2889184 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X
2015.01.12
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
角栄商店街のアパート

公明新聞兵庫支局勤務から本社政治部に人事異動し、川越市に移り住んだのは昭和59年8月1日である。妻の妹である堀越和美さんが当時、霞ヶ関東に住んでおり、彼女が探してくれたアパートに引っ越した。
アパートは角栄商店街の一角にあった。カクエーストアのある四つ角に面していた。当時、とんかつ屋(後に小僧寿司)の2階の2部屋と、とんかつ屋の奥隣の2部屋が内部でつながっているという変則的な2階建て4部屋を家賃4万円で借り受けた。玄関は2階にあり、1階に勝手口があった。おもしろいつくりである。
長男は、昭和57年12月11日、関西総支局から兵庫支局へ異動する間に生まれた。東大阪市の助産院で誕生し、退院後は西宮市のアパートで育った。その長男は2歳になっていた。
つくづく面白いと思うのは、角栄商店街のアパートに引っ越したその日から妻のつわりが始まったことである。何が面白いのかというと、子ども2人とも、誕生と私の転勤がセットになっていたことである。長女は昭和60年3月に的場駅に近い栗原助産院で誕生した。

アパートの間取りは、2階に6畳と4畳半の和室、1階は4畳半の洋間が2室だった。
2階にお仏壇をご安置したこともあって、家族はほとんど2階にいた。冬場の1階は寒く、夏場は2階の仏間(?)にしかクーラーがなかったためでもある。
しかし、台所は1階にあった。使い勝手が悪く、妻は苦労したようだ。
2階の玄関には外階段がついていたが、その階段を昇る音は、実に大きく響いた。

長女が生まれた時期から、夜10時前後に多くの青年が我が家を訪問してこられるようになった。2階の6畳が客間である。ひどい時などは10人以上が、その部屋にあふれた。
真夜中であるから、訪問者は足音を立てないように細心の注意を払いながら、階段を昇ってくるのだが、それでも必ず音がする。その音が聞こえると、「誰か来た」と言って、妻は6畳間で遊んでいた子どもとおもちゃを抱えて、大急ぎで4畳半の部屋に移動する。
そして、みんなが帰る午前0時過ぎまで、妻と子どもは4畳半の部屋で息を潜めて過ごすことになる。狭い部屋の中で、間違って、長男が、生まれたばかりの長女を踏まないように、妻は注意しなければならなかった(保育用のレンタルベッドは1階にあったが、長女はほとんど2階に寝かせられていた)。

長男は、霞ヶ関駅前のかすみ保育園に通うまでの間、角栄商店街が遊び場だった。どうかすると、妻が電話や洗濯をしているすきに、まだ3歳にもならない長男が外階段を一人で降りて、カクエーストアの中や商店街を走り回っていたということが、しばしばあった。階段を下りると、すぐそこが買い物客も含め、自動車の往来の激しい交差点であるため、肝を冷やしたことが何回もあったそうだ。
長男はカクエーストアで果物を売っていたおじさんや、焼鳥屋のおじさんに随分とかわいがってもらった。永楽鮨のご夫妻には、3歳頃から、ウニやイクラ、トロをご馳走になっていた(この頃から長男は舌が肥えており、妻の料理にもシビアな評価を下す)。

それでも私の育ったアパートに比べれば、広さの点では上回っていた。
私は生まれてから高校1年生の1月まで17年間、姫路城に近い本町の県営住宅の3階で育った。6畳2間、風呂なし、台所と玄関がそれぞれ1畳半の狭いながらも懐かしいアパートである。1部屋にお仏壇と私と弟の机、そして2人の机の間にテレビが置いてあった。もう一部屋には洋服ダンスや整理ダンス、卓袱台がり、父母はその部屋に寝て、私たち兄弟は机の部屋に寝た。
父は神戸銀行(当時)に勤め、行員の皆さんからは慕われながらも、退職するまで全く出世しなかったという気骨のある(?)人物だった。母は病弱で、ネクタイを織る内職やアイスクリームのカップを作る内職などをしながら家計を支えていた。
母は昭和36年8月、私が小学校2年生の時に創価学会に入会。いらい、見違えるように元気になり、私が小学校5年生になった頃からは自転車に乗る稽古をして、化粧品のセールスをするようになった。シャンソン化粧品である。アパートの庭で遊んでいて、夕方近くになると、前と後ろの自転車かごに化粧品の箱を積んだ母が帰ってくる。「きょうはようけこうてもろた(たくさん買ってもらった)」とか話す母に、弟と2人で「おみやげは」と言いながらまとわりついたものだ。
母のセールスのおかげで私は5年生の夏から学習塾に通わせてもらった。塾に通うのも母の自転車だったから、朝から夜10時頃までフル回転だった。
おみやげの話についでに書くと、父は冬場になると、「御座候」をよくおみやげに買って帰ってくれた。「御座候はぬくい(温かい)から、手もぬくうなるからええ(温かくなるからいい)」と語ってくれた父の笑顔と声が懐かしい。
私は、本当に平凡な庶民の子どもである。そして、私の子どもも、小僧寿司の2階に住んでいた庶民の子どもである。

若くして逝去なさった加藤治美さん(元霞ヶ関南自治会会長)もよく我が家を訪問してくださった。川越に来てから5年近く私は自動車免許がなかったため、加藤さんや藤生典司さんたちに、早朝から深夜まで、何10回、何100回も車に乗せていただたか分からない。本当に親切にしていただいた。感謝に堪えない。

もう一つ面白いというか、不思議な出来事の思い出が、このアパートにはある。
ある日突然、妻のハンドバッグがなくなった。バッグには財布が入っており、いくばくかの現金や妻の運転免許証や銀行のカードなどが入っていた。一大事である。私はその話を聞いた時に、長男が2階の窓から外に放り投げ、だれかの手に渡ってしまい、もう戻らないのではないかと推測し、大事なものから目を離した妻を非難がましい目で見たような記憶がある。
途方に暮れた妻は、東松山市に住むおばあちゃん(長島ひさじ=故人)に「どうしよう。警察に連絡しなきゃ」と相談した。妻から話を聞いたおばあちゃんの言葉がふるっている。「そんな必要はない。戻ってくるように祈ればいいんだ」と妻に言ったのである。
「祈ればいい」って?
いくら昭和28年入会の信心強盛なおばあちゃんの言葉とはいえ、仏法は道理である。妻は明日にでも警察に届けようと思ったそうだ。

しかし、妻は半信半疑ながら、それでも真剣に祈った。すると、翌日、千葉県から小包みが届いた。差出人の名前は書いていない。「何だろう」と空けてみると、妻のハンドバッグが入っていた。中身はなくなる前のままで、財布のお金も1円も減っていない。
そんな話を妻が報告した時のおばあちゃんの言葉がまたすごい。
「おばあちゃん、バッグが出てきた」と話す妻に、何と言ったか。「当たり前だ」の一言が返ってきたというのだ。すごい信心である。
おそらく郵送してくださった人は、幌のないトラックを運転していて、長男が窓から投げたバッグは、その荷台に落ちたのではないかと思ったりするが、あくまでも推測の域を出ない。
「バッグがどうして我が家から消えたのか?」「そして小包で戻ってくるまでの経緯は?」
永遠に解くことのできない謎であり、人の良心に触れた、ありがたい思い出である。
お礼をしようにも、千葉県の消印があるだけで、どなたが送ってくださったのか分からないことだけが、心残りである。

久しぶりに永楽鮨にお邪魔して、ついつい筆が進んでしまった。
http://n-fukunaga.seesaa.net/article/7026205.html





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015.01.13 04:19:02
コメント(0) | コメントを書く


PR

カレンダー

日記/記事の投稿

フリーページ


© Rakuten Group, Inc.
X