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藤の屋文具店

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一緒に暮らしたクルマたち 7~13

        【一緒に暮らしたクルマたち】

          カペラロータリークーペ


 「マツダの査定地獄」という言葉がある。マツダのクルマを買う
と、トヨタやニッサンに乗り換えようとしても、下取りの査定がむ
ちゃくちゃ安くて、仕方がないので再びマツダのクルマを購入する
しかないという意味である。中古車マーケットの価格管理能力の無
いメーカーは、「製品」では引き分けても「商品」の競争でこてん
ぱんに負けてしまうのである。もちろん、かつてのホンダのように、
業販店で高く買い取ってくれるだけの人気車を開発すれば別である。
だが、僕がカペラの中古車を手にいれた当時は、RX7もFFファ
ミリアも、まだ発売される前だった。
 ジュージァロデザインの美しいルーチェは、マークⅡやローレル
に対抗して1800を追加し、1000からスタートした二代目フ
ァミリアは、OHC1300の「プレスト」シリーズへと発展した
が、安価な量産ツインカムやツインキャブのスポーツエンジン、5
速ミッションと、次々とバリエーションを展開して自動車雑誌を賑
わす大メーカーの商品構成の前には、ひどくみすぼらしく感じられ
た。大変なマンパワーをロータリーエンジンにつぎ込んだ中堅メー
カーの東洋工業は、ユーザーに対するアピール方法を誤ったのであ
る。
 そう、車格と下取り価格が何より大事の、この国のユーザーにと
っては、となりのおじさんに理解できないような新しい技術より、
見た目に立派な太いタイヤや、オーバートップのついただけの5速
ミッション、見るからに大きくて立派なボディのほうが、はるかに
「商品としてのクルマ」の値打ちをあげていた時代だったのだ。ト
ヨタやニッサンが、国内向けには眼球破裂の危険の大きい部分強化
ガラスを装着してコストを稼いでいたのは、「商売」としては正解
だったのである。真実を見る努力を惜しむジャーナリストが、権威
を振り回す国なのだから。

 そういう流通事情のおかげで、僕は、エアコンオートマ付きのカ
ペラロータリークーペGSの中古車を、7万5千円で手にいれた。
わずか4年落ちのぴっかぴかのクルマである。
 カペラは、セリカ・カリーナが国内で先鞭をつけた4リンク形式
のリアサスペンションを採用した、なかなか近代的なクルマだった。
コロナよりも少し上を狙った6人乗りのルーチェと、大衆車ファミ
リアの間をカバーする、ロータリーエンジン登載を前提に開発され
た最初の量産車であった。当初は流行の角型を採用したヘッドライ
トを、その光量不足から丸型4灯に変更された後期型の、高級なほ
うのバージョンが、GSである。
 国産車には珍しい若草色に塗られたクーペは、今でいうとちょう
どシルビアくらいのポジションだった。ただ、カリーナHTやブル
ーバードクーペ、ギャランHTなどのライバルが、SUツインキャ
ブで110馬力前後、最高速度で170キロあたりを競っていた時
代に、ファミリアより一回り大きい12A型ロータリーエンジンに
よって、掛け値無しの120馬力と190キロの最高速度を誇って
いた。それも、一切の不快な振動無しに、である。

 このクルマは、僕にとって初めてのエアコン装着車でもあった。
蒸し暑い夏の夜、まだ学生のアパートにクーラーなんて無かった時
代、GFを誘って深夜のドライブをするにはちょうど良いクルマだ
った。8トラックのカーステレオで、立川のJマートで入手した怪
しげなヒットチャートメドレーを鳴らし、多摩湖への山道をゆった
りと流した。
 キャブの同調が取れずに、カタログデータにほど遠かった当時の
クルマとは違い、ロータリーエンジンはいつも快調だった。なんせ、
タペットクリアランスもキャブ同調もジェットの変更も必要がなく、
タフな4バレルのキャブのスローと、2極の点火プラグ以外に、不
調になるような要素は何もなかったのである。
 僕は、このエンジンの唯一の弱点である点火系の強化のため、永
井電子工業製のUTI6000というトランジスターアンプと、今
は懐かしい「パワーフライトイグナイター」を取り付けた。今の高
性能車には、素人が手を入れる余地など何もなかったが、当時はそ
ういう事が自己満足以上の効果を発揮する、そういう時代であった。

 見た目にはおとなしい普通のクーペが、やや甲高い事をのぞけば
拍子抜けするほど静かなエンジン音を残し、カタログの一割落ちが
やっとこさの国産スポーツクーペを、石ころでも避けるようにすい
っと抜き去る。そういう子供じみたシーンを思い浮かべてはにんま
りすることのできたこのクルマは、本来の意味での「羊の皮を被っ
た狼」だったのかもしれない。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

           ダットサントラック


 日本では、大学生の子供にベンツだのベンベだのを買い与えるこ
とがポピュラーであるが、アメリカの親はあまりそういうことはし
ないらしい。で、あちらの若い連中は、バイトで買える程度のクル
マをいじくっては楽しんだりする。数はそれほどでもないけれど、
中にはクルマに青春を捧げるマニアもいるそうである。
 彼らは、フェラーリやポルシェは高いので、バンやトラックのち
ゅうぶるを買ってきてはいじるのであるが、日本の「カーマニア」
のように、ショップでローンを組んでアクセサリーをてんこ盛りに
するのではない。解体屋で手にいれたおっきいエンジンを押し込ん
だり、ガールフレンドと内装を張り替えたりするのである。

 アメリカの有名な通信販売の会社に、「シアーズ・ローバック」
という会社がある。毎年発行されるそこのカタログ・・電話帳みた
いな分厚いやつ・・・を開くと、「フォード450CUI のコンロッ
ド」だの、「VW-A11系のバルブ・ステム」だのといった部品
が、冷蔵庫や芝刈機と同じ扱いで載っている。そういう人たちの住
む国なのだろう。
 僕は、アメリカという国の、そういうところが好きである。原則
として自分のことは自分自身でめんどうを見、何よりも、ヘルメッ
トをかぶれだのシートベルトを締めろだのといった事を、罰則をつ
けてまでお節介をやいたりしないところが好きである。

 そんな思いもあって僕は、アメリカのクルマ雑誌をよく読んでい
た。なんせ、日本のクルマ雑誌といえば、10年1日の如く、「例
のコーナーを人にはちょっと言えないスピードで・・・」といった
運転絵日記しか書いてなくて、飽きていたのである。
 で、当時(20年位前か)のアメリカでは、「トラッキン」とい
うのが流行っていた。ようするに、トラックを改造して遊ぶのであ
る。室内を連れ込み宿みたいに飾りたてたり、荷台におっきなスピ
ーカーを仕込んだり、シボレーのビッグブロックにスーパーチャー
ジャー組み込んだエンジンを載せ換えたりするわけだ。

 当時の僕たちの文化というのは、かなりアメリカの影響を受けて
いて、「ドゥ・カタログ」なんぞという雑誌に載っていた生活・・
・いわゆる、「ロフト」と呼ばれる廃倉庫を改造して生活していた
芸術家たちのライフスタイル・・なんぞに、強い憧れを持っていた。
横田の米軍ハウスに憧れていた時代でもある。

 僕は昔から、やりたいと思ったことはいつか必ず実行してしまう
タイプなので、石橋を叩く仲間が躊躇しているあいだに、「ダッツ
ントラック」を買ってしまった。全長4.7メートルのロングボデ
ィである。これでエンジンは1300のOHVだから、当然駆動力
重視のギアレシオであり、スピードはちっともでない。
 でも、深い紺色のメタリックでボディを全塗装し、腰下を純白に
塗り、境界に金色の幅広のストライプを入れてドレスアップし、ホ
イルは、エルスターの純白のワイドホイル。フロントグリルにアル
ミシルバーを吹き付けたら、気分はもう西海岸である。
 荷台に、GR50というちっちゃなレーサーみたいなバイクとイ
スとテーブルを積み、恋人と二人きりで奥多摩の河原でコーヒーを
点てたり、造成中の多摩ニュータウンの道路でバイクを走らせたり
した。十和田湖まで二人で旅に出た事もある。
 一度、弘前から遊びにきた、心底好きで8年もおっかけていた彼
女を乗せて、夜の中央高速を街へ向かって走ったこともある。ベン
チシートに並んですわり、窓の外を流れる都会の灯に照らされなが
ら走るハイウェイは、できる事ならどこまでも続いていて欲しかっ
た。

 昭和54年の春、僕はこのダットラに荷物を積み込み、住み慣れ
た東京の街を後にして、家業を継ぐために福井へと引っ越しを始め
た。当時の福井では、クルマが趣味のあんちゃんたちは、親にねだ
ったちゅうぶるの外車を磨く程度のボンばかりだったので、僕の「
西海岸のすしバー」みたいなセンスのトラックはとても目立った。
でも、ひとりでそんなことをしていても虚しいだけなので、車検が
切れると同時に手放した。

 そして、それから、僕の本格的なクルマ道楽が始まるのである。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

          セリカダブルエックス


 福井に帰ってきてから、月に一度東京へ行かねばならない用事が
あって、僕はダブルエックスを購入した。生まれて初めての新車で
ある。2000CCのオートマで、手動のサンルーフをオプションで
つけた。パワーウィンドゥとパワステとエアコンもついていた。

 都会では、気の合う友人たちといっしょに楽しい毎日を送ってい
たのだが、福井へ帰ってきてからは生活の落差にとまどったもので
ある。なんせ、商店のオヤジの遊びといえば、カタマチという歓楽
街でお金をばらまいて、バイトの若い女の子のおちちをさわるとい
う情けなさだ。はっきり言って世界が違う。酒に酔えば何をしても
恥ではないと考えるようになったら、男はオシマイである。
 で、しばらくは我慢して郷に従っていたのであるが、東京へ行く
度に魅力的な友人たちと逢っていたら、ばかばかしくてそんな連中
と付き合っているのが嫌になってしまった。明日に夢を持たぬ中年
のオヤジなんぞ、うっとおしいだけである。

 そんなとき、近所の「変わりもの」と呼ばれる男から、誘いを受
けた。「福井欧州車クラブ」という集まりに入らないかというので
ある。と言われても、僕の乗っているのは国産車、それも、悪口言
えばあなたもマニア(^^)・・のトヨタ車である。
 だいたい、僕は輸入車というのが嫌いだった。本国の価格の倍も
出して買うのは、アホだと思っていたのである。マッキントッシュ
を買わないのだって、アメリカでの価格を知っていたから、金の値
打ちを知らぬ金持ちのボンボンが、親の財力をみせびらかして自慢
しているみたいで情けなくて買えなかったのである。今はどちらも
そこそこの価格になってきたが、当時はそういう時代だったのだ。

 一度は断ったものの、顔を合わすたびに誘われ、地元の交友も大
切だぞという親のプッシュもあって、入る事にした。紹介されたお
っさんは、「BMW2000CS」と書かれた名刺を出して、知っ
ているかねと値踏みする。ああ、グラース社からのキャリィオーバ
ーですねと答えると、うれしそうに「わが憎しみのイカロス」のエ
ピソードを語る。ハカイダーみたいなフロントマスクがおもしろい
ですねと答える。
 16号や新青梅が縄張りのマニアとはまた違った、おとなしいク
ルマ好きたちのサークルであった。もっとも、そもそもがBMWの
クラブだったらしく、公道でスピードを出すのが趣味のひとたちで
ある。僕はスピードにはあまり興味がないので、飛ばさない旨を伝
えた。

 月に一度のミーティングと年に二度のツーリング。鈴鹿へ箱根へ
と、僕はダブルエックスでついていった。ショートセリカのホィー
ルベースを延長してクラウンの6発を押し込んだこのクルマは、と
ても静かで滑らかで、馬力こそしょぼいものの、立派なグランドツ
ァラーであった。
 だが、箱根の山道をBMWについて走るのは、とてもしんどかっ
た。馬力で劣るクルマを速く走らせるには、コーナリングで無理を
するしかなかったのである。でも、サーキットならいざ知らず、対
向車のある山道で無茶をするのは、ただのあほですわな。

 そんなおり、HKSに加えて山陽気化器からもターボチャージャ
ーのボルトオンキットが発売になった。当時はターボは実用化され
たばかりで、某新聞の記事に「ターボは一度燃やした排気ガスをも
う一度エンジンに吸入して燃やすので、燃費も良くなって馬力も出
る」なんぞと書かれていた時代だった。
 で、学生時代から、ジェンセンのスーパーチャージャーなんかに
興味のあった僕は、ついに我慢しきれずに、耐久性の高そうなほう
の「SKターボ」を、取り付けてしまったのである。
 知らない人のために説明すると、ターボチャージャーというのは、
排気ガスでコンプレッサーを回して、エンジンに圧縮した空気をた
くさん送り込む装置である。当然、ガソリンをたくさん使って馬力
もたくさん出る。そのぶんだけ小さいエンジンを積めば、軽くなっ
て燃費はよくなるかも知れない。
 この改造は正解で、加速が良い分だけ山道は楽になった。出すべ
きスピードが一定なら、パワーがあればあるほど、テクニックは必
要なくなる。まだまだBMWには及ばなかったものの、ちょっと飛
ばす程度のツーリングにはこれで十分だった。

 このダブルエックスは、後に、新婚旅行で成田までの足にもなっ
た、記念すべきクルマであった。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

            VWK70L


 今は昔、ドイツにNSUというメーカーがあった。フランスのシ
ムカにちょっと似た、プリンツという箱型の小さなセダンを作って
いた。このセダンのエンジンは、ミュンヒというメーカーの「マン
モス」というバイクに使われたりもしていた。
 この、NSUという会社は、ヴァンケル式のロータリーエンジン
に真剣に取り組んだ、最初のメーカーだった。最初のロータリーエ
ンジンは、「NSUスパイダー」というオープンカーに積まれて、
地上を走った。
 その後NSUはマツダと協力し、2サイクルのようにオイルスモ
ークをもくもくと吐き出し、「カチカチ山」と呼ばれた耐久性の低
いエンジンを、実用に耐えるところまで改良した。そして、いよい
よ本格的な量産車として、2ローターの新型エンジンを積んだセダ
ンを発表したのである。

 このセダンは「Ro80」と命名された。現在のアウディのデザ
インなど比較にならないほどの流麗な、流体力学的な美しさを備え
たボディに、大パワーを受けとめる能力を備えた前輪駆動システム
を備えたこのクルマは、当時の、保守的で真面目なだけのドイツ自
動車工業界にあって、世界中の注目を一身に浴びていた。
 その画期的な新型車の技術を利用して、開発コストを分担して消
化するために企画されたのが、「NSUK70」である。いくぶん
小振りの直線的なボディに、「K」の表すところのレシプロピスト
ンエンジン(いわゆるふつうのエンジン)を登載したK70は、当
時の上級ファミリーセダンとしては素晴らしい内容であった。
 しかし、経営難に陥ったNSUは、これらの成果を見届けること
なく、VW-アゥディグループに吸収合併される。ここで、VWは、
後部座席下にエンジンを置く新型ファミリーカーの製品化の代わり
に、前輪駆動車を次世代のメインに据えることを考えているところ
だった。彼らはこのクルマの先進性を見抜き、市場への調査を兼ね
てVWのブランドのもとで販売することに決定したのである。

 僕はこのK70を、ナショナルモータース(現福井ヤナセ)の車
両置き場で発見した。ブルーメタリックに塗られた直線的なセダン
は、すでに当時の人気車種へと成長したゴルフの陰に隠れ、いわゆ
る「不人気車」として、社用車に使われていたのである。
 簡単な交渉でこのクルマを20万で購入した僕は、「福井欧州車
クラブ」のツーリングのたびに、箱根や鈴鹿や高山へと走らせた。
故障らしい故障はウォーターポンプの交換くらいだったが、その修
理の手際の悪さに、僕はいささかうんざりしたりもした。日本で輸
入車の信頼性が低いのは、メンテナンスの悪さ、それもメカニック
の能力ではなく、正規外車ディーラーの商売に対する姿勢に、大き
な問題があるのではないだろうか。

 このクルマは、当時の技術を考慮するなら、ファミリーカーとし
ては優秀であったと思う。広い室内、大きなトランク、見切りの良
いコンパクトなボディ、不足のない動力性能など、何一つとして特
徴は無いものの、道具としては合格であった。
 しかし、僕はこのクルマと暮らすうちに、自分の性格をはっきり
と思い知ったのである。それは、僕は、ものごとの長所や魅力的な
点だけを見つめるタイプの人間だということであった。
 そんな僕にとって、問題となるような欠点は何一つとして持たな
いかわりに、これといって突き抜けた魅力を持たぬドイツ製のファ
ミリーセダンは、まったくつまらない存在でしかなかったのである。

 色を原色のスカーレットに塗り変え、コルビューのバケットシー
トやプッシュボタンのセル・スターターを取り付け、いろいろいじ
ってみたのだが、結局飽きてしまった。運転していても、何か「お
仕事」をしている感じがどうしても拭えず、人生が灰色に感じられ
るような、そんな退屈を感じてしまう。

 このクルマを手放したとき、僕は、社会的な意義や評価はどうで
あれ、どんなに欠点があろうと評論家がけなそうと、自分が好きだ
と感じる事のできるクルマだけを、これからは乗る事にしようと決
心した。もちろん、これは僕の趣味の問題であり、クルマのせいで
はない。僕は、クルマに限らず、たぶんとても好みがはっきりして
いて、いろいろなものに対して、うんと興味があるか、まったく興
味がないかのどちらかなのだろう。

        【一緒に暮らしたクルマたち】

           ホンダS600


 現在、日本の自動車産業は、その技術において世界の頂点に立っ
ている。コストに制約のある量販車種のコンセプトはともかくとし
て、金に糸目をつけないF1やWRCの成績をみれば、一目瞭然で
ある。しかし、ほんの30年ほど前の国産車というものは、それは
それはお粗末なものだった。下がるドア、折れる板バネ、漏れるラ
ジエーター、ダレるエンジン、雨と坂道で怪しいブレーキ、運転席
のとなりが「助手」席と呼ばれるにふさわしいような、そんな時代
であった。

 外国から設計図を買って造っていた時代から少し後、日本のメー
カーはこれらを下敷きにしてオリジナルの製品を造り始めた。最初
はトラック、そしてライトバン、そして、ライトバンの設計を手直
しした乗用車が、少しづつその種類を増やしていた。マスターライ
ンからクラウンが分離し、ブルーバードやコロナ、ファミリアにコ
ンパーノ、ルノーの匂いを色濃く残したコンテッサ、金庫のような
コルト、むしろグロリアの祖先といってよい初代スカイライン、そ
ういう実用車が「金持ちのシンボル」として君臨していた、そんな
時代に、世界中の自動車メーカーが冷や汗を流すようなクルマが、
ホンダから発表された。

 あのフェラーリですら、SOHCというしょぼいエンジンしか市
販車には与えていなかった時代に、4気筒のDOHC、それも、1
1000まで軽々とまわる本物のDOHCエンジンに4連装のCV
キャブを備え、世界中のどのクルマにも似ていない画期的なサスペ
ンションを与えられて、S500はデビューした。その後すぐに6
00CCに拡大されて「ホンダS600」となったこのクルマは、日
本のクルマを安いだけのまがいものとして見下していた、全世界の
ジャーナリストたちの、度肝を抜いたのである。

 5月のある日、国道8号線のトヨタディーラーの片隅に放置され
た銀色のS600を、僕は見つけた。事故車のモーガンを買い取っ
て修理しようと企んでいたところだった僕は、このS600にとて
も魅かれるものを感じ、簡単な交渉の末に40万で買い取ってしま
った。ぼろぼろだったが車検は残っていた。
 かかりつけの修理屋に持ち込み、錆びた部分を切り張りしてから
パテで形を整えてもらった。純白にペイントして軽く整備しただけ
で、僕のS600はとても調子よく走った。
 ある日、ホンダのATC(三輪のバギー)を買ってから馴染みに
なったバイク屋にS600に乗って行ったところ、そこのオーナー
が整備をしてやるという。この男は、かってはホンダのワークスラ
イダーをしていた男で、カートの全日本チャンピオンにもなったこ
とがあるのだが、職人肌というと聞こえは良いが偏屈者で、客を選
ぶので商売が傾いていたほどの「職人肌」である。
 彼の整備を受けてから、S600は変身した。今までは7500
まで回して「よくまわるなぁ」と思っていたエンジンが、どのギア
でも9500はおろか11000までぐいぐいまわり、クゥォオオ
オオオオーンという澄んだ音をたてながら加速を続ける。

 芦原から越前海岸へと、オープンにして走る。松林の中をうねる
道はのぼりくだりを繰り返す。セカンドで9000まで引っ張って
サードへ。コーンという排気音が少しだけトーンさげ、次のコーナ
ーが迫る。細いシューズのつま先でフルブレーキング、かかとでア
クセル、ギアをセカンドに。見えない手が後ろから掴む。身震いす
るクルマに舵をあたえ、腰で感じながらアクセルを開く。軽いスキ
ール音をたてながら、白いオープンカーは緑の中を泳ぐ。頭上から
は初夏の木漏れ日、眼下の海は群青にさざめく。
 大野の山奥でギヤをすべて壊し、古いタイプ3のワーゲンに引か
れて帰ってきたこともあった。鈴鹿サーキットの帰りにダイナモが
壊れ、かろうじてスモールだけをつけて帰りついた事もあった。
 耐久性に不安のあるチェーン駆動の後輪やデフのベアリング、水
仕舞いが悪くて腐るフロントフェンダー、セカンドにシフトしてか
らでないと入らないノンシンクロのローギア、口だけマニアの予想
を裏切って、とても扱い易いエンジン、そして、乗ったものにしか
わからない、操縦することの楽しさ。

 旧車と呼ばれるもののほとんどは、現代の路上ではその欠点があ
からさまになるが、S600の運動性能は現在でも第一級である。
 ホンダがまだホンダであった時代、未熟な工業水準を熱意と知恵
で補いながら、技術者たちは、世界の一流メーカーがひしめく世界
へ、真正面から敢然と斬り込んで行ったのだろう。


 僕は、古今東西、これより素晴らしいスポーツカーを知らない。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

           パルサーとシティ


 福井の結婚式は派手である。花嫁が、ゴンドラや篭に乗って登場
したり、ドライアイスの白煙の中、バベルの塔のようなケーキの土
台に切り込みをいれたりする。イベントが大きくなると、「ついで
だから」とすべてが派手になるのは、ど田舎の小金持ちの習性なの
かも知れない。
 いつの頃からか、嫁入り道具にクルマが入るようになった。たい
ていは、赤くて小さいクルマである。タコメーターがついてなくて、
代わりに、化粧鏡とちゃらちゃらした内装がついてくるアレである。
 僕はクルマの好みがうるさいので、どうせ持ってくるならジムニ
ーにしろと言ったのだが、当時の奥さんはまだ感化されていなかっ
たので、世間の常識に媚びを売ってパルサーを買ってきてしまった。
 今は、後ろだけスノーを履いたベンツを冬に見かけると、「セカ
ンドカーにジムニーのひとつも買えないんかー」とこきおろすくら
い感化されてしまったのだから、19年の歳月は偉大である。

 さて、このパルサー、アルファスッドの不振をリカバーするべく、
天下のアルファロメオがニッサンと一緒に開発した車種ではあるが、
実用車以外の何物でもなかった。
 エンジンは、当時のスターレットの3K型エンジンが霞んで見え
るほど良く回ったが、ヒステリックに石油資源節約をわめきたてる
無知なマスコミへの対策のせいか、常識はずれのギア比と減速時の
無理な燃料カットのせいで、エアコンをつけたままだとブレーキを
かけるたびにエンストした。こんなクルマでは乗る気も失せるから、
不用不急のドライブは減って、確かに資源節約にはなったかもしれ
ない。
 そんなわけで、お出かけにはいつもセリカを使ったため、一年た
っても2000キロしか走行が伸びず、家に置いといたのではクル
マがかわいそうだという事になり、買い替える事にした。

 当時のファーストカーは、パーソナルクーペとしては国産最高ラ
ンクのセリカダブルエックスだったので、奥さんの足にするなら、
中途半端な見栄を張ったクルマでは意味がなかった。正妻にブルッ
ク・シールズがいたら、大衆タレントの妾なんぞ意味はない。で、
血も涙も見栄もない、実用一点張りのホンダシティを買う事に決め
た。

 このシティというクルマ、還元触媒の技術の発達によって今では
すっかり姿を消した、CVCCという燃焼システムの完成形とも言
えるエンジンを積んでいた。簡単に言うなら、ちょびっとのガソリ
ンをきちんと燃やして、燃え残しや燃えすぎを防ぐという方法であ
る。原理としては、副燃焼室タイプのディーゼルに似ている。
 このエンジンの欠点は、ひたすら馬力がない事に尽きた。おまけ
に、当時のホンダのATは、「無段変速」というセールストークに
飾られた、じつは2段変速ミッションで、シティにはODのついた
3段が与えられたものの、上り坂の定員乗車でエアコンをつけたら、
月面探検車のような加速しかしなかった。
 僕は、無駄な労力を極端に嫌う性格なので、なんとしてもオート
マが欲しかったのだが、理想と思えるターボ付きのATは、いつま
でたっても出現しなかったので、すべての低価格日本車を丹念にチ
ェックしたあげく、シティハイルーフの電動サンルーフ付きAT、
というやつを購入したのである。

 このシティは、塗装の耐久性の無さや加速の悪さ、エアコンの耐
久性の無さ等、大きな欠点はいくつもあったものの、その小さな外
寸と良好な視界がとても便利で、奥さんはとても重宝していた。た
だ、交差点で信号待ちをしていると、ガキやジジイが右折車のレー
ンからかぶせるように発進して割り込むので、とても腹が立ったも
のである。
 
 ある日、馴染みの修理工場に、車高が1メートルほどのシティタ
ーボを見つけた。たんぼに背面跳びで突っ込んだらしい。即座に5
万円で買い受けたあと、シティとシティターボのサービスマニュア
ルを発注した。ホンダは、僕の知る限りではただ一社、ユーザーに
サービスマニュアルを売ってくれるメーカーである。
 さて、S600だけをぽつんと置いてあった広大なガレージに事
故車を運び込み、さっそく作業を開始した。まずシートをすべて外
し、洗剤できれいにしたあと乾燥させた。次に、センターコンソー
ルもろとも、高性能カセットステレオを移植した。これだけでも、
払った代金5万円の価値はある。初代アコードのオプション組み付
けをバイトでさんざんやっていたので、合理化された設計のシティ
なんざ簡単なもんだ。
 さらに作業は続く。実は、この事故車を見つける前に、アコード
のスクラップを自分ひとりでばらばらのばらばらにしていたのだ。
それは、アコードの1800ccのエンジンを、わが家のシティに
積み替えようと策略していたのである。腰下が高いだけだから、ボ
ンネットを加工すれば入るのだ。もちろん、この計画は、シティタ
ーボを手にいれたときに変更になった。そして、作業は、終了した
のである。

 城の橋陸橋下りの交差点、重箱のようなセドリックが右折レーン
に並ぶ。ドライバーは50位のジジイ、見た目は「大人」の社会人
である。交差道路の信号が黄色になる。ジジイはじりじりと前へに
じり出る。信号が全部赤になった時点でずるずると発進。前方の信
号が青になった。僕はアクセルを床まで踏む。スリップレィシオの
大きなトルコンのせいで、コンバックスエンジンは一気にターボゾ
ーンまで吹け上がり、一呼吸置いてずんぐりしたボディが前進を開
始する。一瞬で、信号無視のジジイのセドリックに並ぶ。悪あがき
するジジイは、対向車線を必死で加速しながらも、シティを追い越
そうと頑張る。噴水のようなブーストメーターがオレンジに輝く。
クラクションを鳴らされながら対向車線を走り続けるジジイのクル
マは、みるみる小さくなってルームミラーに吸い込まれていった。

 いまはもう、こんないけない事しないよ。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

          ハイエースロングバン


 人や物をA地点からB地点へ移動するのが、自動車の機能である。
いわゆる自動車評論家は、自動車の性能というと、とかく加速や乗
り心地やコーナリング能力ばかりを問題にするが、本当はもっと大
事な性能が別にある。それは、積載能力である。
 我々がクルマを必要とするとき、多くの場合はほかの手段でも間
に合うが、大量の荷物を運搬するときだけは、クルマ以外の手段は
代用がきかない事が多い。全部で100キロなどという量の荷物は、
自転車や電車では非現実的である。

 長男、明が生まれてから、二人だけの外出は次第に困難になって
きた。下馬町に奥さんの実家があるので、預けて遊びに行ったりし
ていたのだが、物心がつくにつれて、置いていく事が難しくなるの
である。僕たち夫婦は、子供に自分の精神を依存させたりはしない
ので、実家に預けたままでも少しも気にならないのだが(^^)、子供
のほうがぐずるのだ。
 ダブルエックスとシティとS600の3台を保有していた当時、
子連れの外出にはシティを使用していた。屋根が高いので、室内で
作業をするのが楽だからである。どんな作業かというと、子どもの
おしめをとっかえたり、ミルクをこさえたりである。しかも、後部
座席に乳児ひとりを放り込むわけにもいかず、奥さんが子供の世話
をするには、スポーティなクーペは、あまり使いやすいクルマでは
なかった。我慢が嫌いな僕は、家族で便利に遊びに行けるよう、5
年乗ったダブルエックスをワンボックスに買い替える事にした。

 さて、いまでこそ、RVなどというハイカラな呼称が定着してい
るが、ほんの10数年前の日本では、それらは「貨客兼用車」と呼
ばれ、普通のユーザーには見向きもされなかった。しかも、「ワゴ
ン車」と呼ばれたワンボックスワゴンこそ、いろいろな装備が選択
できたものの、4ナンバーのバンではATもツインエアコンも選べ
ないような、そんなお粗末なモータリゼーションしか持たぬ、貧し
い時代であったのである。
 こういう時にいつも感心するのは、トヨタの商品展開である。ト
ラック系の技術ではニッサンのほうが信頼できるのは、商用車のユ
ーザーの間では常識なのだが、キャラバンの4ナンバー車ではディ
ーゼルにしか選択できなかったATが、ハイエースではガソリン車
を選んでも、選択できたのである。ボンゴブローニィでは、ATそ
のものの設定すらなかった。生活の道具としてのクルマにとって、
雪道でスリップしやすく渋滞路でイライラするマニュアルシフトな
ど、今更とても我慢できるものではなかったので、僕たちは必然的
にハイエースを選択した。

 全長4.7m、全幅1.7m、全高2.0mの小型貨物車の枠い
っぱいのボディを、運転席を前輪の上にまで追いやって確保した荷
室は、ほんとうに広かった。5人がゆったりと座ったその後ろに、
2m以上の空間が残るのである。ここは、3輪バギーやテーブル、
パラソル、4輪の二人乗り自転車やバーベキューグリルのための荷
室になって、僕たちは休日ごとに山や海へと出かけていった。
 むろん、当時はいまのようなブームではなかったので、必要な装
備は自分で工夫するしかなかった。水道パイプを利用した取り外し
可能なソファや、水道の蛇口を取り付けたポリタンク、セダンの運
転席を流用したセカンドシート、しょぼいクーラーを援助するため
に、屋根に貼ったクッキングホイル。中でも大物は、ホバークラフ
トの運搬のためにこさえた、カーゴトレーラーであった。トレーラ
ーの車庫入れなどというのは、一種の幾何学パズルだよ。タグボー
トの船長気分で、せっせと稽古したものである。

 ハイエースは、運転席の乗り心地はあまり良くなかったが、後ろ
はそこそこだった。二人目の子供が生まれるまで使っていた。長男
の明は、このハイエースがとても気に入っていた。借りていたガレ
ージに、夜遅くS600をいじりに行ったりするときも、喜んで乗
り込んできた。子供にとってこのクルマは、遊びに連れて行ってく
れるよい相棒だったのである。
 もちろん、仕事にも使った。金沢に進出した客のために、テーブ
ルやイスをヘッドライトが空を照らすほど積み込み、何度も運んだ
事もある。僕たちが駅前から引っ越した時も、荷物はすべて、この
クルマで運んだ。自動車評論家には、ハンドリングだの動力性能だ
の安全性だのを、ぼろくそに馬鹿にされてこそいたが、僕たち一家
にとってこのハイエースは、なにものにも代えがたい便利な道具だ
った。むき出しの鉄板や振動や騒音なんぞ、そこから始まる楽しい
一日と比べたら、とるに足らないちいさな不満だった。

 一度、車検のために工場へ持っていく時、明が一緒についてきた
事がある。行きつけの修理工場で代車のコロナに乗り換えようとし
たとき、明は突然、ぽろぽろと涙をこぼした。メカニックをはじめ
みんなが心配して、どこか具合がわるいのかと聞くと、涙声で彼は、
「ハイエースで帰るー」と繰り返していた。いつか聞かれて、古く
なったクルマは新しいのと買い替えると答えた事があったのは、こ
の、誰も見向きもしないような大きいだけのバンの、行く末を心配
してのことだったのだと、僕は、その時にはじめて知ったのである。

 明はその日、家に帰ってもずっと泣いていた。
 
 




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