尖閣諸島
1743年に清の乾隆帝の命により編纂された地理書『大清一統志』の第335巻と同「台湾府図」において尖閣群島は台湾付属島嶼ではないと記されている。1842年完成の「第三次編」は全560巻に及び、そこには台湾府の北東端が「鶏籠城」(現基隆市)と記され、また同本に収録の「台湾府図」も「鶏籠城界(境)」と書かれている1895年 1月14日:日本政府が尖閣諸島の沖縄県への編入を非公開の閣議で決定し、正式に日本領とした。しかし、この決定は尖閣諸島を今まで領土と主張した国がないことから周辺国には特に伝えられなかった。1920年:中華民国駐長崎領事・馮冕より魚釣島に漂着した遭難者(福建省恵安の漁民)の救護に対し、当時の石垣村長・豊川善佐、石垣村衛生係雇・富田孫伴こと玉代勢孫伴(たまよせそんばん)、尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎の子息の古賀善次らに感謝状が贈られる。 それには尖閣諸島のことが「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていた。1953年 1月8日:中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が資料欄において、「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事を掲載。尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し、琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介する。1958年11月:北京の地図出版社、『世界地図集』発行。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。1965年10月:中華民国国防研究院、『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。1968年 10月12日 - 11月29日:日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される。現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている。1969年 中華人民共和国が中国共産党現在主張している「釣魚台」ではなく、日本が主張している通りの「尖閣諸島」と明記した地図を発行する1970年 1月:中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」(1970年1月初版)において尖閣諸島は日本領として扱われ、「尖閣群島」という日本名で表記されている。1971年 6月11日:中華民国(台湾)が外交部声明という形で尖閣諸島の領有権を主張。12月30日:中華人民共和国が外交部声明という形で尖閣諸島の領有権を主張。1972年 7月28日:日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている9月27日:日中国交正常化交渉のため中国を訪問した田中角栄内閣総理大臣と周恩来国務院総理との第三回首脳会談の中で周恩来は石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。と述べている1992年2月25日:中華人民共和国領海法制定。 釣魚列島(尖閣諸島)が自国領であると記載。2008年9月24日:沖縄に訪問中の李登輝元台湾総統が「尖閣諸島は日本の領土」と発言。2004年 1月: 台湾当局が魚釣島を土地登記 琉球列島と尖閣諸島は、沖縄トラフを隔てた両側に位置しており、年々その距離は遠ざかっている。東シナ海ガス田問題の時の中国の発表の中の、領海の線引きでも尖閣諸島は、日本になっていた。まあ、1,000億バレル以上の埋蔵量とされる、石油資源が発見されたことにより態度がコロッと変わったのは言うまでもないよね。ただ、この問題が解決した頃には、石油が不必要な世の中になっている可能性もあるよね。