ふつうの生活 ふつうのパラダイス

2018/09/02(日)20:08

映画原作の小説『博士の愛した数式』

読書ノート(71)

原作読み終わりました。だからこれはレビューではなくて、読書感想文です。 ネタバレ100パーセントです。 原作を読み通してもやはり恋物語でした。 そして小説の方は映画よりもっとわかりにくい。しかもオイラーの公式の-1もでてこないし。さらにわかりにくいかも。 ある意味映画の方が謎解きはしやすくなっていました。それでもかなりわかりにくいのですが。 とにかく作中における罠のかけ方は絶妙です。一見、博士と家政婦の心の交流を描いているように見えるのに、その後ろ側にきれいに博士と義姉の恋の物語が隠されています。二人の恋を読み解くヒントが本当に何箇所かに少しだけ、宝箱を隠すように配置されているのです。よほど気をつけて読んでいないと見落としてしまいそうでした。 映画では杏子と名前が出てくるようなのですが、小説では最後まで「私」だったようです。登場人物の名前が一度もでてきません。「私」と「博士」と「ルート」そして義理の姉の「N」のほぼ四人が物語の登場人物です。しかも原作には二人の子供を失うエピソードもありません。 だからこの二人の恋を読み解くのは、なかな難しくてまるでミステリーか宝探しのようでした。 しかも前半部分で、「義姉にとっては邪魔なだけの役立たずの弟を持った未亡人」とか、「かつては優秀な数学者ではあったけど、今は記憶障害の役立たずの風采の悪い年寄りの博士」と言うような表現で読者に真実が見えないように巧妙な言葉の罠が仕掛けられています。 しかし、読んでいくとあれ?と思うわけです。もしかしてこの博士はすごくいい男なのかも。注意して読むと「顔は美男子で彫りが深い」と書いてあります。 童話の「かえるになった王子様」とか、「美女と野獣」の話を思い出しました。 博士はもしかして魔法にかけられて醜く見えるけど、本当はかっこいい王子さまなのかも。 かつて若い頃、義姉と博士が出会った時はまだ博士は若くて才能豊かで自信満々のかっこいい男だったのでしょう。そして博士の語る数字の話が「わたし」を魅了したように、若い義姉もまた博士の語る数の話にすっかり心奪われてしまったのかもしれません。八歳も年下の義理の弟であったにもかかわらず。そして博士も普通の人がいやがる博士の数の話を熱心に聞いてくれる義姉にいつか恋心を抱くようになったのかもしれません。 さて、「私」が博士に出会った時はすでに魔法がかけられていて、役立たずのただのじじいです。しかし、母子家庭に育ち、自らもまた父親のない私生児を生んで育てているという逆境にある苦労人の主人公には、人間の本当の姿を見抜く力と、その若さでは本来持ち得ない受容と寛容と忍耐をもっていたのでした。そして一見、父親を持たない「私」は見た事のない自分の父親の代理としてあるいは人間的友愛によって博士に惹かれているようにみえます。しかし、真実を見抜く目をもつ彼女にとっては、本当は博士への愛情は恋に近いものだったのかもしれません。 いまでも、博士を愛する義姉はするどい女の感でそのあたりを看破していたのかもしれません。 博士の家に泊まりこんだ「私」や、解雇した後まで息子をおくりこんでくる「私」に対して、激しい嫉妬を表す義姉。しかし、この時まだ博士と義姉の関係を知らない主人公には、なぜここまで義姉が怒り出すのかわかりません。それにもかかわらず義姉の態度が嫉妬である事をやはり女の感で見抜いていたのです。 その後「私」は博士と義姉の関係を、家の中に巧妙に隠された論文の中の博士の書き込みや、写真によって知る事になります。 やがて、博士の記憶は80分すらもたなくなっていきます。 作者は小説の中で数式を「神が編んだ美しいレース編み」と表現しています。読んでいてやけに気合の入った描写だなと思ったのですが、その後博士が自らアイロンがけしたテーブルクロスを自身が汚してしまいます。 「美しいレース」のテーブルクロスは博士の落としたケーキのしみによって汚れ、それは「私」にも「ルート」にも読者にも不安な予感を漂わせています。博士はもう美しいレース編みを見つける事も作り出すこともできなくなっていたのです。 その後、博士は専門の医療施設にはいります。 博士を時折訪ねていく主人公に、義姉は「博士の記憶の中にもうあなたはとどまることはできない。彼の中に残るのはもうこれから、私だけです。」と告げます。それは義姉の恋の勝利をつげる言葉です。 義姉にとって博士の記憶障害はこの上ない幸せの姿なのでした。もうだれも私の愛する人を捕まえる事はできない。彼はもう永遠にわたしだけのものなのだ。と。 あまりにも淡くあまりにもゆったりと描かれているために、二人の女の戦いはちょっとわかりにくいかもしれません。 博士の記憶障害は、博士にとっても義姉にとっても、必ずしも不幸なものではなかったのかもしれません。 正常であれば、長い時間の間に恋は憎しみにかわることもあります。色あせてさめてしまうこともあります。 恋愛結婚した夫婦が長い結婚生活の間に、お互いの気持ちのずれに傷ついて行くような恋の結末を、この二人は味わうことがありません。 義姉はこのとき73歳。これほどの高齢になってまでまだその恋情を失わずに要るというのは、ちょっと驚きなのですが、それが納得いくのも見事に仕掛けられたこの罠のせいでしょうか。 ルートの父親が電気工学を勉強する理系の学生であった事を思えば、博士が「私」の好みの男性像に近かったのは想像に難くないと思えるのです。18あるいは19才でルートを生んでいるわけですから「私」は多分29才くらい。73才と64才と29才。恋に年齢はないようです。 博士が大学を出たばかりでなくなった兄。それから事故がおきるまでの20年ほどの年月の間いったいこの二人は何をしていたのか。イマドキならさっさと結婚しちゃうと思うのですが。やはり義理の関係であると言う道徳観やなんかがあったのかなぁ。別々に暮らしていたのでしょうかね。それで二人で出かけて途中での事故。 この事故は二人にとって兄からの制裁あるいは神からの罰だろうと思えたかもしれません。 二人が出かけようとしたのが、映画の中では薪能「江口」でした。事故がおきたのは午後四時ごろですから 二人は能を見る前に事故にあっている事になります。本当にこのあたりの謎解き楽じゃありませんね。 と言うことは映画で二人が能を見ているのはルートたちによって和解した後なのでしょうか。小説には能を見に行ったとは書いてないのです。 そして映画の中で能「江口」はオイラーの公式の謎解きのための重要なエピソードであったようです。 事故の後完全に接点を断ち切っていた二人。博士は一生義姉に封印した自分の思いを告げずにいるつもりだったかもしれません。その封印を解いたのはルートとルートを愛する博士の優しさでした。一生封印されて告げられるはずのなかった博士の愛はルートによって解かれるのです。 そして最後のパーティーで博士に渡される野球カードは、「私」を忘れさったはずの博士の胸で、最後まで彼女の存在を残す重要なキーアイテムとなります。なぜここまで必死に野球カードを探すのか読んでいて不思議だったのです。それは見事なまでの主人公の執念ですらあったのです。 後年、完全に義姉のものとなった博士の中で、主人公が渡した野球カードは、唯一許された「私」の恋の象徴として、ずっと存在し続けるのでしょうか。 博士の愛を確信した義姉は後半かなりな寛容で「私」に接してくれます。 作中に仕掛けられた数々の仕組みと罠は、一つ一つの何気ないエピソード、博士の語る素数の話の中にまで、実に巧妙に仕掛けられています。 気合で一つももらさず読み取ってほしいと思います。 数学、数字、数式までをここまで見事な愛憎劇の道具にしてしまうあたり、小説家っていうのはすごいですね。 まあ、愛憎劇なんて下世話な見方をせずに、ほのぼの楽しく読んだほうがいいかもしれませんけどね。 この記事を評価する ブログルポ投稿中の記事 ★ 『地球幼年期の終わり』 ★ 映画原作の小説『博士の愛した数式』 ★ 『博士の愛した数式』 ★ 美術は大事 ★ 言葉はナマモノ ★ 『男たちの大和』その2 ★ 女の子の世界はむずかしい ★ 『東大法学部』 ★ 教えられたようにヒトは行動する ★ ノー ボーダー ★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか ★ 女の人は本当に働きたいのか 映画の感想その1 映画の感想その2

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