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やさぐれ同盟

回路D

回路D

妻が犯されている、私の目の前で。拘束具を嵌められた妻の、そのフックで吊り上げられた鼻孔の奥にそっと唾液を流し込む男。その、爛れた皮膚の男の、思わず顔を背けたくなるような溶け崩れた醜悪な容貌は表情らしい表情を見せる事がなかった。天刑病! 私は慄然した。その天刑病の男は無数に吹き出た発疹から滲み出る腐汁を妻の白い肌に塗りたくった「あ」喉から漏れ出た声は掠れていて、もはや声とは呼べた代物ではない。私は疲れきって、もう眠り込んでしまいたかった。忌まわしい天刑病の事も、犯される妻の事も考えずに自分自身の感情を無の内に投げ出してしまいたかった。だが、いくら意識を閉ざそうとしても首と手足に嵌まった冷たい鉄鎖の重みが厳然と私を現実に縛りつけて離してくれはしなかった。
私は床を凝視し続ける。身体に石を埋め込まれたかのような重苦しい疲労に浸って、私は周囲がひどく頼り無い蜃気楼のようだと感じた。時と場所を選ばない睡魔が瞼に居すわって、逃げ道を耳元で囁くのだ。眠ってしまえばいい。目が覚めれば、全部なにもかも悪い夢だったと、笑ってしまえる。まったく、ひどい夢だ。                                                               

「どうして、貴女はそんなにも純粋に世界を信じられるのですか?」
 私の言葉に彼女は恥ずかしそうに微笑を浮かべながら言った。
「わたしは美しさというものを信じたいのです。わたしはどうしようもなく“きれいごと”を愛してしまっているのですわ」
それから少し困ったような顔で私を見つめて付け加えた。
「愛しています」
その時、私は生まれて初めて世界を憎悪や倦怠を抜きに対象化する事が出来た。私はその圧倒的な美しさに感動した。愛など存在しない? 確かに、その通りだ。だが、この時の気持ちを仮に愛と呼ぶのなら、私はこの時の記憶を守るためなら全てを投げ捨てても構わない。そう、彼女を守ることが、彼女の世界を守り抜くことが私にとって世界を信じられることと同義であったのだ。私は守らなければならない。
 
私は充血した視界に映る凌辱の現実に立ち返った。顔を上げ、目を見開き、妻を見つめた。妻はこの被虐の苦痛の中でさえ、なお美しく、強く、誇り高い気品を失っていなかった。誰も、彼女を汚す事は出来ない。普遍的で絶対の正義というものは存在するのだ、それを踏みにじろうとするお前は永遠に呪われるんだ、天刑病の男に向かって私は毒づいた。
天刑病の、その男はおぞましい体躯を戦慄かせ、暫くの余韻を薄汚い笑みを浮かべながら楽しむと、妻の躯を無造作に投げ出した。男のぬめりながら糸引く陰茎は、奇怪な蟲がこびりついたような無数の瘤が浮き出しており、その瘤の一つ一つが膿み潰れて黄色い毒液がじくじくと湧き出している。信じ難いほど大きく垂れ下がった睾丸は、都市を死滅させる程の伝染病の病巣とでも言いたくなる程、半ば腐り、甘い匂いを放つ赤黒い体液と溶けた肉を包みこんだ皮袋といったところだった。
男は私に近づくとアルカイックに微笑みながら言った。
「生きる事は、いつも不条理です。貴方は今、器官なき身体なのです。溶解しつつ統一へ向かう全的存在への志向性の中に生きているのです」 
 男はひどく痩せこけていた。だらしなく伸びた髪を掻きあげる。この男、その聖なる病に身を腐敗させる業苦に呻く者。私はこの男の事を全く知らない。なぜ私達がこんな目に会わなければならないのか?
「狂気に生きる人間なら容易に差異で戯れる事が出来る。だが、我々のような日常性に固執せざるを得ない人間はどうすれば自分自身という幻想を、人間という物語を棄却すればいいのか?」
男は言葉を止めて、私を見た。どうやら彼は私の言葉を待っているらしい。だが私には、この男の言っている事など何一つ理解できない。この男は狂っている、分かるのはそれだけだ。私は吐き捨てた。
「囀ってろ化物」
男の目に憎悪の影がちらついた。男は部屋の扉を開いて、一人の幼女を連れ込んだ。私の娘だった。娘の青ざめた顔に表情は浮かんでいなかった。いや、何かがおかしい。娘は虚ろな瞳を彷徨わせたが、鎖に繋がれた私にも、母にも気付かないようだった。視線は、ぼんやりと虚空を漂っているだけだった。娘はふらりと危ない足取りで、部屋の中を円を描くように歩き出した。両腕をひらひらさせ、何やらぶつぶつ呟き、そして笑いだした。それは、どこか箍の外れた笑い声だった。常軌を逸した不協和音。私は悟った。娘はもう私の知っていた娘とは違う何者かになってしまった。
「何をした」
 噛みしめた歯の奥から無理矢理、言葉を引きずり出した。怒りが靄となって脳を覆っていく。心臓がずきずきと灼きついた血液を送り出している。
 男は、くすりと笑うのだった。その意味は明白であった。猛烈なおぞましさに胃を痙攣させて私は何度も何度も嘔吐した。この世に正しさを定義できる人間など存在しない。だが、こんな事は間違っている。絶対に間違っている。それとも、これが世界の現実だとでも言うのか? 「ちなみに、その模様は録画しておきました。そのビデオは裏ルートで売りさばく予定です。最近、この手の企画は人気があるんです。全く、荒んだ時代ですね、そうは思いませんか? 貴方も見たかったらいつでも言って下さい」
 男の言葉が頭の中を滑り落ちてゆく。私は自分の掌を見つめていた。初めて、あの子を、娘をこの手に抱いた時、その命の儚い重さを感じて、私は希望の意味をはっきりと悟った。私は幸せだった。そして私と妻は娘に一つの名を与えた。「愛」という意味の名前を。その幸福は今、見も知らぬ何者かの手によって永遠に破壊された。ある種の事は取り返しがつかない。忘却の及ばぬ圧倒的な暴力こそ人が悪と呼称するアブジェである。部屋の隅で壁に向かって娘は歌いだした。
 
 I've found a way to make you
 I've found a way
 a way to make you smile

「あなたを微笑ませる方法を見つけた」そう歌う娘は狂っていても、なお、いやだからこそ美しかった。あまりにも美しかった。気が付くと私は滂沱の涙で頬を濡らして、喉元に込み上げる激情に突き動かされていた。引き千切る事など出来ないと知りつつ、鎖の縛めから逃れようと暴れ回った。私は守らなければならないのだ。妻を、娘を、そして私達の平和と幸福を。
 
男はそんな私に軽蔑しきった様子で私の腕に何かを注射した。そして世界は反転した。耐え難い睡魔に襲われて私は瞳を閉じてしまった。瞼の裏に原色の波が押し寄せて、消え去った。歌声が聴こえる。娘がまだ歌っているのだろうか。いや、歌だと思ったその物音は、下手くそなヴァイオリンの響きであるようだ。だがそれもすぐに虫の羽音に変わっていく。そのノイズに紛れて聞こえる声。「認識しなさい。生物は皆、ゲシュタルト的に構造化されている。本能の壊れた人間だけが、そこから疎外されている。私達はどうすればいい? それを、あなたは知るべきだ。そして・・・」突然の断絶、情景は変わる。真っ白な草原のただ中で私は寝ころんでいる。空は血の色に染まって、不吉な月が焼け落ちる雲に引っかかっている。「もうすぐ雨が降ります。早く此処から逃げましょう」妻がそう言って、私の手を引っ張った。すると本当に雨が降りだした。雨は甘い匂いを放ち、打たれるものを、たちどころに腐らせてしまう。 「ああ、もう駄目です。でも、あなたは死んではいけない人だから・・・」妻は私に抱きつくと、雨から庇うようにその場に私を押し倒した。私の上で妻の身体はずるりと溶け崩れていった。愛しています、愛していますと妻は腐った息と共に言った。私は妻と共に消えてなくなるのだ。それでいい、むしろそれが正しい。しかし別の手が、私を違う場所に導いた。一瞬後、私は娘と手を繋いで夕焼けの中を歩いていた。「お父さん、あたしの背、あんなに大っきくなっちゃった」沈んでいく太陽に照らされて長く伸びた自分の影を指さして娘が私の顔を覗き込みながら言った。その顔は本当に嬉しそうで、そんな娘の笑顔を見ていると、私は自分が確かに幸せだという事を実感したのだった。「あなたを微笑ませる方法を見つけた」

目が覚めると私は妻と一緒に奇妙な部屋にいた。その部屋は四方を鋼鉄の壁で囲まれていた。一方の壁には扉があったが、当然のように鍵が掛かっている。何よりも奇妙なのは天井だった。その天井はガラス張りで上の様子がよく見えるのだった。今、そこには天刑病の男が立っていて、頭上から私達を見下ろしていた。そこで初めて気が付いた事だが、私も妻も今はあらゆる拘束具を外されて、少なくとも身体の自由は得られている。私は頭上の男を見上げた。どういうつもりだ? 男は言った。「その部屋には通風口がありません。よって、あと数時間で呼吸が出来なくなって、あなた方は確実に死ぬでしょう。だが生き延びる為のたった一つの方法があります。もっとも、助かるのは貴方だけだが」と男は私を見つめた。それから凄惨な微笑を口許に閃かせて続けた。「鍵を見つけて、そこの扉を開けばいい。どうです簡単でしょう?」
私は辺りを見回した、しかし鍵は見当たらない。その代わりに、何故か一本のナイフが床に落ちていた。「鍵はこの部屋の中にあるのか?」と私は訊いた。
「ええ」
私は男が心から楽しんでいる事を発見した。とても悪い予感がする。何だか、息苦しい。それは明らかに緊張のせいだけではなかった。男は数時間と言ったが、早くもこの鋼鉄の部屋には酸素が足りなくなってきているのだ。「どこだ?」焦燥にかられて叫んだ。
「知りたいですか?」やけにゆっくりと男は言った。耐えられない、再度、私は叫ぶ。「教えろ! 早く言え!」
 男はにこやかに頷くと、妻を指さした。私は妻を振り返って見た。妻は適当な衣服を身に付けているだけで、鍵らしき物を持っているようには見えない。妻は震える指先で自分の胸を示した。表情は凍りついたように青ざめていた。愚かにも私にはその意味が分からなかった。そんな私の耳に男の言葉が滑り込んでくるのだった。
「鍵は、先程、貴方の、奥方に、飲み込んで、いただいた。貴方が、助かるには、奥方の、胸を、引き裂いて、鍵を、取り出すしかない」一語一語しっかりと区切って男は言った。
 何を言えばいいだろう? 言うべき事など何もなかった。私は絶望に打ちのめされて、その場にへたり込んでしまった。もうどうでもいい。愛する妻と一緒なら死ぬのも別に悪い事ではないような気がした。私は妻を引き寄せて、声が掠れないように出来るだけ優しく言おうとした、「一緒に・・・」だが、妻は涙を浮かべながら首を横に振った。妻は何度も何かを言いそうになったが、それはどうしても言葉にならないらしくて、結局、彼女が言ったのはこれだけだった、「生きて下さい」そして妻はナイフを差し出した。だが、それは、それだけは受け取れない。私が私であるために、人間であるために。
「一つ言い忘れました」男の声は、ある種の喜悦にうわずっていた。「貴方は生き延びなければならない。貴方には奥方と一緒に死のうなんて、むしのいい話は許されない。ほら、早くナイフを手に取りなさい。さもなければ・・」 娘が連れてこられた。男は娘の頬を舌でなぞり、瞼をねぶった。胸のまだ淡い膨らみを無造作にまさぐり、その手はさらに下っていった。私は顔を背け、目を固く瞑って妻を抱きしめた。こんな現実から逃げ去りたい。私はどうすればいい?
 突然の娘の悲鳴に私は顔を上げざるを得なかった。娘は倒れ込み、唇の端から血を流していた。倒れている娘の腹を男は蹴り上げた。くぐもった呼吸音。男は娘の腹部の同じ場所を何度も何度も蹴りつける。そうしながら、「早く、その部屋から出てきなさい。そうすれば、貴方もこのお嬢さんも助けて上げますよ。約束します」
 妻が私を見つめている。私も妻を見つめている。男は娘の襟首をつかんで引き起し、その顔を殴りつけた。ガラス張りの天井に点々と血が飛び散った。胸を蹴られて娘は吐血しながら倒れた、その時、娘の口から言葉が漏れた、「お父さん、お母さん、助けて」
 私は泣きながら妻の手からナイフを受け取った。妻もまた涙を零し、それでも笑いながら頷いた。言葉は要らない。私はゆっくりと妻の唇に、自分の唇を重ねた。そして、そのまま彼女の心臓に冷たいナイフの刃を滑り込ませたのだった。私は、しばらく命の灯を失っていく妻の身体を抱いたままだったが、ガラスの天井の上で男が娘の髪を引き千切っているのを目にして、死んでしまった妻の胸を縦にナイフで引き裂いた。筋肉の繊維が裂ける音、ナイフの刃が骨にあたる感触、噴き溢れる血液の赤が手を、膝を濡らしてゆく。私は妻の胸から、びくびくと蠕動する胃を取り出すと、それを開いて鍵を探した。だが、どうやら胃の中にはないようだ。今度は腹部を開き、腸を引きずり出した。血と内臓とそれらの放つ強烈な死臭にまみれて私は鍵を探した。妻の肉体のあらゆる場所を破壊しながら私の頭の中では、何かが這い回る音が聴こえていた。私は何をやっているんだ? 男の笑い声が私の脳に直接張り付いて離れない。
「見なさい。あれが、あなたの父親です。あなたの母親を、自分の妻を虐殺している、あれが、あなたの父親です」娘の絶叫! そして私はもはや機械的にその作業を黙々と続けた。
 ふと、手が止まった。私は妻の子宮を凝視した。視界が歪む。汗が喉元を伝わって、私は急激に寒さを感じた。子宮の中に何かが存在している! 私はそれを手に取った。小さな、余りにも小さな生命の萌芽の残骸。それには目が、手指が、認められた。突如、私の周りから音が遠ざかって行った。圧倒的な沈黙。痛覚を伴う静寂。
「鍵を・・・」見つけなければ。今度は妻の喉を切り開いた。その時、どうしても妻の顔を見なくてはならなかった。その顔は美しい、だがその下に綺麗な首も、肩も、胸も、胴も無い。スパゲティーのように腸が絡まっている。切り裂かれた胃が見捨てられた月のように転がっている。肉隗の合間に見え隠れする骨の白さが無機的な光を放っている。後は血、それは今はもう、どす黒く固まって床にこびりついていた。忘れろ。今は。何かが鈍く輝いた。鍵だ! 私はそれを手に取り、よろけながらも、扉に跳びついた。鍵を差し込んで扉を開ける。いや、開けようとしたが、それは開こうとしない。鍵が合わないのだ。「糞っ!」
 その時、頭上でぐしゃりと何かが砕ける音がした。振り仰ぐと、それは男が娘の頭を踏み潰してしまった音だった。私は見た。血と脳漿が、私の頭上のガラスの天井に飛び散って、まるで前衛絵画のように過激で美しい模様を描いている。天刑病の男はげらげら笑いながら私を指差し、勝ち誇るように言った。「くくく、初めから貴方を救おうだなんて考えてはいませんよ。貴方の奥方、あれは馬鹿な女ですね。私の言う通りに、偽物だと気付きもせずに鍵を呑み込みましたよ。よっぽど、貴方を救いたかったのでしょうねえ。まったく、反吐吐きそうな愛という奴ですね。しかし、傑作なのはやはり貴方だ。自分の妻をずたずたにしてしまうとはね。それは人間のする事じゃないでしょう?」
男は、その醜悪な天刑病の男は可哀相な私の娘の死んだ身体に近づくと股を割って、死んだ娘を犯しはじめた。男の言葉は続く。
「さあ、狂気の扉は貴方の為に開いた。踏み込みなさい。そして、新しい世界観を手に入れるのです。貴方になら出来るはずだ。無意識を蹂躪せよ。人間的な象徴秩序をこそアブジェクシオンするのです」男は精液を娘の砕けた顎に迸らせ、高らかに哄笑した。

 私は大文字の言葉を信じない。国家を、社会を、人間を、正義を、そして、悪を信じない。私は幸福を求めない。身の丈にあった生活を、ささやかな暮らしを、愛を、家族を求めただけだ。誰に非難を浴びるような生き方をした覚えはない。私は、私の家族のために生き、そして死ぬ。私にとって、それが生きる意味であり、価値である。それが私の幸せに繋がる。少なくとも、そう信じてきた。一体、誰にそれを奪う権利があるのだろう? 誰に私達を傷つける権利があるだろう? ない。断じて、誰にも、この全宇宙のどこにもいない。だから、守らねばならない。どんな事をしてでも、だ。ああ、私は、今、私でなくなる。
 
「お父さん、遊ぼう、遊ぼう、遊ぼう!」
「こら、お父さんは、お仕事で疲れてるんだから寝かせてあげなさい」     「でも、約束したんだよ」
「仕方ないでしょう。お父さん、毎日忙しいんだから」
「・・・約束したのにナ」
「・・・今、起きるよ。どこか遊びに行こうね」
「ほんとおう? わーい」
「あなた、いいんですか?」
「約束は守らなくちゃね」
「わーい、わーい」

 白濁
                              
                              
                              
                              
                              
                              
                              
           私の腕に天刑病の湿疹が
                         
                              
                              
                              
    私は
                              
            ねばならない                     
                      。                

         BGM・・・REM『AT MY MOST BEAUTIFUL』         ・
                                       ・




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