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前々回、「高橋紹運以下将兵700余名が、島津勢5万の大軍に対し、徹底抗戦し、城を枕に玉砕した。」とお伝えしました。また、紹運首塚のお話しもしましたが、こんな異説が出てきましたのでお伝えします。『高橋記』という軍記には、紹運が再三にわたる島津勢からの降伏勧告を拒否したとされていますが、これより史料価値の高い島津氏重臣の上井覚兼の日記には、城を明け渡さないことを条件に、自ら降伏したいという紹運側からの和睦要請があったとされています。結局、島津側がこれを拒否したため、紹運は止む無く城に立てこもり、討ち死にしたという訳です。私は、紹運首塚の写真を撮りに行ったとき、城方700余名を道連れにする武将って、一体何だろうと思ってしまいました。城方には、婦女子、高齢者もいたはずです。きっと、紹運は自分は首を刎ねられても、将兵の命だけは助けたかったのです。また、紹運にはこんな辞世の句があることも判りました。「屍をば岩屋の苔に埋めてぞ雲井の空に名を留むべき」先に紹介した辞世の句のほうがよく知られているようです。
★写真の墓は、岩屋城下、四王寺山頂上付近の山道横にあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年07月10日 09時05分00秒
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