縁絆物語
ENBAN HISTORY 2005
縁絆コンサート』は、そのスタートから一貫して入場無料のスタイルで開催が継続されてきた。もちろん、何かの行為に応分の支払いが生じるこの娑婆の世で、チケット販売を画策したことが無いとは言えない。だが、『できる時にできることをする』という逆転の発想で、そのジレンマを越えてきた。条件付の制約に縛られているわけではないのだから、できない時はしなければいい。たとえ何年コンサートを休演してようとも、終止符を打たなければ継続中だ。1996年10月、いささか大上段な決意と共に『縁絆』の旗は掲げられた。
以来その決意は、『不可思の会』会員や、手弁当でコンサートの現場に集結するスタッフ、音楽講演のゲストや音楽法話の講師として歌うお坊さん・北條不可思を招いてきた人々によって支えられてきた。
『縁絆』はまた、それ自体がフィールドである。日常生活に全介助を必要とする息子・慈音が社会とつながるフィールドなのだ。会場のどこかに彼の作品が展示されてきた。〔個性〕という言葉で片付けるにはヘビィな自分の障害を受け止める日常のなかで培われた慈音だけの力がある。自分が魅了されてやまない古代文明の地が強引で傲慢な破壊に晒されるさまに顔をしかめた。まっすぐに感じる心で慈音は語る(足で)。「武器をたくさん持っているほうがダメだ」「武器を置いてみんなおうちに帰ろうよ」。まさにプロテストの詩人ではないか。
平成17年10月3日、淺田正博(恵真)和上【龍谷大学教授・文学博士】の西本願寺・勧学昇階祝賀会で『茜雲』他2曲を歌うために北條不可思は妻子と共に京都ブライトンホテルにいた。
『茜雲』は、平成15年度宗学院別科2期生として学んだ折、仏教概論の担当教授であった淺田先生が最終講義として語られたエピソードから着想された(エピソードは淺田先生の御著書『私の歩んだ仏の道』本願寺出版社刊https://www2.hongwanji.or.jp/shuppan/cgi-bin/detail.pl?num=215に収蔵されている)。仮録音した音源を届けた矢先に先生から一通の便りが届く。記念祝賀会で歌ってほしいとの申し出に、光栄以上に分不相応と腰が引けた。それを励ましてくれたのは、「いい曲だ」と語った父の一言だった。賛成も反対もなく、肯定も否定もなく、ギターを下げて出かける住職を、「人縁に恵まれとるんじゃのう」と送り出してくれた前住職がはじめてほめてくれた一言だから。
親父の波乱万丈に巻き込まれて高校中退を余儀なくされた息子が、勧学さまのお招きを受けるという事実の重さを病床の父・了介と、看病の日々を送っていた母・暢子は、万感の思いで受け止めていた。「ご縁、ご縁よ、有り難いことよ」。
祝賀会当日、往生浄土の素懐を遂げていた父のまなざしが脳裏に浮かんだ。時の流れは寄せては返す波のように移ろうが、その繰り返しの中に、言の葉及ばぬ大いなる命は確かに生きている。心に刻まれてゆく物語は綴られる。何かを紡ぎ、何かに育まれていく。
来年10月、『縁絆』の旗は橋を渡る。長島愛生園ではためくために。
【2005.10.15記】
-縁絆コンサート・東京公演プログラムより-
『長島愛生園からの手紙』
________________________________________
茜雲
AKANEGUMO
~生まれ往く者へ~
生まれし場所を後にして 旅の途中で宿り木と
心に決めた砂の城 風に吹かれて足跡もなし
真実と現実と幻と 見分けがつかぬ旅の空
我が身の限りに震えつつ 心のたびは黄昏る
夢見し君は今何処 夢見し夢は今はどこ
Ah-人生の終わりの時 及ばぬ里へ 生まれ往く
旅路の果ての茜雲 擦り切れたブーツに頭を垂れる
もはや我が力と思えぬと 唯ひたすらに荒れ野を往く
夢見し君は今何処 夢見し夢は今はどこ
Ah-人生の終わりの時 及ばぬ里へ 生まれ往く
その人、先に生まれ往き 後の世渡す橋となる
そのあと 生まれし迷い人 訪ねる先の易きかな
夢見し君は今何処 夢見し夢は今はどこ
Ah-人生の終わりの時 及ばぬ里へ 生まれ往く
茜雲~生まれ往く者へ~
呈上
西本願寺・勧学
淺田正博(恵真)和上【龍谷大学教授・文学博士】