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学校法人 埼玉医科大学・社会福祉法人 毛呂病院 理事長丸木清之氏、名誉理事長丸木清浩氏の就任披露の会に出席させて頂きました。感動したのは,丸木清浩名誉理事長のご挨拶でした。
父である丸木清美先生が埼玉医大を創立、川越総合医療センターを開設なさり、丸木清浩名誉理事長は国際医療センター、総合周産期母子医療センターなどを次々と開設されました。医療充実へまい進なさるあくなき情熱の原点を垣間見た思いがしました。埼玉医科大学は埼玉の誇る医大です。昨年は医師国家試験に現役が100%合格しました。 なお、汚い字で書いたメモに基にまとめた文章ですから、不正確な部分があります。お許しください。 ★ 僕は昭和14年生まれ。丸木家は女の子ばかりで、男は僕だけだったせいか、母からは厳しく育てられました。父が横須賀市にある海軍病院の軍医だった時に、母に伴われて横須賀へ行きました。病院に着く前に、米軍機の機銃掃射に遭いました。ものすごい掃射音でした。母と近くの側溝へ逃げたですが、まず私を側溝に隠し、母は私に覆いかぶさったのです。自分が撃たれても僕を守ろうとした母の振る舞いに、僕は「人を信じていいんだ」と思いました。 戦争が終わり、父・清美が埼玉医科大学を創立することになりました。私は事務局長になり、大学のシステム、カリキュラムなどで忙殺される毎日でした。 父が受けた戦前の医学教育と僕が学んだ戦後の新しい教育とでは、大きな差がありました。ですから、父とは絶えず意見が衝突し、それこそ毎日のように、父と怒鳴りあう日々が続きました。 そんななか2年くらいたったころだったと思いますが、僕は肺の破れる気胸を発症してしまいました。 手術そのものは成功したのですが、麻酔や抗生物質投与の影響からでしょうか、今度は劇症肝炎を発症してしまいました。10人のうち8、9人は死んでしまう病気です。 この時、いちかばちかステロイドホルモンを投与したところ、僕は回復し、九死に一生を得て、3週間後に退院することができました。 退院した僕に父は「どうする?」と尋ねました。僕は「みなさんに救ってもらった命です。命にかけて医療に尽くす」と答えました。 世のため人のため生きる決意が固まっていました。でも、数年間、七転八倒する日々が続きました。古い文化を壊し、新しい文化を創ろうとして、僕自身がサンドバッグ状態の毎日が続きました、父は手伝ってくれません。 そんな辛い状況の時に、父から「お前に渡したいものがある」と呼ばれました。 渡されたのは、墨痕鮮やかに「忍」としたためられた1枚の色紙でした。 受け取った時、涙があふれました。 「父は見ていてくれたんだ」「僕の苦労を見ていたんだ」。 いらい、意見の衝突はなくなりました。「こう思うんだけど」と立ち話で、意見調整が済むようになりました。 父が他界して20年になりますが、いつも父がそばにいて僕を見守ってくれている、そういう思いで、僕は歩んできました。「信頼してくれている人がそばにいる」。その思いを抱きながら、「世のため、人のため」尽くし抜いて死ぬんだという決意を振りかざしながら仕事を続けてきて75歳になりました。 これからは、医療と福祉の融合する理想郷をつくることが目標です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.10.15 09:38:06
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