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やさぐれ同盟

彼女の耳と絶望郵便

彼女の耳と絶望郵便                          

「耳の穴って不思議じゃない?」
と彼女が言うので、思わず頬を小指で掻いて「え?」と間の抜けた調子で聞き返してしまった。耳の穴とおっしゃいましたか?
「頭の中まで続いているのよ」
とてもイタリアンレストランで交わされる男女の会話とは思えないが、彼女はいつもそんな風に突拍子もないことを時と場所を構わず切り出してくるエキセントリックな人物だったので、僕はすぐに耳の穴について考えを巡らせてみた。それにしても、今までの人生の中で耳の穴について考えたことなんてあっただろうか? 耳の穴の中には何があって、どこへ繋がっているのか、僕ははっきりとは知らないことに気づいて少しだけ不気味な気がした。夜中に眠り込んでいる僕の耳の穴に一匹の虫が侵入する。虫は曲がりくねった穴を這い進み、鼓膜を擦り抜け、三半規管を遣り過ごし、脳を喰い破り、反対側の耳から抜け出す。そんなことがあってもおかしくなさそうだ。
彼女はパスタを投げやりな感じでくるくるとフォークに巻きながら、ちょっと深刻そうな顔をした。どうやら何かを言おうか、言うまいか迷っているようだった。やがて、俯いた顔を勢いよく上げると、やけに真剣な表情で声を潜めて言った。
「最近、変な夢を見るの」耳をそばだててもやっと聞き取れるくらいの声だった。「昨日は猫林檎の夢だったわ」
ねこりんご? 聞き覚えのない言葉だ。真っ赤な林檎色した猫が木になっていて、いくつもぶら下がっている。まだ熟していない猫は青くて酸っぱいのだろう。科学者が猫が木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見するかもしれない。ジューサーミキサーで擦り潰せば果汁100%の猫林檎ジュースの出来上がり、ひょっとすると自動販売機でも買えるかも。
「違う違う。猫林檎は猫の形をした林檎なの、髭が生えてて、三角の小さな耳がついてて、尻尾がひょろりとしてるの。黒かったり寅柄とか縞柄やら三毛だったりするの。それで、皮を剥いたり、まっぷたつに切ったりすると鳴くのよ」
 今日のお弁当の林檎、ウサギにしよう。にゃあー。
 私、林檎の皮を切らずに剥けるんです。ふぎゃあー。
「今日、目が覚めると枕元に猫林檎が転がってたわ」と彼女は言った。困ったような、何でもないような曖昧な言い方だった。その口調が気になって僕はその猫林檎をどうしたのか聞いてみた。
「一口だけ食べたわ、でもまだ熟してなかった。だから残りはジャムにでもしようかと思って鍋で煮込むことにしたの」
 なるほどジャムか。アップルパイにしてもおいしそうだね。カレーの隠し味にも使えそうだよ。切り刻んで煮込むわけだ。鍋でぐつぐつ、じっくりと。
僕は辺りを見回した。レストランには、夕方の和やかな空気が料理の匂いと一緒に漂っている。ウェイターがいつの間にか空になった僕と彼女の皿を優雅に下げていく。その間だけ僕達の会話は途切れる。猫林檎がどこかへ転がり落ちていく。それを追いかけるように、僕らは店を出ることにした。
街の雑踏にたちまち呑み込まれ、さすがの彼女もどこにでもいそうな女の子になってしまったかに見えた。人生という名の続編映画のエキストラ。脚注に書き留められたその多大勢。ETC。ETC。
「全部、耳のせいなんだわ」
はじめに言葉ありき。彼女はまさに言葉によって世界を切り開く。そして、冴えない大工の妻だったマリアが突如、聖母になったように、その時、彼女は街の群衆の中でただ一人、真実を知る人の荘厳さを背負っているように見えた。
「夢で見たことが、耳の穴から転がり落ちてくるのよ。猫林檎も、滑りジャングルジムも、隕石傘も、火星文学も、悪い子の為のユートピア建設法も、モヒカンの源頼朝も、みんな夢からわたしの耳の穴を通って、この世に飛び出してくるの」
すると、駱駝用ギターや、無音ラジオや、アンドロメダ星雲図や、ノーベル健康優良賞なんかも近い内に現れるかもしれない。なんだか、それはとても素敵なことじゃないかい? 朝、目覚めるたびに、この世ならぬものと御対面。毎日毎日それが続くと彼女の部屋は相当、愉快なコレクションの宝庫となるだろう。
「美術館が開けるくらいにね」彼女は力なく笑うと、重苦しい息を吐き出した。彼女らしくない、そんな気がした。いつも皮肉っぽい雰囲気で、どうにかして1週間ぐらい眠り続けることが出来ないものか、そうすれば、その間だけでもこの世の面倒事に知らぬ顔していられるのに、とか何とか考えているのが彼女なのに、今は虫歯が痛んでいるかのように曖昧な表情でふさぎ込んでいる。恐怖、その時の彼女の態度からは確かに一抹の恐怖が感じられた。その事自体……彼女が何かを恐れるということ自体が既に驚きだった。彼女には、喜怒哀楽という普通の人が当然のように持ち合わせている気分が欠落していたけれど、だからこそ、ある種の倦怠と憂愁に彩られた気品を備え、それが彼女特有のしなやかな強さとなっていたはずで、何かに恐怖するなんて地上的な感情とは無縁な人物であるべきだったし、事実そうだった。それが今や、生まれて初めてすべては死にゆくことを知ってしまった子供のような漠然とした、しかし強固な不安に雁字搦めになってしまって、どうすればいいのか途方に暮れているみたいだった。まったく、彼女は途方に暮れているように見えた。溺れるものは藁をも掴む。僕は喜んで藁になるよ。
「怖いの?」と僕は聞いた。
「少しだけ」と彼女は答えた。
「少しだけ怖いの?」おうむ返しに聞き返し、少しだけ間を開けて付け加える、「何が?」
彼女は答えない。無言。もしもし? もしもし? どちら様ですか? 
僕達は街の雑踏を、人波の流れに乗って歩きながら、自分達が孤独に捕らわれていることに気づいた。他人の顔が目の前を通り過ぎるたびに、彼らが自分と何の関係もないんだということを思い知らされる。孤独。少しだけ怖いと彼女は言う。多分、少しだけというところが重要なんだと思う。生命に危険が及ぶような強烈な何かを恐れることは、むしろ単純な感情であって、恐怖というのはもっと観念的な違和感に近い。「何が?」という問いに彼女は答えなかった。つまり彼女は「何か」を恐れているのではなく、「何かを恐れるということ」に不安を覚えているのだ。そして、そんな彼女の個人的かつ無意識的な情動に僕が解決策を施すなんて最初から無理な話だ。僕は凡庸な男にすぎない。いやしかし、凡庸な男には凡庸な男なりの上手いやり方というものがあるのかもしれない。
僕は彼女を見た。彼女はゆらゆらしながら歩く。まるで世界に張り渡されたタイトロープを綱渡りしているかのように、その歩き方は絶望的で英雄的だった。大勢の人の通行の邪魔をしながら彼女は進んでいく。夜が控えめにやって来て、街はネオンの光を灯して都会の空を明るくする。人々はそれぞれの目的地を目指してどこかへ急いでいく。僕達には目的地がない。僕にも彼女にも居場所なんてないんだ。少しずつ、少しずつ漠然とした不安に蝕まれながら疲れ果てていくだけさ。彼女だって普通の女の子と少しも変わらない、そうだ、誰だってはじめから組み込まれている。僕には凡庸という役割が、彼女にはエキセントリックという役割が与えられていたにすぎない。それだけのこと? それだけのこと…。
僕達が辿り着いたのは、大きな公園のベンチの一つだった。太陽が沈めば、公園の所有者ははしゃぎ回る子供達ではなく、陳腐な恋人達のものとなる。僕はその末席をささやかに汚したことになるのだろうか? むろん彼女にはそんなことどうでも良かったろうし、実際、僕らには恋を語るなんて高尚な趣味は似合わない。彼女はベンチに深く腰掛けて、真っ直ぐに空を見上げた。柔らかな風が彼女の髪を掬いあげ、ぼくの頬を舐めて木々の間に消えていく。「夜」と彼女の口から息が漏れるように言葉がこぼれ落ちてきた。
「もう夜なのね。夜がやって来てしまったのね」彼女の疲れた声が、何だか僕はいとおしく思える。やがて彼女は真剣な目つきで僕を見つめて、宣言するような強い意思の籠もった口調で言う。
「いい? 絶対にわたしを眠らせないで!」
「いいよ」と僕は肯定する。彼女の試すような視線が不思議そうにくるりと動く。僕はにっこり笑ってみた。彼女の喜びそうなことはすべてして上げたい。そんな気分だ、今は。
「どうしてって聞かないの?」無条件に受け入れられることに慣れていない人間の、善意に対するある種の不信感。捨て猫みたいに孤独。
「僕は夜が明けるまで話し続ける。君が望むなら、どこへでも連れて行ってあげる。とにかく君を眠らせない。ついでに退屈させないように努力する。それが今日の僕の仕事だ。理由は君がそうして欲しいと言ったからだ。それ以上の意味はいらない」
彼女は呆然と僕を見て、何とか僕の言葉の真意を理解しようとして、すぐに諦めた。不自然なものは不自然なまま放っておくのが自然なのだと彼女は信じていたから。彼女はくすりと笑った。小さな声でありがとうと言うのを聞いた。まったく今日は彼女の意外な一面のオンパレードだ。
そして僕は話し始めた。公園内のどこかで囁かれる見知らぬ恋人達の睦言が微かに聞こえてくる。彼女は僕の話に耳を傾けていて、それには気づいていない。樹木の軋む音、寝惚けた鳥の羽根の擦れ合う音、遠くの街で誰かが笑っている声、ブレーキ音、猫が忍ばせたはずの足音……いろんな音が聞こえる。僕は話を続けながら、そんな音を聞いていた。美しい。ふいに世界は美しいと思った。どうして人が笑ったり、怒ったり、悲しんだり、恋したりするのか分かった気がした。叩き売られようが、どうしようが愛は愛。愛こそすべて。だって、それ以外に何がある? 愛なんて言い訳にすぎないかもしれないが、それすら失ってしまったら、言い訳すら出来なくなってしまう。ああ、はやく夜なんて明けてしまえばいいのに、そうすれば僕は彼女に告白するだろう。何だかよく分からないけれど、多分、僕は君のことが好きだ、と思う。試しに愛し合ってみようよ…下らない。下らない。そんな俗な関係に彼女を引きずり込みたくない。彼女は違うんだ。僕と彼女はもっと新しい、曖昧さで繋がっているんだ。絆だ。花と、その蜜を吸いに訪れる虫との間にあるような関係なんだ。世界の美しさと寄り添って生きる。そして滅ぶ。
彼女は泣いていた。声は喉の奥に大切に仕舞い込まれたままだった。涙が線を引いて頬を伝って膝に落ちる。僕は何か悲しい話でもしていたのだろうか? とにかく気がつくと彼女は静かに泣いていたのだ。沈黙。テス、テス、只今マイクのテスト中。話の続きが行方不明です。
 僕はいつだって大事なことを取り逃してしまう。それはきっと、とても大事なことなので気づいた時には取りかえしがつかない。ゲームオーバー。手遅れです。
「僕は何の話をしてたかな?」聞いてみた。
彼女はとろんとした眠そうな目つきで涙で濡れた自分の膝をぼんやり見ながら言った。
「何も」
言ってから彼女は何かを諦めきった様子で囁くのだった。涙が後から後から噴き零れていたが、今にも眠り込んでしまいそうな感じだ。
「ごめんね。わたし、もう駄目みたい」何秒間かの間、「お願いだから」長い間隔、「私がいい夢を見られるように祈って」もっと長い間隔。彼女は眠ってしまった。
僕はすべてに見放され、世界に追い越され、人々に取り残されてしまった。そんな気分だった。時計は午前3時を示している。辺りに人の気配がなくなっていた。みんなどこかへ行ってしまった。僕はここで誰よりも孤独だ。眠ってしまった彼女の頼り無い重さを肩に感じながら、僕はとても静かに嗚咽を堪えている。余りにも悲しい午前3時。
やがて何が起きるのか僕は知っている。だから、彼女の髪を掻き分けて僕は彼女の耳を覗き込んだ。耳の穴の中に目を凝らした。そこに僕は宇宙を見た。もう一つの宇宙だ。その遥かな深遠から何かが飛び出してくるはずだ。彼女はそれを恐れたのか? 次に何が現れるのか不安だったのか? 夢を見るのが怖かったのか? 僕は彼女の肩を抱いた。今、出来ることなんて、この程度のことだ。いいだろう。彼女が何を夢見ようと構わない。世界の終わりだろうが、存在の消滅だろうが、最後の審判だろうが、何が実現したって文句は言わない。どんな運命も笑顔で受け入れてやる。

「ああー。つらいつらい。どこから来て、どこへ行くのか? 知らんよ。ともかく進め! 意味も価値も後世の奴らが教えてくれるさ。ああー。つらい」
いらっしゃいませ、とでも話しかけるべきだろうか? 彼女の耳の穴から、ようやく出てきたのは郵便局員の制服に身を包んだ一匹の猿だった。しかも、よく分からないことをぶつぶつぼやきながら、こちらの様子を注意深く伺っている。僕は拍子抜けして、その猿を見つめながら、ほっと安心した。大丈夫、地球は救われた。
「君は誰だい?」やけに優しげに僕は聞いた。とびきりの笑顔を添えて。
「おいら? おいらは絶望郵便の配達猿だよ。仲間からはモッキーって呼ばれてる。今日からは、こっちの世界で仕事だよ。こっちじゃ、いろんな場所に行かなくちゃなんなくって大変なんだよね。ああー。でも、やり甲斐のある仕事じゃないし、正直な話、つらくてつらくて仕方ないよ」
絶望郵便の配達猿? モッキーは頻りに「つらいつらい」とぼやいて溜息ばかりついていて、時々、悲しそうな顔をしては、ぶんぶん頭を振って嫌な思いを振り払っていたりする。なんだか落ち着きがない。
「ねえ」と僕は彼に話しかけた。「絶望郵便って何だい?」
モッキーは訝しそうに僕を見て、「は?」と一言。なんだか怯えているような、虚勢を張っているような感じだった。少なからず緊張しているようだ。そこで慎重に、なるべく警戒心を与えないように、ゆっくりと噛んで含めるように説明した。
「こっちの世界には絶望郵便なんて存在してないんだ。だから、それがどういう仕事なのか知りたいと思ったんだ。教えてくれるかい?」
モッキーは僕の言葉についてしばらく考えてから、頷くと声を潜めて語り出した。一度話し始めると、なかなか止まりそうもない、相当の話好きなのだろう。
絶望郵便は、世界が際限なく拡大したことでそこから置き去りにされた人達の無感情を救うため、郵便局がまったくの「善意」によって世界中の欠落した心に「絶望」を送り届けるシステムであるというのが、モッキーがせわしない身振り手振りを折り込んで話してくれたことの内容だった。
「でも、どうして絶望なんだろう? 希望じゃなくて…」僕は言った。言わずにおれなかった。しかし、モッキーはその言葉に傷ついたような顔をしたので、僕は後悔した。
「いいかい? おいらは感情を失ってしまった人達を相手にしてるんだ。希望を失った人なんて、いくらでもいる。むしろ普通に生きてれば、そんな面倒なもの要らなくなるよ。でも絶望すら感じられないような人は重症さ。つらいつらい、なんてことも分からなくなっちまったら、もう生きてるとは言い難いってさ。だから、おいらがやって来て思い出させてあげるんだ。あんた、絶望せなあかんよ。そっから始めなくっちゃ、てね」
 モッキーは言ってから、自分の言葉を吟味するように、また何やら考え込んでから、ひどく疲れたように溜息をついた。溜息つくのが癖になってしまっているようだ。ああー。つらいつらい。僕はモッキーがとても心の優しい奴で、本当は自分の仕事の過酷さに嫌気がさしているんだな、と察した。
「何万通もの絶望がこん中に入ってる」とモッキーは肩から下げた鞄をばんばん叩いた。蓋を開いて中身を確認してみる。どんどんモッキーの顔色が蒼白になっていった。
「うへぇ!」とモッキーは天を仰いだ。「ちくしょう! ちくしょう!」と地団駄を踏む。鞄の中から封筒が落ちて地面にばらばらになってしまった。ああー。つらいつらい。モッキーはすぐにそれを拾い集め出したが、その間、僕はその封筒の宛て先を幾つか目にしてしまった。ああー。モッキーはこれを見て、天を仰ぎ、地団駄を踏んだのか。つらいつらい。ああー。
 戦場で余りの恐怖に神経を壊した兵士に、敵をちゃんと恐れることが出来るように絶望をひとつ。
何人もの男達に何年もの間、暴行され精神を病んでしまった女の子に、せめて憎悪を生きる理由とするために、極上の絶望をひとつ。
ずうっと両親に虐待されている子供達に、自分ではなく親の方を疑うことが出来るように心からの絶望をひとつ。
それらは確かにこの世の「つらいつらい」現実とやらのバーゲンセールだった。バナナの叩き売りだ。安いよ安いよ。
僕の肩に凭れて眠っていた彼女が軽くうめいた。モッキーがびっくりして彼女に今初めて気がついた様子でじっと見つめる。彼女はまだ起きない。その方がいいと思う。モッキーは彼女を見つめながら泣きそうになってしまった。ああー。つらいつらい。
「さっそく仕事だよ…」と鞄から一通の絶望を取り出した。どうやら、それは彼女宛のものらしかった。モッキーは恭しく、それを彼女の膝の辺りに置こうとした。だが、すかさず僕はそれを取り上げた。モッキーは、またまたびっくりして飛び上がってしまった。
「うひゃあ。何するんだよう。返してよお」
「なんで彼女が絶望しなくちゃならないんだ? 彼女は感情を失ってなんかいないぞ」と僕は言った。でも自分の言葉に自信は持てなかった。モッキーは跳びはねながら猛然と抗議してくる。
「そんなこと知るもんか! その子はとにかく今、絶望が必要なんだ。何だかよく分からない不安や恐怖のようなものを微かに皮膚で感じてるのが気持ち悪いって思ってるんだ。だから、ちゃんと絶望を与えてあげなきゃ。そうすりゃ、いろんなことがすっきりするんだってば。くっきり、はっきりするっての!」
そんなの、そっちの都合じゃないか。彼女の、その形にならない不安や恐怖はどこへ行くんだ? 絶望なんていつだって出来る。どうして、そんなもの他人から与えられなくちゃいけないんだ?
「わたしが、それを欲しているからよ」いつの間にか目覚めた彼女が僕の手から絶望を取り返し、封を切って中身を覗く。空っぽ。だが、それで彼女の中で何かが変わった。そんな気がする。モッキーは一安心といった風に胸をなでおろしたが、不謹慎だと思ったらしく慌てて手を引っ込めた。僕の方をちらっと見る。ああー。つらいつらい。
彼女は濁りのない目で、明け始めた空の彼方を眺めやる。ゆっくりと立ち上がり僕とモッキーに視線を移す。
「行きましょう」と彼女は言った。僕は立った。モッキーは背筋を伸ばして敬礼した。歩き出す彼女の後に僕とモッキーは続いた。
彼女はしっかりしている。いつもの不安定な雰囲気はあまり感じられなかった。絶望が彼女の中に蠢いていた感情以前の違和感のすべてを一緒くたにして一つのものとしたのだ。名前の無かったものに名前を与え、それでようやく彼女は自分を取り戻したのだ。多分、それはモッキーも言ったように必要なことだったのだろう。
「おいら、仕事があるから、もう行くよ」モッキーが言う。
「ねえ。わたしも連れて行ってちょうだい」と彼女。
モッキーが驚いた顔をする。彼女はくすりと笑う。
「これは、みんなわたしの耳の穴から始まったことなんだもの。わたしは見届ける義務があると思う。それに、わたしの耳の穴が本当はどこに繋がっているのか、あなたと一緒にいると分かる気がするの。いいでしょう?」
モッキーは曖昧な表情で頷きながら、「気持ちのいい仕事じゃない。それでもいいの?」などと言い渋る。気持のいい仕事じゃないから、本当はモッキーだって一人よりは連れがいてくれた方がいいと思っているに違いないのに。
「構わないわ」彼女は即答する。当然だ。
彼女は僕を見た。僕は黙って微笑んだ。彼女の耳が震えた。         (終)




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