志願理由書の指導
志願理由書、自己推薦書、エントリーシートの類の指導について原則として、自分で「考え」「自己分析し」「書く」ことが大事だ。そうすることで、自分の中の「無意識」「無自覚」と向き合うことになる。その過程が大事なのだ。また、それは同時に面接の対策になる。かつては、志願理由書を初め、小論文などの指導で、私が模範回答を書いていた時期もあった。当時の塾長に頼まれたのだから仕方ない。最後は私が模範回答を渡して覚えてもらう。テーマ1本あたり1週間は自分でも作文に取り組んでもらう。それが条件だった。小論文入試なら、1年前から準備して出そうなテーマ30本分も模範回答を作っておけば、かなりの確率で当たる。その方法で何人も大学に送り込んだ。ましてや、最初からテーマが開示されているケースなら楽勝だ。もう時効だと思うが、某関関同立の推薦において、自己推薦書を提出するだけという謎入試があった。生徒は推薦書どころか絵日記でも書けるのかというレベル。自己推薦書だけが合否を左右するのならば私が書くしかない。当然受かる。意図せず、私の作文がそのまま送られたケースもある。某県立大学の推薦入試において、高校からの生徒推薦書が必要だったことがある。某私立高校の担任が「こういうの苦手だから、塾の先生にでも一回書いてもらってみて。それを参考に書くから。」と仰られたと生徒が言うので、「はぁ?先生、仕事放棄しすぎやろ。」と文句を言いながらも作文した。生徒がそれを持っていくと「なにこれ、こんなにうまく書けない。このまま提出しよう。」となったらしい。しかし、私が塾代表になってからは、一切、代作はしていない。一つには、小論文入試も長きに渡り行われてきて、昔のように典型的なテーマが出にくくなったというのもある。しかし何より本人のためにならないと思うようになったからだ。最後には私が書く。それがわかっていると生徒は努力しているふり、考えているふりをする。それでは駄目なのだ。作文を通して自分と向き合う。ひとつのテーマについて、日々、折りに触れ、常時、考える。また、生半可なことを書く度、私につっこまれる。否定される。作文という作業を通じて、自分の中の無意識、無自覚が掘り起こされる。それはともすると、本当に私はそうしたいのか、本当にその道に向いているかという根本的な疑問にもつながる。今まで自分がいかに何も考えてなかったのかという自己否定さえも生まれる。しかし、それも含めてあらためて考える。そうすることで、その道に進もうという自覚が促される。考えるという学習の基本姿勢が生まれる。それが作文なのだと思う。某アニメキャラクター風に言うなら「助けないよ。力を貸すだけ。君が1人で勝手に助かるだけだよ。」「どんなに重かろうと、それは君が背負わなければいけないものだ。他人任せにしちゃーいけないね。」ということになる。以前、れいめい塾のかほさん(鳥取大学獣医学部)の小論文を担当したことがある。1年近く、私の指導によくついてきてくれた。かほさんは入試が終わった後、私に礼状をくれた。「小論文の指導を通して、双葉の壁に掲げられている「日々是学習」の意味がわかった気がします。」とあった。塾人生の中で、ベスト10に入るほど、嬉しかった。こちらも参考にしてください。■志願理由書の書き方■実例1■実例2