2018/08/20(月)20:48
『親愛なるキティーたちへ』小林 エリカ
アンネと同じ時代を生きた父と戦争を重ね合わせ、アウシュビッツからオランダアムステルダムの隠れ家、アンネの生まれたドイツフランクフルトへの旅をつづったお話です『マダム・キュリーと朝食を』『光の子ども1』に続き3冊目、色のない絵も印象的です戦後70年ですが、今の日本の閉塞感、やり場のない怒りの高まりは開戦前夜に似ているのではないかと思うこの頃です「長期間の不景気と貧困、その原因をユダヤ人になすりつけようとする人たちが現れ、ヒトラーがドイツ首相に就任した・・・オランダのベステスボルク中間収容所、アンネたちが捕えられ、アウシュビッツへ移送される前に収容されていた建物。戦後はナチスとその協力者の収容所となった、その後インドネシアモルッカ諸島の難民たちが収容された。」なぜかインドネシアは戦前、オランダの植民地だったことはなんとなく知っていた「ヨーロッパの国々は香辛料を求めるため東南アジアの国々を植民地にした。その後、日本がインドネシアに侵攻してきてオランダ領東インドを占領した。日本敗戦から二日後、日本軍によってオランダ植民地政府から解放されていたスカルノらがインドネシアの独立を宣言。しかし、オランダはそれを認めず軍を派兵、インドネシア独立戦争へと突入してゆく。1950年、インドネシア共和国は独立を宣言したが、オランダ軍の一員として働いていたモルッカ諸島のアンボン人たちは反撃を恐れ、南モルッカ共和国としての独立を宣言。オランダはインドネシア共和国に対抗しようとしたが失敗。3万5千人のアンボン人たちは本国オランダへ移住。そしてたどり着いた先がベステスボルク中間収容所跡だった。」という結末は初めて知った。日本軍が侵攻しなければインドネシア独立はなかったのだ70年以上も前に書かれたアンネの日記から、いまも変わらない人間の普遍的なことを少し・・・「1944年5月3日、いったい全体、戦争がなにになるのだろう。なぜ人間はおたがい仲よく暮らせないのだろう。なぜ、人間は、ますます大きな飛行機、大型の爆弾をいっぽうでつくりだしておきながら、いっぽうでは復興のためのプレハブをつくったりするのでしょう?毎日何百万という戦費を費やしながら、そのいっぽうでは、医療施設とか、芸術家とか、貧しい人たちとかのために使うお金がぜんぜんない、などということが起こりうるのでしょう?世界のどこかでは、食べ物がありあまって、腐らせているところさえあるというのに、どうしていっぽうには飢え死にしなくちゃならない人たちがいるのでしょう?いったいどうして人間は、こんなにも愚かなのでしょう?」
【楽天ブックスならいつでも送料無料】親愛なるキティーたちへ [ 小林エリカ ]【内容情報】(「BOOK」データベースより)
ひとりひとりが、その人生の選択の余地を、握っている。-ユダヤ人の少女、アンネ・フランク13歳。私の父、小林司16歳。戦争という同時代を生きた二人の日記に導かれ、ドイツ、ポーランド、オランダへ。死から生へと向かう、命の感触をもとめた17日間の旅。