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カテゴリ:覚書
食物連鎖と窒素循環は、同じ事柄を別の側面から眺めた光景と云ってもよい。 生き物というレベルで見れば食物連鎖といえるし、それを栄養物・更には分子化合物という レベルまで分解していけば、窒素循環という側面が見えてくる。 生物的窒素固定と非生物的窒素固定の割合が、ほぼ2対1だという数字に皆さんは、どんな 感想を抱いただろうか? 生物的窒素固定の割合が意外と多いことに驚いたか、それとも意外と少ないことに驚いただ ろうか? ところで人が、初めて人工的にアンモニアを作ったのが18世紀末、ハーバー=ボッシュ法 による工業的製法が確立したのが20世紀初め。それ以前は何十億年にもわたって、地球上 の全生命の代謝活動に不可欠の窒素は、もっぱら生物的窒素固定に依存していた。しかも大 気中の約八割を窒素が占めているにもかかわらず、いまのところ窒素固定細菌以外のどんな 生物にも、空中窒素を体内に取り込み代謝活動に利用できる能力はないと考えられている。 一方、動植物の身体構成の最大割合を占めている炭素にしても、高等動物は大気および土壌 中の炭素を体内に取り込んで代謝活動に利用できる能力を持っていない。かくて動物は植物 に依存し、植物は窒素固定細菌に依存しなければ代謝活動を維持できない。 従って、地球規模の窒素循環とは、生命活動という姿をかりた物質循環と言い換えて良いの ではないか。 この窒素循環において、われわれ人が果たしている役割は、穀物・野菜・果物・肉などの 高分子化合物を取り入れて、やや低分子の化合物として排出するだけである。 かつては、この低分子の化合物(簡単に云えば糞尿)を、そのまま土壌に戻したか、あるい は半年なり一年なり腐熟させた後に土壌に還元したけれど、現在では大掛かりな工業的迂回 路を作り、幾重にも入り組んだ化学的副回路を経由して、結局は土壌に戻している。 参考:この近代的迂回路を垣間見たい方は、「講読の部屋」の「ウンコに学べ!」を 参照されたし。近代的迂回路の奇妙さを筆者は、次のように皮肉っている。 「もしわたしが壺に放尿しその壺の水を飲んだら、誰もがわたしを「気違い」という だろう。もしわたしが工学技術の粋を尽くして尿を池に運び、汚した池のその水を飲む のだといってまたも技術の粋を尽くした浄化装置を取り付けたら、人々は何というだろ うか。「これは大変な気違いだ」というだろう。....ところがこれを真面目に行って いるのが現在の水洗トイレと下水道のシステムだ。」 もしも我々が、環境保全型の農業(我々は、結局は、農業を通してしか代謝活動に不可欠な 炭素も窒素も取り込むことは出来ないのだ)を真剣に考えるなら、「地球に優しい生活」を 実践したいのなら、微生物の代謝活動に直接依存するもっと簡便な方法で、自分の排出物を 土壌に還元する方法の開発にとり組まなければならない。農業者などの個人的努力で、これ を実現するとなると、なかなかシビアな選択が避けられない。 一方、田畑に有機物を積極的に投入しなければならないのは、近代的迂回路・化学的副回路 を通して、「ウンコ」を田畑の外に持ち出してしまい、炭素・窒素の地球上の大循環の外に は排出出来ないものの、田畑を中心とした小循環の系外に排出して、炭素・窒素循環の流れ に偏頗な偏りを引き起こしているためだ。 ところで、ウンコとは何か? 我々が、自分の体内に取り入れた高分子の有機化合物を、酵素の力をかりて分解し、消化吸 収器官の細胞が吸収した残りかす。分解できずに大きいままで細胞が吸収できなかったか、 吸収能力を超えていたか、いずれにせよやや低分子化した有機化合物。 前回の最後に、無機質肥料にせよ有機質肥料にせよ、いったんは微生物回路を経由して無機 化されなければ植物根には吸収できないと書いた。 なぜか? 高分子の有機化合物は、要するに大きすぎて細胞膜の穴を通過できないと思えばよい。 有機化合物は、炭素と炭素が鎖状につながって、その周辺に酸素、水素、窒素、リン、カル シウムなどをくっつけた構造をしている。その構造物がでか過ぎて細胞膜を通過できないか ら、炭素の鎖を切り離し、細胞膜(植物では、その前に細胞壁がある)を通過できる程度の 小さなばらばらの化合物に変換する必要がある。その過程が無機化であり、炭素の鎖を切り 離す鋏の役割を果たしているのが酵素であり、土壌微生物である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006/02/08 07:32:43 PM
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