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うちの猫はデブ

うちの猫はデブ

2011/01/04
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 よくクールスとはどういう関係なんですかっていうメッセージをいただきます。昨年のアメフェスのパンフレットに書いた原稿があるのでそれをそのまま流用して説明とさせていただきます。アラフォー以上の世代向けのネタでしょうね。
 『私とクールスの事を書いてみたいと思います。最初は40年前のジミーとの出会いが始まりです。当時彼は歌舞伎町でプラプラしてた不良で、すごく存在感のある奴でした。自分はジャズ喫茶(当時のライブハウス。その頃あったサンダーバー ドという店でマネージャーやってたのが今の名物芸能マネージャー野田社長)で ドラムたたいてました。ジミーはお店でよく唄ってたけど、うまかった。ファッ ションも雰囲気も今と全然変わってない。変わったのはアタマだけ。よくケンカして血だらけになってたっけ。その後年月が経って、私がトリオレコード(いまのケンウッド)という会社で宣伝プロデューサーをやってた時、偶然彼と会いました。何してんのよという事になって、話を聞いてみると、クールスというR&Rのグループをやってるんだけど、リーダーと別れて、今レコード会社を捜してると言うじゃありませんか。当時のトリオはろくなアーチストがいなくて、自分も探してたとこだったので、『じゃあうちでやれよ。いち押しでやらせるから』と半ば強引に契約させました。ジェームスの歌とセンスは昔から良いと思ってたので、なんとかなるだろうと考えてました。でも契約したのは良いけれど、キングレコードからクレームが来て、クールスの名称は登録してあるから使用しないでくれという事でした。そこで私が一晩寝ないで考えたのがクールスロカビリークラブでした。どうよって言ったら、いいんじゃないって簡単に納得してくれたのを覚えています。ただ、このネーミングでクールスの音楽性をかなり偏ったものに誤解させたと思っているので、今は悪かったなあと思っています。スゴいグループなのに、音楽評論家の拒否反応にあってしまったのです。山下達郎(当時はクールスの方が売れてた時に私がセンチメンタルニューヨークのアレンジをさせた)や近田春夫はすごくジミーを認めてくれたけど…
 当時クールスロカビリークラブというアルバムでデビューしたんだけど、これが最悪だった。制作部長が外部からプロデューサーをつれてきて、そいつに全部まかせちゃった。そいつはフォーク歌手だったみたいで、R&Rなんかわかってやしない。山のなかのスタジオにメンバーを閉じ込めて、すでにスタジオミュージシャンでレコーディングが終わってる他人に作らせた曲をもってきて、さあ唄えと言う。打ち合わせなんてあったもんじゃない。みんなお前が唄えって譲り合ってた。当時私は宣伝担当だったから連中の不平不満を聞く係でした。それで出来たのがあの『クールスロカビリークラブ』。当時アメリカのプレイボーイと契約して立ち上げたプレイボーイレーベルの第一弾でのデビューでした。宣伝プロデューサーとしては、鳴り物入りのデビューだから失敗は許されませんでした。評論家の支持を取り付けられなかったから、もっぱら雑誌のグラビアと広告でそのキャラクターを前面に押し出してのイメージ戦略をとりました。ハーレーがすごく効果的だったのを覚えています。当時Mr.Bikeの編集長に気に入ってもらって、そこと男性誌にやたら特集してもらいました。逆にそれが良かったみたいで、アルバムは成功しました。トリオレコード始まって以来のアルバムセールスでした。キングレコード時代のセールスを抜いたのが嬉しかった。ただメンバーはやらされたレコードだから面白くなかったようです。そんな頃ジミーと話して、曲作ってるんだったら聞かせてく
れよということで、聞かせてもらったらスゴかった。制作部長にすぐ2枚目を創らせてくれと直訴しました。私がやるから1枚目のスタッフはやめさせてくれとお願いしたら、信頼されてたみたいで、じゃあまかせるからやれといってもらいました。だからトリオの2枚目からはレコードの企画番号が違うはず。とにかくジミーをせっついてオリジナルを作っていったんだけど、詞がなかなかあがらない。どうしても2曲の詞ができなかったので、私の奥さん(当時は結婚してた)に書かせました。それがキューティスーとあの娘はマタニティでした。この詞をのぞいてあとはすべてクールスでしあげました。荒削りな演奏でしたがすべてメンバーで演らせました。絶対に会社の連中にはレコーディングを見せませんでした。何を言われるか分かったもんじゃなかったから。でもアッツイ演奏でした。勢いのある演奏でした。一番の掘り出し物はジミーのアレンジとギターワークでした。彼のギターがク
-ルスの色を創ってると言っても過言ではありません。そうして完成したのが私が最初に創った『BE A GOOD BOY 』。ジャケットの写真は私がいつも車で通ってた甲州街道の大原交差点そばのガソリンスタンド(今はありません)で撮影しました。めちゃくちゃ自信作でした。何と1枚目を出して5ケ月後の発売でした。これが本当の意味でのクールスのデビューアルバムだと思っています。御陰様で1枚目のクールスロカビリークラブの3倍以上売れました。クールスの音楽性が認められたんだと思いました。当時のジミーは湯水のごとくメロディーを創ってきました。創ったワンフレーズを入れたテープを二人で聞きながら、えらんだフレーズを1曲の作品に仕上げていくのです。そうやって出来たのが『THE COOL』。『BE A GOOD BOY』を進化させた、よりクールス色が確立されたアルバムだと思います。当時クールスには事務所がなく、私がマネージャーからファンクラブの運営まですべてやっていました。クールスのキャラクターグッズを企画したり、ファンクラブの会報(すべて手書きの会報でした)を書いたり、大変だったけど楽しかった。いろんなことがありました。ジミーとスタジオで殴り合いもしました。良い思い出です。この2枚のアルバムをもとにライブアルバムをレコーディングしたんだけど、それが『デッドヒート日比谷』。いろいろな意味で苦労させられたアルバムです。信じられない事をやっていますがナイショです。クールスも35周年。あの思い出イッパイの日比谷で9月にライブをやります。死ぬまでR&Rやってくれると思います。これからも応援してやって下さい。もちろんアメフェスも。    
           スーパーアメリカンフェスティバル事務局代表 増井淑博
      (2010年のスーパーアメリカンフェスティバルパンフレットより)






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Last updated  2011/01/05 02:07:35 AM



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