❖ 北條不可思 "Song & BowzuMan”『歌うお坊さん』ブログⅡ・愚螺牛雑記 ❖

2009/09/11(金)19:59

蓮如上人・白骨の章 取意自釈(1981)

 東京・築地本願寺(2005年)Pohto Copyright (C) HIDEKI ISHIHARA 石原秀樹  謹みて  心静かに八万四千といわれるお釈迦様の説教の中から、出世の本懐である「本願他力のみ教え」 浄土の法門、阿弥陀如来様の智慧と慈悲のお心を頂き、私共の一生をよくよく見つめてみれば、 もはや、修行と学問を修め、此の世において、成仏の証を完成することのできない末法の世にあって、まさに人の命は儚いもので、 生涯の始まり、中頃、終わり、すべては夢、幻のようなものであります。 すなわち、人間にして一万歳の寿命を受けたということを知りません。 一生は過ぎやすく、未だに誰か百年、二百年も生き長らえた人がありましょうか。死というものは、自分が先か、他人が先か、今日か明日かも分からず、自分より遅れたり、先に死んでゆく人は、木の葉につく雫や露よりもなお多いといいます。しかるに、朝には紅色の顔をしている若者が、もう夕方には死んで白骨になることも、また、事実であります。 まさに、死に至る縁は無量であります。 早くも無常の風が吹いてくれば、ふたつの眼はたちまちに閉じ、ひとつの息は永久に絶えてしまいます。 紅色の顔は虚しく変わって、桃の季節のような美しい姿も消えてしまいます。  その時に至って、親、子、夫婦、兄弟姉妹、師匠、弟子、知人、友人など、縁有る人々が集まり嘆き悲しんでも、決してもとに戻ることはありません。これをお釈迦様は諸行無常と申されました。 そうそう悲しんでもいられず、野外におくって火葬にふせば、そこには唯、白骨のみ残ります。 哀れといっても言い切れないほどの悲しみ、虚しさ、儚さ、寂しさであります。 我等が命の儚さは、老人が先か若人が先か、子供が先か、病の者が先か、健康な者が先か、全く分かりません。その答えは風に舞っているが如くであります。こい願わくば、誰もがはやく、命の尊厳と誇りに目覚め、お釈迦様が説教くださる 無量寿経の教説《阿弥陀佛の大いなる悲願》を心の拠り処とし、「南無阿弥陀佛 ナマンダブ」と念佛を称えつつ、仏教の教えには無い、占いや、まじない、たたり等といった迷信、邪教、外道に迷うことなく、与えられた今日の日をあるがままに生き抜き、名残惜しくとも、この世の縁が尽きて生きる力がなくなり命終わるとき、限りない真実の智慧と慈悲の佛様の心の世界、西方阿弥陀佛国土へ往き生まれるのであります。これを浄土真宗において往生浄土と戴きます。 愚生は、罪業深重にして、学浅く、禿(カムロ=ザンバラ髪の意)の愚かなる念佛の僧侶ではありますが、命がけの尊いご縁を賜った皆様へ筆を取り、心を込めてお便りさせていただきます。  この文章は、混乱混迷の時代に人生を歩む私共へ、善人、悪人、男性、女性、学問知識を問わず、 名誉,地位,財産の有無を離れ、「阿弥陀如来の本願を信じ、念佛申うさば無条件に佛になる」と示され、在野に生き、『野の聖』と呼ばれ、和国 日本佛教の歴史のなかで異彩を放つ浄土真宗宗祖・親鸞聖人の御本意、『教行信証』『歎異抄』の一節を加え、西本願寺第八代蓮如上人の『白骨の御文章』を取意自釈し、法話にかえて書き記させて頂きました。  どうぞ、この佛縁によって、火宅無常の世界を乗り越えさせていただき、いよいよ眞(マコト)の絆となりますよう心から念じております。 弥陀の本願に国境はありません                        南無阿弥陀佛  ー1981年親鸞聖人報恩講を機縁にー                当麻九坊院・眞信山蓮向寺            住職 北條不可思(法名 釋難思) 北條不可思略歴プロファイル北條不可思・Song&BowzuMan* Watch&Thinking *眞信山蓮向寺(AmitaHouseBuddhistChurch)FUKASHIHOJO.COM OFFICIAL SITE FUKASHIHOJO.COM OFFICIAL SITE FUKASHIHOJO.COM OFFICIAL SITE FUKASHIHOJO.COM OFFICIAL SITE FUKASHIHOJO.COM OFFICIAL SITE FUKASHIHOJO.COM OFFICIAL SITE FUKASHIHOJO.COM OFFICIAL SITE FUKASHIHOJO.COM OFFICIAL SITE 

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