『羊と鋼の森』 宮下奈都 著
一瞬の出会いが人生を決めてしまうことがある。けれどそれは、本当にたまたまの偶然だったのか。出会うべくして出会うものだったのか。主人公外村は、高校で、調律にやってきた板鳥の調律に魅了されて、調律師を目指す。調律の専門学校を出た外村は、板鳥の勤める楽器店に就職し、調律師を目指す。調律の道は厳しく、音の世界は果てしなく深い。ピアニストになることをあきらめた秋野(会社の先輩その1)は、楽器の音の中で育ち、楽器の音をみごとに聴き分ける。人間の決めた音階だけを聴き取ることができるから、それが仕事の速さにもつながっている。公衆電話の黄緑色さえ気持ち悪いと感じるほどの柳(会社の先輩その2)は、音や色、ものに対しての感度がとても高い。ものすごい感性をもっている。それは、彼にはつらいもので、都会の中の人の作る音に囲まれて、つらい青春を送らなければならなかった。けれど、そんな感覚がプラスになる仕事というものがあるもので、彼の感度の良さが調律の道につながっていく。そして、山村に育ち、多くの時間を北海道の大自然の森の中で過ごしてきた主人公の外村は、世界のすべての音を聴き分けることのできる感性と聴力を持っていた。楽器に触れずに育ったことで、楽器の音だけに縛られない。街で育たなかったことで、人間界の音にも縛られない。人為的な音の一切ない森の中で、微妙な自然界の音、世界のすべての音を聴き分ける力を身につけて育つ。それゆえに、感度がよすぎて、普通の人が聞き取れない、聞き漏らしてしまうような微細な音も聴き取ってしまうことが、調律にマイナスに働いてしまう。機械すら読み取らないような微細な音まで聴いてしまう故に、音が決められず、調律に時間がかかってしまうのだ。ピアノと同じ部屋に中に、布が一枚入るだけでも変わる音の微妙な差と変化を、彼は聴き分けてしまう。それは、絶対音感よりさらに深い、究極の音感なのではないかと思う。最初は初心者ゆえに、戸惑い、音を決められないのは、自分の能力の低さだと思っている。けれど、たくさんの経験をつむ中で、微妙な調律の設定の差が、音の差を生みだすことを知り、望まれる音の見つけ方を少しづつ理解していく。都会の空では、星座になるような大きな星しか見えないけれど、北海道の自然の中の、人界の光の一切ない真の闇の中に浮かび上がる星空が、星座になる大きな星すら埋め尽くしてしまうほどの細かい小さな星々まで見られるそんな夜空を見るように、外村は、音の世界を聴き取ってしまう。普通の人間では聴き分けられないような音の世界の、まるで森のように、ピアノの音の世界を深く深く、限りない美しい世界を、ただ、彼だけが視ることができる。森の中ではねるシカのように、光を放つ木々のように、草と葉のあいだをぬける風のように。そして、今まで誰も聴き取れず、誰も作れなかった音の世界を、誰もが聞き取れるピアノの音として、再現できたとしたら、それこそが、究極の調律なのかもしれない。それができるのが、外村だとしたら、それはとても素晴らしいこと。そんな彼を、見つけたのが、板鳥さんで、天才(外村)は天才(板鳥)にしか見つけられない。のだと思う。普段なかなか出会うことも知ることもできないような仕事を、紹介してくれるような小説やドラマが、最近増えたなあと思う。この作品も、調律というあまりかかわることも知ることもできない仕事を、実にみごとに実に細やかに教えてくれたありがたい小説です。◆◆羊と鋼の森 上巻 / 水谷愛/漫画 宮下奈都/原作 / 小学館