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藤の屋文具店

未来に還る 後編



第三章

分岐点


黄色いワンピースの可憐な少女が、俺を見ている。その清楚な彼
女の瞳が、俺の心をとらえてはなさない。少女は俺の視線に出会い、
はっとして恥じらいながら瞳を伏せる。俺は、この少女にどこかで
あった事がある。
彼女はふたたび俺を見る。俺は声をかけようかどうかと迷ってい
る。声をかければ、彼女はきっと応えてくれるだろう。奇妙な確信
があった。俺は、この少女との出逢いに、何か運命的なものを感じ
てしょうがなかった。それでも俺が声をかけなかったのは、俺の中
にある礼子への想いのせいだった・・・・・・。

急に場面が変わった。

向こうからバイクが近づいてくる。野太い排気音があたりの空気
を震わす。どぅんどぅんと間隔をおいて、フラットツインの脈動が
身体につたわる。女はヘルメットのシールドをはね上げた。冷たい
ほどの美貌がのぞく。

「おまたせ」

俺は自分のメットを被って、礼子の後ろに跨る。黒い革のツナギ
の背中が、肉食獣の匂いをさせる。900ccの銀色のバイクは、
ふたりの荷重をものともせずに、早朝の青梅街道を100キロで駆
け抜ける。爽やかな湿気をおびた空気が、俺の横を流れていく。

場面が変わった。

じりじりと照りつける太陽の下、俺はアスファルトに膝をついて
いた。オイルのような黒いしみがあたり一面に広がっている。むっ
とする臭気が漂う。はじけた革のツナギのまわりで、得体の知れぬ
臓物のかけらが干からびかけている。
さっきまで礼子だったものを抱いて、俺は灼熱のアスファルトの
上に座り込んでいた。ジーンズの膝に礼子の体液がしみこむ。蝉の
声がどこか遠くで聞こえる。

・・・これは夢だ、川上政利は心の中で叫んだ。DKBをモダン
にしたような単車に見たこともない着衣、間の抜けた救急車のサイ
レン、見知らぬクルマが道路に満ちあふれた世界。政利は自分が今
夢を見ていると自覚しつつ、夢を見ていた。彼は、川上政利である
と同時に、夢の中の浅岡正人であった。

俺は、この世でたった一人の理解者をなくした。もう二度と、礼
子のような女に巡り会う事はないだろう。俺はたぶん、一生ひとを
愛する事など、もうないだろう。出会わなければ気づかぬものを、
なまじ出会って理解し合ったために、俺はもう、礼子以外のだれを
も愛する事ができなくなってしまった。
俺は憎い。俺から礼子を奪った者が。甘い気持ちで無責任に生き
ているだけのあほうが。、故意ではなかったと済ませられてたまる
ものか。たとえ社会が許したとしても、決して俺は許しはしない。
みていろ、いつかきっと権力を握って、おまえをこの社会から葬っ
てやる。いや、おまえだけじゃない、最低限の責任も果たせないよ
うな、歳だけとった、心の中はガキのままの人間を、俺は絶対に許
さない。

・・・そうか、俺は恋人をひき殺されたのか・・・、と、川上政
利は思った。彼は、夢の中で、浅岡正人として別の世界で生きてい
る事を理解した。その夢は、妙に現実的な夢だった。夢にありがち
なすっとんきょうなところはどこにも無く、筋の通った、はっきり
した夢だった。

場面が、少女のいる公園に戻った。

俺は、大学のゼミのツァーでこの公園にきた。ここには生まれて
初めてきたはずだ。それなのに、どこか懐かしい気がするのはどう
してだろう? 銀杏の木の下で本を読む少女に、どこかで会った気
がするのはなぜだろう。少女も、こっちが気になるらしい。あの少
女を見ていると、なぜか心に暖かいものがこみあげてくる。彼女に
声をかけてみようか。
だめだ、俺はもう二度と、誰も愛さないのだ。俺の心は、あいつ
だけのものだ。俺は、あいつの無念を晴らすためにだけ生き続ける
のだ。あいつの事を俺が忘れてしまったら、あいつがかわいそうす
ぎる。世界中のすべての人があいつを忘れても、俺だけはあいつの
事を憶えているんだ。あいつの恨みを晴らすために生きていく事だ
けが、俺があいつを失わずにいるたったひとつの方法なのだ。
俺は、あいつを忘れてひとりだけのうのうと生きては行けない。
俺の心は、あのときあいつと一緒に死んだのだ。

川上政利は、夢の中の主人公の心を見た。そこには、愛も哀しみ
もなかった。ただひたすら、恋人を奪って行った社会のすべてに
対する、アルコールの炎のように蒼く冷たく燃える憎しみと、透
き通った絶望だけがあった。

場面が変わった。

 俺は弁護士になっていた。弁護士の仕事というのは依頼人を助け
ることであるが、同時にそれは、相手を攻撃することでもあった。
俺は、いっさいの妥協をゆるさず、ひたすら「正義」を押し通し
た。およそこの世に、絶対的な悪などない。善良なふつうの人が、
ほんの些細な心の隙に悪を呼び込むだけだ。悪い人間は、心の弱い
だけのかわいそうな人間にすぎない。
 だが、俺は許さなかった。そう、誰にでもある些細な甘えが、誰
かにとっては一生を台無しにするような凶器になるのだ。お互いに
甘えを許しあって生きているような連中には、絶対に理解できない
ものが、この世にはあるのだ。
 交通事故の民事訴訟を好んで引き受けた。酒気帯び運転の加害者
がいれば、裁判官に注意されるまで罵倒を続けた。俺が被害者に依
頼された時点で、保険会社は示談ですませようとしたが、俺は許さ
なかった。かならず被告席にたたせ、あらんかぎりの手法を使って
被告を侮辱した。何人かは自殺した。
 ある時、医師を相手に裁判で戦った。地元の名士であるその医者
は、陰で根回しをしては都合の良い証人をねつ造した。議員たちか
らも圧力がかかり、多くの嫌がらせがあった。
 だが、俺は退かなかった。社会的な地位を保身のために利用する
男は、俺にとって最大の仇だったのだ。
 俺は、被害者の家族のたった一人の生き残りである、当時高校生
だった和代のためではなく、自分の中の何かのために戦った。

 場面が変わった。

 時は流れ、正人は憎しみと絶望だけを胸に、亜修羅のように生き
続けた。復讐のための権力を富に求め、パブリック開発では守銭奴
と呼ばれ、人情のかけらもない仕事をやり続けた。彼の味方は、秘
書の和代ただひとりだった。
 そして、40代の半ばにして、病魔が彼を襲った。

 場面が変わった。

 浅岡正人の葬式だった。寂しいものだった。式場には、社員以外
はほとんどいなかった。
 政利には、その場の人々の心が読めた。みな、正人のことを憎ん
でいた。死んで良かったと考えていた。同情も悲しみもなく、ただ、
ただ憎しみだけがあった。
 礼子の親友の菱沼敦子と、秘書の島田和代だけが、悲しんでいた。
 正人の中にあった憎しみは、残されたふたりの心の中に、やりば
のない悲しみと虚しさだけを残していた。
 二人の心をのぞいた川上政利は、いいようのない悲しみに襲われ
た。夢の中の正人が死んではじめて、彼は正人の人生を虚しいと感
じた。突っ走る時には見えないものが、立ち止まってはじめて見え
た。

 
「あなた、あなた!」

 遠くでだれかの声がする。懐かしいような暖かい声だ。
 この声は、そうだ、公園で見かけた少女の声に違いない。
 政利は、なぜかそう確信した。

「あなた、どうなさったの?」

 身体がぐら、と、揺れて、幕が引くように視界が開けた。
 60ワットの裸電球が、黒い布をかぶせられた傘の中で赤茶けた
光を落としている。たんすの上のラヂオが落語を流している。戦意
高揚とやらの、聞くに耐えない新作のうちの何かをやっている。
新聞が傍らに広げてある。昭和一八年一月二六日。見出しは勇ま
しい。わが帝国海軍は各地で莫大な成果を上げているらしい。ひと
にぎりの権力者たちによって、何も知らぬ多くの人々は、偽りの正
義のために訳もわからず踊らされている。

「あなた!」

 声のする方へ顔を上げた政利は、はっとして妻の顔を見つめた。
見慣れていたはずの妻の顔が、夢の中の少女にそっくりだったのだ。

「だいじょうぶですか、だいぶうなされていましたけど・・」

 なんともないといいながら、政利は、どれくらい眠りこんでいた
のか妻に訊ねた。

「そうですねぇ、ほんの五分くらいですけど・・」

 そうか、明日出発というので、飲み慣れぬ酒を飲んで、うとうと
してしまったのだな、と思いながら、その時間のあまりの短さと、
見た夢のあまりの長さに、政利は唖然とした。

「どうかなさったのですか?」

 政利は、いおうかどうかためらったが、この生々しい夢に、夢以
上のものを感じて、妻に語り始めた。
 どこか違う世界で、自分は恋人を失い、その復讐のために冷たい
心で一生を終えた事。どこかで見た事のある公園で、心ひかれる少
女に出会ったけれど、復讐に燃えるその世界の彼は、ついに声をか
けずに別れてしまった事。そして、自分の死を迎えてはじめて、そ
の生き方に虚しさを感じた事を告げた。
 妻は、静かに聞いていたが、やがてしんみりと語り始めた。

「・・・そうですか、わたしには、その和代さんという方の気持ち
が、よくわかりますわ」

 自分自身に言い含めるような調子で妻はつづける。

「和代さんは、きっと礼子さんの生まれ変わりだったのでしょう」

 思いもかけぬ妻の指摘に、政利は虚を突かれた思いがした。

「そして、和代さんも礼子さんも、あなたご自身の生まれ変わりな
のですわ」

 政利の心の中で、何かがゆっくりとかたちをとろうとしていた。

「あなたは、きっと、大切な何かを守るために戦っていく運命なの
ですわ。そしてわたしは、そんなあなたを支える運命なのでしょう。
公園で出会った少女は、きっとわたしの生まれ変わりです。声さえ
かけてくだされば、ついていったでしょうに・・・」

 妻の目が、寂しそうに伏せられた。

「わたしは無学な女です。それでも、この戦争が間違っている事く
らいはわかります。そして、あなたは、たとえ間違っている事であ
っても、あなたご自身のために戦わなくてはならない事もわかって
います」

 いつもは黙って聞いているだけの妻が、ものにつかれたように真
顔でしゃべり続けている。

「どうか、今生のわたくしをお忘れください。わたしは、必ず生ま
れ変わってあなたのもとへ参ります。たとへこの世では別れても、
いつか必ず、争いのない世界で、あなたのおそばにおいてください
ませ」

 政利は、何もいわずに妻の視線を受けとめた。

「今度のお仕事、難しい、・・・・・いいえ、きっ帰ってはこれな
いような無理な事なのでしょう? どうか、わたしの事はご心配な
さらないで、思い残す事のないお仕事をなさって下さい」

 妻の右手が、こたつ布団の上掛けの端をしっかりと握りしめてい
る。込められた力の強さが指先を蝋のように白くしている。政利は、
それを見ないふりをして、続けた

「わかった。俺はどんなことがあっても、いつか必ずおまえのとこ
ろへ還っていこう。俺が、俺である限りな」

 無言で妻がうなづく。

「この戦争は負ける。俺にはどうする事もできない。今度の作戦だ
って、無茶な作戦だ。だがな、男には、かなわぬ事がわかっていて
も、それでもやらねばならぬ事がある。
 俺にとって、生きるという事は死なない事ではない。死ぬ事で自
分の人生を生きるという事も、時としてあるのだ。だがな、俺たち
の命は、この国の無知な指導者のために散っていくのではないぞ。
遠い未来にこの国を支えていく、新しい時代の若者のための、捨て
石となるのだ」

「はい」

「こんな石頭のところに嫁いだばかりに、辛い思いをさせてすまな
い。俺は、上手に立ち回って生き残る事のできない種類の男なのだ」

「いいえ、わたしはあなたの妻である事を誇りに思っております。
一緒にすごせた時間の長さは問題ではありません。たとえこの世で
別れようとも、いつか必ず巡り会い、きっとわたしを呼び寄せて下
さいませ」

 静かな時が流れた。ふたりの心には恐れはなかった。自分自身の
死を見つめ、遥かな未来に心を馳せる男と、愛する故に送りだそう
とする妻。まだ見えぬ明日への希望を胸に、懸命に今を生きるふた
つの命は、静かにひとつになった。


 昭和一八年一月二七日

 粉雪の舞う岸壁で、四隻の潜水艦はひっそりとした見送りを受け
ていた。海大型より発展した巨大な潜水艦、伊号四〇〇型の最新艦
だ。だがしかし、もはや戦いのためではない、補給路を断たれ、敵
に投降する事さえ許されずに置き去りにされた兵を、敵の目を盗ん
で助け出すためだけの航海に出るのだ。
 もはや、戦いは終わっていた。

 霧笛が鳴った。

 司令塔の上で川上政利は敬礼をした。

 彼の目に映るのは、故郷の山や川ではなかった。まだ見ぬ未来の、
このような無益で悲惨な戦いを知らぬ遠い世界の、生まれ変わった
自分自身の姿であった。

 四隻の男達の船は、鉛色の空と海の境に向かって、ゆっくりとそ
の速度を上げていった。



  第四章

未来に還る


「艦長、艦長!」

 男の声がする。むっとする空気の悪さ。全身が汗でじっとりと湿
っている。薄暗い闇の中に、男たちの顔があった。

「駆逐艦は去りました」

 川上政利は、自分に戻るのに30秒を要した。どうも夢を見てい
たらしい。だが、それがどんな夢なのか、どうしても思い出せなか
った。何か、とても大事な事であったようにも思える。

「損害状況は?」
「はっ、前部発射管室大破、電池室に浸水、潜舵大破であります」
「負傷者は?」
「負傷者二十二名、戦死十八名、であります」
「気蓄室は無事か」
「無事であります」
「・・・聴音手、上の様子はどうだ?」
「何もいません」
「・・・・浮上するぞ、メインタンク排水」
「了解、メインタンク排水よろし!」

 圧搾空気が二重構造の船体に入っている海水をゆっくりと押し出
し、艦は上昇を始めようとしていた。
 しかし、海底からほんの少し浮き上がったところで、艦はバラン
スを崩し、再び艦首から海底に突っ込んだ。鈍い衝撃に、乗組員は
再び床にたたきつけられる。

「だめです、排水できません」
「浮力が得られません」
「居住区の浸水がとまりません」

 何度か試みるが、艦は浮力を取り戻せなかった。言い様のない重
苦しい沈黙が、艦内の空気をさらに重く湿ったものにする。日本を
遠く離れたガダルカナルの海底では、救援の手だてはない。
 何度目かの徒労の末に、艦長は覚悟を決めた。

「各自、好きな糧食をとってよし」

 若い水兵が、パイナップルの缶詰を持ち出してきた。缶切りの音
が薄暗い艦内にかしゃかしゃと響く。まだあどけなさの残る横顔が、
緊張と恐怖で白くなっている。
 青年は、一切れを口に含むと無表情に食べだした。残りを隣の男
に手渡す。シロップとブリキの匂いが、政利のところまで流れてく
る。

「鈴木・・」
「はっ!」
「うまいか?」
「・・・いえ、味がわかりません」
「・・・・死ぬのが恐いか?」
「・・・・・・・・」
「恐いのは、恥ずかしい事ではない。恥ずかしいのは、恐怖のため
に責任を放棄する事だ」
「はっ、・・・自分は、悔しいであります」
「・・そうか、悔しいか」
「友軍を助ける事ができずに、ここで朽ちることが、悔しいであり
ます」
「すまん、わたしがいたらなかったせいだ」
「いえ、その、・・・・・」
「はっはっは、よいよい、もともとこの戦いは無理な戦いだったの
だ」
「・・・・・・・・・・・・」
「日本は、アジアの盟主たらんとして努力を続けてきた。だがな、
力で押さえつけ、従える事では、人の心は支配できんのだ」
「・・・」
「我々が血を流し、残された家族達が戦争の本当の悲惨さを身にし
みて感じるまでは、この国の連中には戦いの無意味さがわからんの
だ」
「自分達の戦いは、意味のない事でありますかっ」
「いや、我々の死は決して無意味ではない。我々はこの国の指導者
たちのために死ぬのではない。我々の子孫が築くであろう未来の我
が国のために、二度と過ちを犯さぬ為に、この国の歴史の中に沈ん
で行くのだ」
「・・・自分には、よくわかりません、よくわかりませんが、わか
る事にしますっ!」


 昭和一八年二月四日 東京市

 ラヂオが空襲警報を告げた。川上恵美子は、幼いわが子に防空頭
巾をかぶせ、雨戸を閉めた。

「木更津方面より敵機侵入、機影三十二!」
「高度一万二千」
「いくぞ、まわせ~っ!」

 応急修理の痕も生々しい滑走路に、十八機のずんぐりした戦闘機
が並ぶ。一式陸攻より移植された巨大な火星二十六型発動機は、そ
の巨大さゆえに、操縦士の視界を狭め空気抵抗を増やす太い胴体を
要求したが、それまでの日本機の上昇能力をはるかに凌ぐ性能を、
この雷電に与えた。
 早春の大気を震わせ、厚木第三〇二航空隊は、整備員の合図で、
二機ずつ発進していく。

「敵高度一万二千、全速で上昇せよ」

 迎撃隊は高度を上げる。しかし、悲しいかな、過給器を持たぬ雷
電は、日本機最高の上昇能力をもってしても、高度一万に上昇する
のに三十分を要した。しかも、空の要塞の異名をとるB29は、機
体下部に針ネズミのように機銃を備えている。失速寸前の上昇を続
ける迎撃隊をあざ笑うように、B29は高度を下げ、その弾幕の中
に迎撃隊を包んでいった。
 一機、また一機と、暗緑色の機体がバラバラに吹っとび、朝陽に
きらきらと輝きながら雲海へと散っていく。

「くそ、だめだ、この機では勝てない」

 薄い空気のために弾速の落ちない二十ミリ機銃をもってしても、
接近出来ぬ事にはジュラルミンの要塞には歯が立たなかった。もは
や、我々になすすべはない。精神力では敵に勝てないのだ。加籐中
尉は、隊長機の操縦席で唇を噛みしめた。どんなに努力しても、ど
うにもならない。
 何も知らぬ罪のない市民が、今から殺されようとしているのに、
何もできずに指をくわえて見ているしかない。破竹の快進撃を続け
ているはずの日本の本土を、敵の爆撃機が灰にするのだ。
 言い様のない絶望感で目の前が紅く滲んだ。唇から血が垂れた。

 そのとき、上空に何かが光った。

「Attention Jap attack at 2 o’clock !」

 鼻歌まじりで日本機をたたき落としていたB29の操縦席に、緊
迫した空気が流れた。高性能レーダーが上空からの敵機の接近を告
げる。

「What’s ?」

 機銃手がサングラス越しに空を見上げる。何か小さなものが、き
らりと光ったような気がした。
 つぎの瞬間、雷鳴のような音が轟き、一機のB29が炎に包まれ
た。唖然と見守る加籐の目の前で、B29は弾倉で誘爆を起こし、
木っ端みじんに吹き飛んだ。

 眼前を、小さな銀色の機体が急降下していく。時速八百キロは出
ているだろう。一撃離脱で反転上昇する機体を見て、加籐は我が目
を疑った。まだ塗装もされていないアルミの地肌にくっきりと日の
丸だけが描かれたその機体は、機尾に巨大なプロペラを備えた前尾
翼機であった。蜂のうなりのような羽音をたてて、小さな異形の機
体はふたたび上空に駆け上がる。

「我、迎撃に成功せり、機体に異常無し」
「三十粍砲の効果は絶大」
「加給器は作動順調なり」
「了解、戦闘を継続せよ」
「了解、通信終わり」

 無電に彼らの通信が入った。謎の戦闘機はふたたび上空から襲いか
かる。機首の四門の三十ミリ機銃が火を吹き、厚い防弾板に守られた
B29の操縦席をいともたやすく貫通する。敵の隊列が乱れた。隙を
うかがっていた生き残りの六機の雷電が、渾身の力を込めて駆け上が
り、銃弾をぶち込む。
 二機のB29が火を吹いた。だが、僚機も三機火を吹く。その内の
一機が、最期の力を振り絞って敵の下腹へと突っ込んでいった。全身
を蜂の巣にされながらも姿勢を崩さず、回避する敵の爆弾倉めがけて
吸い込まれるように突っ込む。
 轟音とともに敵はまっぷたつになって砕けた。

 試作機とおぼしき銀色の機は、執拗に攻撃を繰り返し、三十二機
の敵はいつのまにか十五機にまで減っていた。
 しかし、それで終わりだった。いかに健闘しようとも、彼我の物
量の差は圧倒的であった。数にものを言わせた敵の編隊はゆうゆう
と首都上空へ向かって飛び立っていく。

 
 午前十時 東京市

 川上恵美子は笛の音を聞いた。上空から、爆音をかき消すように
甲高い笛の音が聞こえてくる。笛の音は次々と数を増し、だんだん
大きく近くなる。
 前方百メートルに、火柱が立った。破裂した爆弾から飛び散った
ゼリー状の油が、あたり一面に広がる。
 防空頭巾の上から油をかぶった婦人が、炎に包まれて地面をころ
げ回る。夫とおぼしき男が手に持った布で消そうとする。
 だが、婦人が燃え上がる衣服を脱いだときには、すでに脂の燃え
る臭いの中に、黒こげの腕が力なくうごめいているだけだった。
 
 通りをはさんで向かいの家が、直撃弾を受けた。二階の屋根を突
き抜けた爆弾が、家の中で破裂する。中にいたであろう家族もろと
も障子や雨戸が一瞬の内に吹き飛び、骨組みだけになった家から赤
黒い炎が一斉に吹き出す。恵美子は、炎の発する轟音を、この時初
めて知った。

 墨田川の河原は、避難してきた人々で黒く埋まっていた。その上
にも容赦なく爆弾は降り注ぐ。
 直撃を受けたものは一瞬に絶命する。しかし、全身に油の飛沫を
浴びたものは、人間松明と化してころげ回る。ぶすぶすと肉の焼け
る臭いをさせながら、断末魔の叫びをあげて、人型の炎が次々と川
へ飛び込む。
 堤防に囲まれて熱気がこもり、熱さに耐えきれなくなった人々も
また、川の中へと逃げた。だが、そこにも地獄は待っていた。
 数発の爆弾が、同時に水面に落ちた。満載された油は水面を走り、
次の瞬間、川は炎となった。逃げ場のなくなった熱気は河原全体を
押し包み、そこにいるすべての人々を蒸し焼きにした。
 あちこちで、熱風に焼かれた死体の弾ける音がする。膨れ上がっ
た内臓の熱気が、腹を風船のように破裂させる。しゅうしゅうと音
をたてて死体が燃える。ばすんばすんと肉の袋が破裂する。

 公園に避難していた恵美子の目前で、人混みの中に爆弾が落ちた。
人のものとは思えぬ叫びとともに、火柱がはじける。反射的にわが
子をだきすくめ、恵美子は地面に伏せた。
 その上に、炎が降り注いだ。

 
 ガダルカナル沖、海底

 暑い。うとうとといつのまにか眠っていた政利は、息苦しさに目
を開けた。夢を見ていた。公園だった。若き日の浅岡正人となって、
少女に出会う場面だ。
 気圧計が一三〇〇ミリバールを指している、息苦しいはずだ。さ
きほどまで些細な冗談で馬鹿笑いしていた皆も、静かに考えごとを
している。死を眼前にして異常に高揚していた気分が去り、艦内は
再び沈黙していた。しかし、そこにはもう、恐怖や悲しみはなく、
さりとて絶望とも違う、もの静かな優しい空気が漂っていた。

 ああ、そうだ、と、政利は思った。生きる事、死ぬ事、恨み、後
悔、復讐、希望、絶望、そして愛、すべての事柄が、同時に理解出
来たような、そんな気がした。
 大きくひとつあくびをすると、政利はまた、深い眠りに落ちてい
った。


 1979年 初夏

「浅岡ぁ、おまえ何やってんだよぉ」
「うん? あぁ、これか、タロットカードっていうんだ」
「なんだそれ、占いのあれか?」
「あぁ、別に信じちゃいないけどな」
「運命・・か、そんなもんが決まっているんなら努力なんてしても
無意味だもんなー」
「・・・ああ、人の運命は、自分の意志で切り開くものさ!」
「なに気張ってんだおまえ? まだ彼女の事考えてんだろ?」
「・・・・・ああ・・・」
「なぁ、こう考えてみろよ、死んで何もかもなくなるなら、お前が
何をやっても、彼女には通じない」
「うん」
「死んでも魂が残るなら、次に生まれ変わったときにやり直せばい
い」
「・・それで?」
「だから、お前はこの世で与えられた条件の中で、精いっぱい自分
の人生を生きる事に専念するのさ」
「・・・・おまえ、さすが哲学科だけあるなぁ」
「うはは、夢のうけうりさ」
「なんだ、それ?」
「うん、ゆうべの夢なんだけどさ、」
「うん」
「うんと未来に、俺は若い女の科学者に生まれ変わって、墜落寸前
の宇宙ステーションにいるんだ」
「へぇー」
「それでな、自分の命と引換えに地球を救おうとして、ひとりで困
難に立ち向かっていくんだ」
「・・・ふぅーん・・・・・」
「おまえ? 何を見てるんだ?」
「ん、ああごめん、ほら、あそこの黄色い服きた女の子」
「ん? ああ、こっち見てるな」
「どこかで会ったような気がするんだ」
「むこうも、なんかそんな感じだぜ」
「どこだっけなぁ・・・」
(声をかけろ、かけるんだ)
「何かいったか?」
「いや? 何も言わんよ」
(わたしに声をかけて)
「・・・・・・」
「浅岡、どうしたんだおまえ?」
(未来を生きるんだ)
「・・・・」
「浅岡、どこへ行くんだ」
(過去を振り向くな)
(未来はあなた自身のものよ)
「浅岡!」

 一陣の風が吹いた。何ものかに吸い寄せられるように、浅岡正人
はゆっくりと少女の方へと歩きはじめる。
 黄色いワンピースの小柄な少女も、銀杏の木の下からゆっくりと
立ち上がり、正人の方へ向かって歩いてくる。
 ちいさなつむじ風が起こった。風は正人の手からタロットカード
を巻き上げた。運命を語るカードは風に舞い、ふたりの足どりはだ
んだん速くなる。やがて、ふたりは駆け出した。

 爆音がした。

 肩をならべて空を見上げるふたりの上空を、ファントムの編隊が
飛び去っていく。戦いを知らぬ無垢の機体の向こうに、かつてこの
国を守るために散って行った男達の、優しい笑顔が、見えたような
気がした。




               完



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