし、逃げるために結婚したんかなぁ・・」

 ゆっくりとクルマを出しながら和代はつぶやいた。潮風が、ふた
りを吹き抜けて山へと走る。ルームミラーの亮一と目が合った。和
代は、懸命に笑顔を作ろうとした。

 ルームミラーでは、今にも泣き出しそうな女が、こちらをじっと
覗いていた。



                         了




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